金沢の生物多様性:秋に学ぶ教訓

秋のさわやかな風が金沢の街を吹き抜ける頃、白山や加越山地の山々に初雪が舞い降り、稜線が輝きはじめる。街を取り囲む丘は深紅と黄金色に彩られ、秋の雨が金沢の街に戻ると、しとしとと降る雨音や水の景色が街にあふれだす。

2本の大きな川が流れる金沢市は、豊かな水に恵まれた街だ。雨は、源流の森の木々の根に、落ち葉に、藻に、朽ちた木に貯められ、土に染みこみ、泉の源となる。その水は再びせせらぎとなり川となって下流の果樹園や畑や水田に流れ、市街を通り抜けて河北潟へ、そして海へと流れ込む。

日本三霊山の1つ白山は九頭竜川、長良川、庄川の4水系の源流であるため長く水の神として崇拝されてきたのも当然であろう。

和紙、金沢箔、加賀友禅、酒、醤油など数多くの伝統産業はこの地域の水源あってのものだ。秋の訪れはこのような産業の製造工程の始まりを意味する。なぜなら水が澄みきるのは寒い月のことだからだ。生物多様性は金沢の伝統工芸をあらゆる面で支えており、例えば森による水の調整機能、原料となる植物の提供、地元の食文化の中心である発酵食品の発酵過程に必要なな多様な微生物の作用などである。

また水は都市の景観における主な特徴にもなっている。水路が入り組んで走り、そこに植物、魚、鳥、昆虫が生息し、街の審美的価値をも高めている。

写真:村上涼

写真:村上涼

二俣和紙:水と伝統工芸

秋の終わりの澄みきった冷たい流水は、医王山麓の二俣での和紙作りには欠かせない。二俣和紙はかつて加賀藩に献上されていたものである。三面を山に囲まれた長方形の二俣町は2つの川が1つに合流して森下川となる場所に位置している。

和紙は全ての工程で大量の水を使用する。まず材料の枝を蒸して皮をはぎ、今度は水に漬けて外側の黒皮をはぐ。次に内側の白皮を洗い、流水に浸し煮沸する。繊維が柔らかく分離するようになったら水とトロロアオイという植物の根から採取される透明の粘液を混ぜ、次に棒で丁寧にたたき、その後、竹を細かく編んだ簀(す)の上に平均にゆきわたるように広げ紙をすく。桁を持ち上げて水分を流し、後に圧搾機で水を絞る。

1868年の明治維新後、二俣の伝統の和紙作りは加賀藩の庇護を失い、機械で作られた西洋紙への需要が高まったため衰退の一途をたどった。

二俣町に残る3人の和紙職人の1人、斉藤博氏が水の中で前後に一定のリズムで桁を揺する音を聞いていると、かつては村を満たしていたであろう魅惑的な水音のシンフォニーに思いがめぐる。

日本の和紙作りは季節の自然のリズムと結びついている。それは、米の収穫が終わる秋に始まり寒い季節に得られる資源を利用する。紙作りには冷たい流水が必要なだけでなく、材料となる植物の仕込みも秋と冬に行われる。和紙作りの主な原料はコウゾ、香りのよい下向きの黄色の花をつける落葉低木ミツマタ、野生でしか育たない珍しい種ガンピである。

それらの枝は秋深く、葉が落ちた頃に収穫される。また、和紙職人は同じ時期にコウゾの古い根を植える。これから再び紙の原料にできるやぶになって刈り取れるようになるまで5年はかかる。そして秋は、近くの森でトトロアオイがより上質で丈夫な紙を作るために最良の状態になる時期でもある。

和紙作りに使われるこれらの樹種は地元の独特な環境に強く影響を受けるといわれる。各地で作られる独自の和紙は、水、土、気候と最高品質を目指す職人のモノを選ぶ目が神秘的に組み合わされてできたものである。江戸時代には二俣町は加賀藩主に様々な種類の紙を献上しており、滑らかな質感の紙、公式書類とする厚めの紙、式典で書かれる書式や、書道、木版画に使われる柔らかい紙、贈答品の包装やふすまや障子に使う、しわ加工入りの紙、着物を縫う金糸や銀糸の芯となる紙などがあった。

今日でも金沢では、天然の繊維を使った手作りの和紙はその用途の多さや温かみ、そしてまるで絡まりあう繊維が内側から透けて輝いて見えるような感じが愛され続けている。和紙が今でも存在していることは、その日本の文化との深い関わりを示すものだ。包装に和紙を使うと、その色合いや包み方と相まって、贈り物の魅力が増す。手紙を書く習慣が今も生き続けるこの国の文化では手作りの紙は重要な手紙のやり取りでは欠かせないものである。手紙は美しい毛筆で所定の礼儀作法にかなった書き方がされ、たいていは季節の挨拶で始まる。

