金沢の生物多様性:冬に学ぶ教訓

冬の金沢にいると、様々な種類の雨と雪を体験する。冬の始まりを知らせるのは山々に響き渡る雷だ。「雪起こし」と呼ばれる雷をきっかけに、ブリの群れが沿岸を南下し始めると言われているため、それは「ブリ起こし」とも呼ばれる。

日本海沿岸の湿気を含んだ風が日本アルプスの斜面にぶつかると、より気温の低い大気層へ上っていく。そこで水蒸気が凝結し、日本の北部沿岸に様々な形態の降水をもたらす。降り止むとは思えない雨が1日中、通りや黒い屋根瓦を濡らし続けているかと思えば、突然、優しい霧雨に変わる。夜が街を包み込む頃、稲妻のねじれたシルエットが光り、雷の音が響き渡る。空が粉々に割れたかのごとく、ひょうとみぞれが勢いよく降ってくる。

金沢の街の風景に見られる特徴の多くは、冬季の気候への対処である。街中の伝統的な家の軒は風雪や雨から家を守るために低く作られている。道には積もった雪を撤去するために消雪水路が設けられている。装飾的な庭園では、降り積もった雪の重みに耐えられるように昔ながらの様々な手法が施され、同時に雪の格別な美しさを引き立てる。

金沢の街の風景に見られる特徴の多くは、厳しい冬に備えた工夫と対処法である。

金沢の街の風景に見られる特徴の多くは、厳しい冬に備えた工夫と対処法である。

しかし、気候の特性が形づくったものは街の形態だけではない。屋内で過ごす長い冬は、金沢の豊かな工芸と芸能を育んできた。工芸品の中には、金沢の和傘のように、気候がもたらす不便さを解消するために特別に考案されたものもある。多種多様な保存食は冬に備えて作られてきた。街が環境に適応し続けた結果、文化的ランドスケープは自然風景と重なり合い、特徴的な物質文化が発展した。

兼六園:街の中心にある文化的ランドスケープ

低くたれ込める灰色の空は、大粒で柔らかい牡丹雪の白でかき消され、雪片は風に吹かれてあちこちに舞う。金沢の中心地は急な高台になっていて、金沢城の古い石垣と、それに覆いかぶさる木々があり、その光景はまるで墨絵のようである。隣の丘には、およそ8000本の木々が深い雪に包まれている。そこが金沢城の外苑、兼六園だ。雪の重みでしなった木々の枝が、園内の美しい小道や池にかぶさるように垂れている。

兼六園では毎年、冬が始まる前に、木々の枝の間に支柱を立て、そのてっぺんからワラ縄を下ろして枝につなぐ。日本海沿岸の降雪に枝が耐えられるようにするのだ。縄でテントを張るようなこの手法は雪吊りと呼ばれ、樹齢の高い大木ばかりでなく、弱い若木や低木にも施される。冬の間、縄を使って樹木を守る慣習は、江戸時代(1603~1868年)後期の記録にも残されている。雪吊りは雪害を防ぐだけでなく、樹木の優雅な形状と一体となり、ランドスケープの美しさを一層引き立てる。

木を覆う縄の円錐は、兼六園の冬の風景の一部だ。雪に覆われた松や茶亭、橋や灯ろうが池の水面に映り、絵画的な構図を成している。

文化を礎としたランドスケープ

兼六園の現在のデザインは、封建時代の優れた庭師たちが2世紀にわたって、想像力を駆使して自然を作りかえてきた結果だ。当初、加賀藩を治めていた前田家の私庭として造られた兼六園の築庭は、金沢城に面した傾斜地に建てた別荘の周囲の小さな庭から始まった。この別荘で藩主は大事な客や重臣たちをもてなし、秋には紅葉狩りの供宴を開いた。長い年月の間に、兼六園は時の藩主の好みを反映して変貌していく。また、その面積も徐々に拡大し、現在の面積は約10ヘクタールである。明治時代(1868~1912年)初頭、藩制度が解体した後、兼六園は一般に開放された。

