グリーン経済と成長のゆくえ

「ローマ炎上の最中にバイオリンを弾く」という表現は陳腐に聞こえるかもしれない。しかし「グリーン成長」と「グリーン経済」(略してGGE)に関して言えば、緊急事態に際して安逸をむさぼるという意味のこの表現が妥当だ。反対意見もあるが、GGEという概念で唯一革新的なのは、周囲の熱狂ぶりだけである。特に新しくも独創的でもない概念をもてはやすことは、今日私たちが直面している社会的および生態学的問題に対してGGEの概念には決定的な限界があることを無邪気に無視することに他ならない。

現代の環境運動は、あらゆるものを様々な形で大量に生み出した2世紀に及ぶ工業成長(例えば汚染)に対する反動として1960年代に誕生した。政治学者のアルバート・ウィール氏がわかりやすく論じたように、不安から誕生した当初の政策戦略は挑戦的だった。政府は、廃棄物によって自然と人の健康を奪う企業を規制しようとし、ビジネス行動を変化させるため、一定の行動を義務づけ、汚染に罰則を科す規制を設けた。このような1970年代の挑戦的な施策は、明らかに問題が多く、非効率的で、効果的でさえなかった。

それに替わる施策は、相互に支え合うパートナーとして環境と経済成長を捉え直すことだった。実際、1987年に発表された「地球の未来を守るために」(ブルントラント報告書として知られている、環境と開発に関する世界委員会の報告書)は「貧困は、持続可能な方法で環境を利用する人々の力を低減する。そのため環境への影響は増大する」という少し不可解な考察をしている。つまり同報告書は、急速な経済拡大が健康な環境に不可欠であると示唆している。しかし一方では「究極的な(生物物理学的)限界」の存在も認めている。そして、この矛盾を解消し世界の持続可能性を実現するという希望を、限界に達するずっと前に「資源の公平な利用を確保し、影響を緩和する技術的対策を再設定すること」に託している。

こうした対策を実際に行うにあたってカギとなるのは、効率性と技術の向上、そして専門家による管理下での市場をベースとした自然資源の分配である。「資源の公平な利用」の具体的な方法については、同報告書はあまり明確にしていない(その後の政策では、さらに不明確だった)。

持続可能な開発計画が誕生してから、すでに20年以上が経過した。しかし、主に豊かな社会の地域レベルでの空気や水の浄化においてはある程度の成功を収めたとはいえ、全体として公正で持続可能な自然と社会の関係の構築という点では、大きな成果は得られていないようだ。持続可能な開発計画の基本的な問題は、経済成長をあまりにも強調している点である。そして公平性とは、近代科学と技術を応用し、自由市場を通じて経済全体のパイとその配分を拡大することで得られる管理された結果だと考えられている。

このアプローチは、政治的交渉による公正な社会的関係としての公平性を保証できなかった。こうした戦略は経済全体を成長させることに成功した一方で、豊かさとその代償を公平に分配するという点では失敗したことは、事情に疎い者にも明らかだろう。

“しかし今日では、効率性は必要条件ではあっても十分条件ではない。ひどく不公平で限りある今日の世界では、生活の充足性を見いだすことは必須だからだ。”

では、場面を2011年まで早送りし、「グリーン成長」と「グリーン経済」への最近の関心に注目してみよう。国際連合経済社会局(UNDESA)はGGEを「成長、社会的進歩、環境の管理を強化する」経済的アレンジメントと表現している。UNDESAは生物物理学的限界を認め、「グリーン経済の目的とは、こうした限界を超えないようにすることである」としている。また、「エネルギーやその他の資源利用における効率性を向上し、有害汚染物質の発生を最小限にとどめる」技術革新として「Great Green Technological Revolution(グリーン技術の大革命)」を提案している。

同様に、国連環境計画(UNEP)の報告書「グリーン経済をめざして」は、GGEのアレンジメントにおいて「収入と雇用の成長は、炭素排出と汚染の低減、エネルギーや資源の効率性の強化、生物多様性や生態系サービスの喪失防止を可能にする公的および民間の投資によって促進されるべきものだ」と述べている。GGEに関するこうした基本的前提を再考するにあたり、私たちは次の疑問を問いかけなければならない。過去20年の間に何が変わったのだろうか?