用途多様な紙はまたどのような形にも機能にも合わせて利用でき、金沢の他の伝統工芸にも欠かせないものである。それは、金箔の間に挟む1000分の1ミリの薄さの澄打(すみうち)紙から着物を飾るバッグや手提げの縁取りをする丈夫なものまで様々だ。

酒:水、多様な微生物、文化

10月に酒造りの季節になると、金沢の酒造家は、卯辰山の松尾神社(京都の松尾大社を総本社とする水と神を祭る神社)を訪れる。それぞれの造り酒屋には、しめ縄と紙垂を飾った小さな神棚があり、やはり酒の神を祭っている。晩秋になり新しい酒造りがいよいよ始まると、杉の葉を束ねた杉玉が造り酒屋の軒下に飾られる。日がたつにつれ、緑の杉玉はゆっくりと茶色に変わっていき、酒造りが進んでいることを表す。この杉玉は酒林とも呼ばれ、伝統的には、山、収穫、雷と関わりの深い酒の神を祭る奈良県大神(おおみわ)神社から配られるものだ。この酒造りの守護神であるこの杉玉の性質は、酒にとって水と健全で生物多様な森の存在がいかに大切かを示している。

水は工程の全てにおいて欠かせないもので、出来上がった酒の80パーセントは水でできている。日本における歴史的に重要な酒どころは上質の水が豊富にある稲作地帯で発展してきた。地元特有の水が酒の風味の違いを生み出す。金沢の酒は白山の古代の岩を何層も通ってきた伏流水を使っている。これは発酵が促進されやすい硬度の高い水である。

白山の周りの地域は、酒どころとしての長い歴史を誇る。16世紀頃にはそれぞれの地域の酒が人気だったが、加賀藩は「菊酒」で有名だった。

金沢では、白山の雪解け水を街へ届ける犀川沿いに造り酒屋が軒を並べていた。寒い季節に蔵人が川から水を汲み上げる様子は20世紀初旬まではこの街になくてはならない情景だった。

酒造りは晩秋から冬にかけて行われる。この頃の水が一番澄んでおり、安定した温度のおかげで他の原料(米、麹、酵母)が効果的に作用するからだ。酒造りには水が非常に重要だが、第一の要となるのは麹づくり。第二は「もと」(麹と蒸米と水、酵母菌を入れて出来た酒母)、第三が技術だ。

写真:村上涼

写真:村上涼

金沢の酒の味わいは、ミネラルを多く含む水、発酵に適した気候、微生物の多様性などいくつかの自然環境の相互作用によるものだ。そしてそれらを総合的に管理するのが蔵人の頭、杜氏の腕だ。麹菌の成長具合をどう管理するか、どの酵母を使うかは酒の味に大きな影響を与える。酒は麹なしでは作れない。麹は米のでんぷんをブドウ糖に変え、甘い白い粉を吹いたような麹米にする。麹にさらに蒸米と水を混ぜ、麹菌が糖化した糖分をアルコールその他の物質に変える。

同じ材料でも酵母が異なれば作り出す化合物も異なり酒の香りが決まる。かつてはそれぞれの蔵元に長く住みついている独自の酵母を繁殖させていたが、明治時代になって日本醸造協会が各地の蔵元に上質の酵母を特定し、推進し、頒布するようになった。

酒の風味の多様性は、環境の多様性だけではなく蔵元と原料の関係によっても様々だ。そして地元の好み、製造の伝統、人の直感によって影響を受ける。金沢の酒の味は多様だが、この地域全体のおおまかな酒の特徴と一致している。きりっとした濃厚な味わいで、ここ数十年ほどで辛さを増してきた。フルーティな香りでさわやかな味わいのものから、濃厚な米の香りでコクがある重厚な味のものに至るまで種類豊富な金沢の酒には、水のうまさと静かな微生物の働き、職人の技が複雑に絡み合った味わいなのである。

“酒造りは晩秋から冬にかけて行われる。この頃の水が一番澄んでおり、安定した温度のおかげで他の原料(米、麹、酵母)が効果的に作用するからだ。”

酒はまた、この街の社会的、文化的関係のネットワークの一部でもある。金沢の酒文化は、加賀藩の下で隆盛した消費と洗練された遊びの文化の延長線上にある。武士たちは兼六園の茶室や、春の卯辰山の桜の下で宴会を催した。裕福な商人は金沢の漆器職人に特注で酒杯を作らせたが、それには能登半島の端にある輪島の沈金も施した。街には近くの村の商人や農民が集まる居酒屋もあった。玄関の縄のれんが居酒屋の印だ。