兼六園は、自然の多様性と文化の多様性が相互に作用し合い、その土地だけで見られる独特の形態を生み出した空間的実例である。他の伝統的な日本庭園と同様に、景観は自然そのものであるが、兼六園は人工的に造られた庭園であり、単なる自然美の再現ではないばかりか、理想化された自然を表現した世界である。見る者の喜びと驚きを喚起するように、植樹、地形、気候といった様々な要素が人工的に設計に取り入れられている。兼六園では何世紀にもわたって、美学と哲学と宗教と価値観に基づき、文化的ランドスケープが自然のランドスケープに統合されてきた。

兼六園には、日本と中国大陸の何世紀にもわたる文化交流から導き出された美学が反映されている。多くの日本庭園と同様に、兼六園の池と島も、中国の神仙思想、すなわち大海に浮かぶ山のような島には不老不死の道教の神仙人が住んでいるという伝説に発想を得ている。したがって池や島は、その美しさを楽しむためだけでなく、繁栄と長寿と英知の象徴でもあった。

“冬の兼六園は、神秘的なまでの雪の静けさと清らかさに包まれる。”

兼六園という名前の文字通りの意味は「6つの優れた景観を兼ね備える庭園」になる11世紀の中国の書物によると、完ぺきな庭園には、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望という相反する6つの景観を取り入れなければならないため、完成させるのは難しいという。

しかし兼六園では、開放的で明るい広々とした場所とひっそりとした歩道が共存し、空間の広がりと静寂さを同時に感じさせる。雨風にさらされた庭石、地表や木の根元や灯ろうや石を覆う手入れの行き届いたコケ、時の作用を表現するために芸術的に作り込まれた樹木の枝には、蒼古と人力という観念が表われている。園内の池や泉や曲流する小川には水が満ちあふれる一方、南には山の景観が広がり、東には浅野川の向こうに丘があり、北を向けば日本海に突き出た能登半島が遠くに見えるという眺望を楽しめる。

兼六園のランドスケープ設計に文化的価値が浸透しているもう1つの例は、季節の流れへの配慮だ。ランドスケープを構成する様々な自然の要素は、各季節の理想的な美を十分に表現できるように構成されており、日本の古典的な詩歌における季語の使用を連想させる。

冬の兼六園は、神秘的なまでの雪の静けさと清らかさに包まれる。春には桜の花が咲き、花霞に包まれる。初夏、紫色のカキツバタが水辺を埋め、梅雨の季節にはベルベットのようなコケのみずみずしい緑色が雨に濡れて輪郭をぼやかす。秋が深まると、濃い緑色の連なる葉が、燃えるような深紅色や光り輝くオレンジ色、まばゆい金色に次々と変わっていく。

都会の緑がもたらす恵み

兼六園のランドスケープの美と文化的価値を維持するために、人は継続的に自然と関わり合わなければならない。自然な景観は、たゆまぬ人的努力の結果だ。庭園の自然美を維持するために、樹木の1本、コケの1片にまで細心の注意が払われている。初春、松の木に新芽が出ると、人の手で慎重につみ取られる。木の形を整え、次の新芽の成長を促すためだ。

毎朝、頭をスカーフで覆い、円錐形の帽子をかぶった女性たちが、夜の間に落ちてしまった葉っぱや小枝をしっとりとしたコケの上から取り除く。そして冬が徐々に近づく11月、庭師たちは雪吊りのために再び長い支柱を登ると、支柱の上から縄を投げ落とし、枝につなげる。1年の終わりと新たな1年の始まりを示す恒例の作業である。

兼六園は、感覚と精神の両方を満たすために人が設計したランドスケープであり、より自然な地元のランドスケープとは大きく異なる。しかし、園内には180種以上の植物が植えられ、土地と水の使い方が多様であるため、兼六園は豊かな種と微環境に恵まれている。この庭園には数々の鳥や昆虫の他にも、何種かの小動物もやって来る。河川敷沿いの緑地から街の中心地にある兼六園へ続く緑の通路を通ってくるのだ。庭園の地表や木の幹には様々な種類のキノコ類が生えている。

