70億人がクルマを運転したら

ニューヨークタイムズに掲載された「If All Chinese Had Wheels(もし全ての中国人が車を持っていたら)」という挑発的なタイトルの意見記事には、「中国の産業化レベルが上がり、全世帯が車を所有し、他の産業社会と同様の利便性を持つまで至れば、中国とその他の世界への影響は破滅的なものになるだろう」とある。

2009年に中国の自動車販売が46%増と驚異的な伸びを記録した後、中国はアメリカを抜いて世界一の自動車市場となった。インド、その他いわゆるBRICS諸国は世界の経済推進力として新たな中核的存在となりつつあり、中国が今世紀中頃に世界最大の経済国家におどり出たとしても驚くに値しない。最近、中国は温室効果ガスの最大の排出国となった。(とはいえアメリカやOECD加盟諸国と比較してGDP1人当たりの排出量でははるかに低い)

このような事実を鑑みると、世界の生態系が今まさに破滅へ向かっているという不安が確かに生じてくる。ところでこの「If All Chinese Had Wheels (もし全ての中国人が車を持っていたら)」(デニス・パイレイジズ、ポール・アーリック著)の記事が、1972年3月16日に掲載されたものだと知ったら、あなたは驚くだろうか。中国が南部に経済特区を設置し、近代的産業化への道を歩き始める10年ほど前のことだ。

この記事の特徴的なところは、必ずしも正確ではないとはいえ(ただし、いくつかのレベルで予言的ではある)むしろ、長い間の懸案事項でありながら完全に解決されていない疑問に焦点をあわせている点だ。疑問とは、国際社会はどのように、どの程度、世界全ての人々のために持続可能な開発にコミットできるかというものだ。

私たちの地球が70億人目の誕生を迎え、国連が2012年6月のリオ+20国際会議に向けて準備を進める中、国際社会による持続可能な開発へのコミットメントはこれまで以上に緊急課題でありながら、奇妙なことに世界の現状とは無関係なようにも思われる。この不思議な現状の例を2つ挙げてみよう。

“アフリカの飢饉にみられる人道主義存続の危機は、効果的な政府の対策なしでは現実のガバナンスに限界があることを示している。”

第一に、国際社会はソーシャルメディアによって以前にも増してつながりが強化されているように思われ、政府による報道管制が行われても暴力的弾圧の映像の流出を食い止められない状況ではあるが、それに対して効果的な対応が全くなされないのであれば無力だという点だ。アフリカの角の飢饉がその例である。

このアフリカの飢饉にみられる人道主義存続の危機は、効果的な政府の対策なしでは現実のガバナンスには限界があることを示している。80万人近くが死に瀕していても、世界の人々の人道主義の意識にほとんど影響を与えない中で、途上国の水不足などの問題に対して、現実的には一体どのような効率的かつ協調的な行動を国際社会に期待できるだろうか。

第二に、生物多様性の喪失による気候変動の影響とハリケーンの強度に関する科学的コンセンサスがより強固に確立されつつあるが、気候対策への公的支援に関しては、普段は気候政策におけるチャンピオンともいえるヨーロッパ連合でも手ぬるいというしかなく、アメリカのような国々ではそのような公的支援はほとんどなくカリフォルニアで最近通過した対策のように州が主導するものが数件ある程度だ。

“80万人近くが死に瀕していても、世界の人々の人道主義の意識にほとんど影響を与えない中で、途上国の水不足などの問題に対して、現実的には一体どのような効率的かつ協調的な行動を国際社会に期待できるだろうか。”

同様に、増え続ける世界の人口と消費が、農業や自然資源に対して累積した問題を引き起こしていることを国際社会が学び始める中、私たちは慢性的栄養不良に陥っている10億人の人々の食料をまかなう最良の手段を理解し、行動を起こす必要がある。また農業システムによって土地、水、生物多様性その他自然資源のどれも劣化させないよう対策を講じる必要もある。

すでに四半世紀ほど前の1988年「変動する大気」会議に参加した選ばれた世界のリーダーたちは(特に政治的論争を呼ぶこともなかったという点も追記すべきだろう)決議を採択し「人類は全面的核戦争を除けば究極の悲劇を招くかもしれない、意図しない、制御不能の、地球規模の実験を始めている」と宣言文で述べ、二酸化炭素の排出を2005年までに20%削減すると同意した。このことは不可解とすら思える。

1972年のニューヨークタイムズの記事に、繰り返し訴えるべき内容を含んでいるとすれば、こうである。「量を重視した生活ではなく、質の高い生活を確立すれば、先進諸国は途上国が見習うべき新たなモデルを提供できるだろう」 約40年経った今、国際社会は今でもその新たなモデルを待ち望んでいる、と言っても過言ではないだろう。

あなたはどう考えるだろうか。将来の世界の持続可能性に関して、人口70億という数字は1つの重要な歴史的ポイントといえるだろうか。環境問題の科学的事実がこれまで以上に明確になりつつある今日、それに対する私たちの行動は減りつつあり、より受身になっているように思えるのはどうしてだろうか。世界の経済不安に気をとられているせいなのか。それとも別の理由があるのだろうか。

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70億人がクルマを運転したら by ジェイコブ・パーク is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

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著者

ジェイコブ・パーク氏はアメリカ・バーモント州のグリーンマウンテン・カレッジでビジネス戦略・持続可能性を専門とする准教授である。

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  • Hayafune

    20年以上前にも同じ言葉を聞いた。私が学生の頃にも、もし中国全土が先進国並みの生活レベルに達すると地球環境は破滅すると。同じようなことが1972年に既に言われていたとは驚きである。その脅威に、何も対応してきたわけじゃないが、人口爆発のスピードに追いついていないのは事実だろう。

    「経済成長」という言葉は悪魔のささやきか?一部の国にはそうと言える。先進国のすべきこと、途上国のすべきことは同じではない。

    過去の記事「経済成長という夢の終えん」に、以下の言葉がある。

    “経済成長は最貧諸国の幸福にとって不可欠であることを認めている。しかし英国のような国では、さらなる成長とその促進政策は繁栄をむしばんでしまう。”

    では日本は昔に戻った方がましなのかと投げやりになりそうだが、同記事では、先進国が進むべき道も提唱している。http://ourworld.unu.edu/jp/as-the-dream-of-economic-growth-dies-a-new-plan-awaits-testing/