明治維新後、金沢にはおびただしい数の娯楽場が表れた。そこには伝統的なものも近代的なものもあった。今日でも金沢の酒場は、昔ながらのおでん屋から、モダンなバー、大衆向け居酒屋チェーンから芸者遊びができる高級な料亭など様々な種類が雑多に混ざりあっている。

酒は種類が豊富で、酒が飲まれる場面もまたその時々の流行や場所や参加する人々の関係によって様々に異なる。飲酒の習慣には季節的な意味合いもある。秋は「ひやおろし」の季節だ。これは冬に搾られた生酒を加熱処理した後、夏から秋にかけてタンクで貯蔵熟成し、気温が低くなる頃に加熱せずに瓶詰めしたものだ。

また、秋は酒のさかなとして季節の高級珍味も味わえる。ふぐ、ふぐの子糠漬け、タラの白子、このわた(ナマコの腸を塩辛にしたもの)、かに味噌、かぶら寿司などだ。新たな酒造りが始まる季節に、日本海は荒く鉛の色合いとなって、滋養豊かな海となるのである。

用水路: 青と緑のインフラ

金沢の17世紀の地図を取り出し現在の地図と比べると、古い城下町の歴史的建造物のいかに多くが現在の金沢に受け継がれているかがわかる。地図の中心に位置する巨大な城とその周りから伸びる黄色い道は今日のアスファルト道と重ね合わせることができる。近代的なオフィスビルや店が並ぶ辺りには、武士や商人の住まいがあった。今も残る寺や神社は東部と南部の緑の丘に点在している。

地図はまた市の用水路網も示している。今も簡単に見分けがつくものや、時間の流れの中に消えてしまったものもある。浅野川と犀川は金沢城のあった高台の両側をほぼ並行に流れ、幾何学的な形のお堀が城の周りを囲み、さらに2つの同心円上に堤防と外堀があり、用水群は川から注ぐ青い血管網のように町中を走っている。

金沢の用水は街の開発だけでなく、経済的、社会的、文化的な生活にも重要な役割を果たした。大野庄用水は、瓦ぶきで黄土色の土塀の武家屋敷に沿って流れており、16世紀終わりに作られたもので、金沢城と城下町の建設資材を運ぶために使われた。

写真提供:金沢くらしの博物館

写真提供:金沢くらしの博物館

それから数十年後には辰巳用水の工事が始まった。これは金沢城内の生活水や、防水用水と堀を満たす水を引くため作られたものだ。その工法は金沢城の高さを利用した極めて高い測量技術を使っている。犀川の上流で取水し約5キロのトンネル型水路を通り(現在国の史跡に指定されている)逆サイフォンの原理を利用して城に水を引いたものだ。

このほか数多くの用水路が、下流の畑のかんがい、家庭用水、江戸時代の金沢の菜種油の製造、明治維新以後の経済復興に貢献した絹工場などに必要な水をもたらしたのだった。20世紀の始めには金沢初の発電所と公共水道システムには寺津用水が利用された。

しかし、やがて町が近代化する中、金沢の用水は取り残されていく。戦後、用水路に廃水やゴミが直接捨てられるようになり公害問題は徐々に深刻になった。水路は駐車スペース確保のため覆われ、町の通り沿いに走っていた水路は都市の景観から消えていった。

1968年に金沢市伝統環境保存条例ができ、金沢の用水路にとっての新たな運命が始まることとなった。日本が経済成長と都市化によって引き起こされる公害、環境劣化、歴史的街の景観破壊の問題に直面している頃である。この条例は金沢が伝統的自然環境と文化環境の質と特異性を保存し、かつ、都市開発と近代化を融和させようという意志の表明であった。

“金沢を網の目のように走る延長150キロにおよぶ55の人工の用水は、鳥や昆虫、動物や種が移動する通路となって市の生物多様性保全に役立つと考えられている。”

緑地と水面を市の伝統的環境として保存、復元することは金沢の都市政策における一貫したテーマである。金沢を網の目のように走る延長150キロにおよぶ55の人工の用水は、鳥や昆虫、動物や種が移動する通路となって市の生物多様性保全に役立つと考えられている。市の公園や庭園と共に市全体が水生動物種や水陸両生動物にとって住みやすい緑と青の模様を描くインフラになることが可能なのだ。