写真:Kentaro Ohno あまり知られていない生態系サービスだが、兼六園には私たちが当たり前に受け取りがちな環境調整作用がある。

写真:Kentaro Ohno
あまり知られていない生態系サービスだが、兼六園には私たちが当たり前に受け取りがちな環境調整作用がある。

兼六園は、生物多様性に富む都市空間が様々な生態系サービス(人が生態系から得る恩恵)をいかに提供できるかを示している。中でも最も明白な恩恵は、文化的アイデンティティー、伝統的価値、美に対する喜び、精神への作用、文学や芸術のインスピレーション、娯楽といった文化的サービスだ。さらに兼六園は、文化的生態系サービスが持つ経済との関連性をはっきりと表している。金沢市の主要な観光スポットとして、兼六園は毎年200万人近くの来園者を有し、地元と地域の経済に重要な貢献を果たしている。

さらに兼六園には、あまり知られていない生態系サービスではあるが、私たちが当たり前に受け取りがちな環境調整作用がある。重なるように植えられた木々が暑い季節にはありがたい日陰を作り、園内の水辺と共にヒートアイランド効果を抑制する。木々は騒音や風を遮り、汚染物質をろ過して空気の質を向上させる。柔らかい地表は雨水を吸い込んで、浸水のリスクを低減し、貴重な地下水源を補充する。こうしたすべてのプロセスは、表土の創出や炭素吸収や動植物の生育地の提供といった、人間の福祉にも関連する補佐的サービスによって支えられている。より広範囲のランドスケープの一部として、兼六園は生態系サービスの供給源でもあり、周囲の山々から地下水が流れ込み、園内を潤している。

冬、一面を覆う雪は兼六園の色と輪郭を完全に消してしまう。それでもなお、彫刻のような木々を包み込む雪吊りの縄のユニークな形が風景の中に思いがけないリズムを生み、自然と文化の無限の広がりを感じさせてくれるのだ。

金沢の和傘:人間と環境の相互作用

雪が雨に変わり、雨が再び雪に変わる。金沢市の通りでは傘を差して先を急ぐ人影はまばらだ。世界は小さく見える。濃い灰色の雷雲が低くたれ込める。横殴りの雨が降る。身をすくめた人たちが頭上に差した繊細な傘は、濡れた灰色の街の風景で唯一の色彩のようだ。

降水の多い金沢では、傘は昔から日々の生活に欠かせない品だった。今日、傘はナイロンや透明ビニールで作られたものが多い。しかし現代的な洋傘が到来するまでの何百年もの間、伝統的な和傘は油紙と竹で作られていた。

現存する資料には、和傘が登場する昔の風景が描かれている。例えば、隔年ごとに藩主が都に居住する「参勤交代」制度の下、藩主が2500人の従者を引き連れて江戸へ向かう行列の光景には、装飾的な大きな傘が描かれている。また、近くの寺に参拝に行く侍の娘たちは、どんよりとした雪模様の空に向かって細身の傘を差している。様々な体格と表情の人々が押し合う市場では、和傘と武笠が光景の半分を覆い隠している。暗い色の装束を身につけた巡礼僧は、褐色の番傘を差している。吹雪の朝、しゃれた着物姿の若者が半開きにした傘を差して橋を渡っている。その傘には大きな文字で茶屋の名前が書かれている。

一瞬をとらえたこれらの資料を見ると、地域の気候と自然環境が物質文化とライフスタイルにどのような影響を及ぼすのかが分かる。金沢の和傘は気候条件に適応するために作られており、自然素材を利用し、原材料の多くは街の近くで収穫されたものである。真竹と、真竹よりサイズの大きい孟宗竹で骨を組み、コウゾという木から作った厚紙を、蕨の根から取ったデンプンをのりにして貼り付ける。その後、柿渋をつけ、青じそ油や桐油や亜麻仁油を塗って防水加工を施す。