上記のアイデアは、「地球の未来を守るために」が発表された1987年当時には革新的だった。しかし、根強く残る諸問題への新たな解決策が、ひいき目に見ても役立っていない2011年現在では、話は別である。上記のアイデアはよい戦略ではあるし、政策は引き続きそれらを強調し、適用範囲を拡大しなくてはならない。しかし今日では、効率性は必要条件ではあっても十分条件ではない。ひどく不公平で限りある今日の世界では、生活の充足性を見いだすことは必須だからだ。

こうした課題への取り組みには前例がない。最近の「大不況」は、人間には継続的な経済成長なしに良好な社会を作り出す能力がないことを明らかにした。この課題を克服するには、想像力と独創力の源が必要である。生態学的限界、平等性、分配という問題を議論の基盤に取り入れず、より効率的な成長だけに焦点を定めても、あまり効果はないのだ。

持続可能な社会のための科学と技術

理想的に言えば、充足性を実際的に、創造的に、組織的に獲得するという難問を解くためにGGEが役立つはずだ。そのために、技術と社会の間の動的な相互関係性を考察することが有益だ。

発展途上諸国、特に収入が低く、電力使用率が比較的低い国々は、例えば再生可能な一次エネルギーをベースにした電力生産に「飛躍」することができるかもしれない。UNDESAによるこの主張が示すように、GGEに関する議論では、発展途上諸国や過渡期にある経済諸国はグリーン経済へ直接的に前進できると考えられている。しかし「飛躍」説の問題は、より効率的な技術の採用が必ずしも平等性や持続可能性といった目標の達成にはつながらないという点を認識できていないことだ。なぜなら、技術とは暗黙のうちに規範を具現化し、自然と社会の相互作用に影響するパターンを生むからだ。

“技術とは暗黙のうちに規範を具現化し、自然と社会の相互作用に影響するパターンを生むものである。”

近代の人間と化石エネルギーとの出会いには、技術の特性と、社会や政治や経済の前例のない力学が表われている。昔、ルイス・マンフォードは「人類を開発の熱病に陥れた」人と化石エネルギーとの突然の出会いについて雄弁に語った。彼によれば、その熱病はあまりに激しかったために、採掘の論理が「経済的および社会的有機体」に浸透し、その下部に位置する経済や産業の規範となった。こうした「無秩序な開発と無駄な消費」の論理が独り歩きし始め、最初のエネルギー源が減耗したかどうかに関係なく、その論理は伝播し続けた。

技術と社会の関係性について、2つの特性をここで強調しておきたい。1つ目はその相互作用性だ。つまり、技術の力とそれに付随する経済的論理の組み合わせが「開発の熱病」に火を付け、その後「採掘しようとする原動力が経済的および社会的有機体全体に影響を及ぼした」のだ。

2つ目の特性は、トーマス・ヒューズが1994年に「technological momentum(技術の勢い)」として特徴づけた現象、すなわち「エネルギー源そのものが消失しているか否かにかかわらず、無秩序な開発と無駄な消費が続く」ことだ。例えば石油への依存を断ち切るなどの特定の行動を検討したり、安定した経済の模索といった難題に取り組んだりしても、過去に行った選択の勢いは歴然と残る。

こうした文脈において、社会的に「中立的な」技術(その影響は概して偶発的であるため、社会は好ましくない結果を避けたり影響を緩和したりするために、その技術を適当にいじくりまわすことに集中するだけでよい)、および「技術的に決定された」社会(その社会的影響は構造に内在している)に共通した二重性は、不分的には真実でも実際には真実からかけ離れており、ひいては、各分野の中心人物によってコントロールされた観戦スポーツに成り下がる。しかし、技術選択の進化は、観戦スポーツ以外の何物でもない。