秋になると、金沢の用水路の隠れた場所で、小さな命のドラマが始まる。ここでホタルの幼虫がカワニナと呼ばれる小さな巻貝を食べながら その生涯の大半を過ごす。幼虫は秋と冬に育ち、春の雨の夜に用水の柔らかな堤防の土に体を埋める。そして5月と6月には成長したホタルが土の中から出てくると昼間は葉の下で休み、夜には交尾相手を引きつけるために光る。このようなホタルの生態から分かるように、コンクリートで固められた用水は命をはぐくむには十分ではない。その生態学的価値を高めるには、地元特有の植生の層構造、調光、騒音、その他の問題など様々な他の要因を考慮に入れねばならない。

ホタルはその夜の輝きが日本文化において長く愛されてきており、特別な意味合いがある。春の花見、秋の月見と紅葉狩り、冬の雪見、そして夏のホタル鑑賞は貴族の遊びから広まった昔ながらの習慣である。8世紀に編まれた「万葉集」にはホタルは願いや欲望を表す比喩として描かれている。10世紀の宮廷の女官だった清少納言は随筆「枕草子」に「夏は夜。月の頃はさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」と記している。

写真 : 長時間露光で撮影されたホタル。ヒラマツツネアキ氏撮影 Rodd Lucierより

写真 : 長時間露光で撮影されたホタル。ヒラマツツネアキ氏撮影 Rodd Lucierより

よく見られるゲンジボタルとヘイケボタルの名前は平家物語に由来しており、彼らの魂は今でもホタルの姿となって戦いを続けているといわれる。体の大きいゲンジボタルは戦いに勝った源氏、小さな方は戦いに敗れた平家にちなんで名づけられたものだ。

金沢の用水にホタルをとり戻そうという活動に市役所も地域社会も精力を注いだが、これは文化的に価値ある種は市民の保全活動参加を促すことの表れである。

ホタルの行動が詳しく調査されると、金沢市民は用水の底に大きめの石を配置して水の流れを緩やかにし幼虫の成長に適した生息環境に整えた。毎年夏には照明灯を消し、恒例の草取りもホタルの季節が終わるまで待つようになった。子どもたちは環境教育の一環として地区をくまなく回ってホタルの観察表を作る。ホタル鑑賞のグループは、何百もの小さな宝石が青白く輝きながら用水の上を漂う中、静かに柵に近づく。築数百年の家々はひっそりした佇まいの庭の門を開き、訪問者は恭しくその門を通ると、ホタルの求愛のダンスを畏敬の念で眺める。

ホタルの求愛の儀式が終わると、新しく生まれた幼虫がひっそりとまた用水へと身を潜める。庭をくねって流れる用水は青と緑の網目を描き、ごく微小なものから大きなものまで様々な命の流れに水を届ける。再び季節が巡り、秋は市の各地に散らばる伝統的な庭園に、そして兼六園に訪れる。そこでは辰巳用水からの水を引く霞ヶ池が再び紅葉の色の移ろいを映すのだ。

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このページに掲載した映像はドキュメンタリー作品「金沢市の四季 人と自然の物語」の短縮版であり、記事はブックレット「 金沢市の生物多様性」の抜粋です。いずれも国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット(UNU-IAS OUIK)の構想・計画・出資による生物多様性に関するマルチメディア・プロジェクトの一環であり、OUIK所長のあん・まくどなるど氏がコーディネーターを務めました。このプロジェクトはOUIKの最先端の研究をクリエイティブな方法で「披露し」、日本だけでなく世界中の研究者、学生、政策決定者、一般市民に分かりやすい形で、都市化と生物多様性の関係性の複雑な側面を探究する試みです。

翻訳:石原明子

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金沢の生物多様性:秋に学ぶ教訓 by ラウラ ココラ and あん・まくどなるど is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

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著者

国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット所長。1980年代後半から日本の農山漁村のフィールド調査に携わる。

ラケル・モレノ・ペナランダ博士は国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのリサーチフェローである。主な研究領域は、都市と農村における持続可能性と幸福の関係に注目した、持続可能な自然資源の管理である。彼女はコンサルタント、アドバイザー、リサーチコーディネーターとして、地方自治体や国際的な環境NGOや市民社会組織や多国籍開発機関との多くの経験を持つ。母国スペインでは生物学で学位を修め、カリフォルニア大学バークレー校ではエネルギーと資源の博士号を修得した

ラウラ・ココラ氏は国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのプログラム・アソシエート。1998年から日本を活動拠点とし、上智大学でグローバル・スタディーズの修士号を修得。ココラ氏の関心領域は、社会・経済の維持可能な発展における社会の文化・環境的側面と、それらが担う役割の相互作用。

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