明治時代(1868~1912年)および大正時代(1912~1926年)、金沢には和傘を製造する店が100以上あったと言われている。高い需要を満たすために、各制作工程を専門とする職人たちがいた。ある工房では職人たちはせっせと竹を割り、削り、形を曲げる。またある工房では和紙を切り、骨に貼り付け、仕上がった傘に油を塗る。

金沢の和傘は気候条件に適応するために作られており、自然素材を利用し、原材料の多くは街の近くで収穫されたものである。写真:ダビッド・ヒメネス

金沢の和傘は気候条件に適応するために作られており、自然素材を利用し、原材料の多くは街の近くで収穫されたものである。写真:ダビッド・ヒメネス

今日では、伝統的な和傘は日常生活の一部ではなくなった。戦後、日本人の生活様式が急速に変化した結果、和傘よりも安価で使いやすい洋傘に取って代わった。最後の和傘職人の松田弘氏は、今でも金沢で昔ながらの和傘作りの技術を継承している。今日の和傘は美術品であり、伝統的な舞台芸術や舞踊の小道具として求められている。さらに、和風旅館や料亭の広告や飾りつけに利用され、人気は倍増している。

和傘をたたむと、表面が内側に入り込むので、模様はほとんど見えなくなる。そして和傘を開くと、美しい模様が徐々に現れる。花、昆虫、抽象的な模様が手書きされた和紙の下の空間は、異なる光と奥行きを帯びる。自然素材はぬくもりと命を感じさせる。丈夫で考え抜かれたデザイン。中心部には漆塗りの和紙が四重に施され、骨と基軸をつなぎとめる色とりどりの糸が複雑に編まれている。こうした金沢の和傘の特徴は、地域の気候の厳しさを思わせる。労を惜しまぬ和傘職人の心意気と、美と耐久性を追求する努力が、細部にまではっきりと感じられるため、とても粗末には扱えない。

人と環境の相互作用の中で進化し続けた和傘は、今や芸術作品の域に達した。踊り手が舞台の上でポーズを取り、想像上の山々を遠く眺める時、その手に持った和傘が踊り手の美しい立ち姿を一層引き立てるのだ。

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このページに掲載した映像はドキュメンタリー作品「金沢市の四季 人と自然の物語」の短縮版であり、記事はブックレット「金沢市の生物多様性」の抜粋です。いずれも国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット(UNU-IAS OUIK)の構想・計画・出資による生物多様性に関するマルチメディア・プロジェクトの一環であり、OUIK所長のあん・まくどなるど氏がコーディネーターを務めました。このプロジェクトはOUIKの最先端の研究をクリエイティブな方法で「披露し」、日本だけでなく世界中の研究者、学生、政策決定者、一般市民に分かりやすい形で、都市化と生物多様性の関係性の複雑な側面を探究する試みです。

翻訳:髙﨑文子

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著者

ラケル・モレノ・ペナランダ博士は国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのリサーチフェローである。主な研究領域は、都市と農村における持続可能性と幸福の関係に注目した、持続可能な自然資源の管理である。彼女はコンサルタント、アドバイザー、リサーチコーディネーターとして、地方自治体や国際的な環境NGOや市民社会組織や多国籍開発機関との多くの経験を持つ。母国スペインでは生物学で学位を修め、カリフォルニア大学バークレー校ではエネルギーと資源の博士号を修得した

ラウラ・ココラ氏は国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのプログラム・アソシエート。1998年から日本を活動拠点とし、上智大学でグローバル・スタディーズの修士号を修得。ココラ氏の関心領域は、社会・経済の維持可能な発展における社会の文化・環境的側面と、それらが担う役割の相互作用。

国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット所長。1980年代後半から日本の農山漁村のフィールド調査に携わる。

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