ある種の技術には人々を自由にしたり開放したりする可能性があり、社会形成への影響力という点では政治や立法と同等か、それ以上の力を有する。したがって、社会が技術の進化や形態について、少なくとも政治や立法と同程度(それ以上とは言わないまでも)の影響力を持つことは不可避である。

1991年、アンドリュー・フィーンバーグ氏は次のように見事に語った。「したがって技術の設計とは、政治的影響を伴う存在論的決定である。この決定から大多数の人々を排除し関与させないことが、私たちの抱える問題の多くの潜在的な原因である」彼はさらに次のように記した。「技術とは、その言葉の一般的な意味におけるものではなく、方向性の違うゆれ動く可能性の間で、両方の可能性を内包しつつ定められた開発過程のことだ。それは社会的戦場であり……文明についての選択肢が議論され、決断を下される議会である」

したがって基本的に、社会に欠けているのは恐らく、技術の進化に影響を及ぼす能力であり、人間開発の概念や活動や経済組織ですでに見られる充足性の価値を技術の進化に取り入れる力だ。極めて重要なのは、新たなグリーン技術のインフラストラクチャーが現状から変化を具体化することである。そして、グリーン技術の革新にとって緊急を要する付随的条件とは、(ルイス・マンフォードの言う)「権威主義的」とは反対の「民主主義的」革新である。

“社会に欠けているのは恐らく、技術の進化に影響を及ぼす能力であり、充足性の価値を技術の進化に取り入れる力だ。”

民主主義的な技術のインフラストラクチャー

平等性を追求するためには、(前述のような)大きな問題への取り組みに加えて、民主主義的な技術のインフラストラクチャー構築も重要である。民主主義的な技術は、富の生産方法を配分する上で特に役立つ。これはマハトマ・ガンジーの近代技術批判の中心的テーマだった。

この視点をインドでの民生用原子力の選択に関する議論で見事にとらえたのが、才能ある博識家、D.D. コサンビだった。コサンビは1960年、膨大な数の国民が散らばって住んでいるインド亜大陸のような場所では、中央集権的な発電や電力供給が著しく困難であると論じた。さらに彼は、技術的観点だけでなく政治的および経済的視点から、太陽エネルギーが「地方分権化」という明らかな利点をもたらすことを指摘した。太陽エネルギーは「分散した小規模産業や地域での利用……」にとって特に有効であり、「もしあなたが官僚主義の窮屈さや大規模な初期投資なしに、何らかの形で社会主義を本当に実現させたいのなら、これほど効率的なエネルギー源は他にない」と論じた。

私たちは熱心に技術をもてあそんでいる。しかし、無条件に拡大し続ける経済は(それが効率的だとしても)もはや実行不可能だという重大な事実と将来的には折り合いを付けなければならない。少なくとも、生物圏のエネルギーや資源には限界があり、拡大し続ける経済には不平等が付き物だからだ。したがって、自然と社会の関係に介在する物理的インフラストラクチャーを国が追求する場合には、検討されている設計が充足性の評価を内在化かつ保証し、生産と消費のバランスの統制を資本からコミュニティーへ転換できる方向に、国は焦点を移さなければならない。

要するに、社会によって形成され、ひいては社会を形成する技術のインフラストラクチャーに民主主義と平等性が顕在しているように、本当のグリーン経済は民主主義と平等性の革命でなければならないのだ。

翻訳:髙﨑文子

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グリーン経済と成長のゆくえ by マヌ・ベルギース ・マタイ is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

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著者

マヌ・V. マタイ博士は国連大学高等研究所「持続可能な社会のための科学と技術」プログラムのリサーチ・フェローで、ロチェスター工科大学の科学・技術・社会および公益学部の客員助教授を務めた経験を持つ。マタイ博士の研究および指導の主な関心分野は、エネルギー、環境、開発といったテーマの相互関連性であり、科学や技術政策、持続可能性や平等性に基づいた人間と経済の発展に関する概念に焦点をあわせている。また彼は『Nuclear Power, Economic Development Discourse and the Environment(原子力、経済開発の対話、そして環境)』(2013年)の筆者である。

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