旅行麻薬を蹴り飛ばす

私は45歳になる。経験の幅という点においては、贅沢な人生を送ってきたと思っている。それらの経験は、手に入れやすくまた私にはそれを得る時間もあった。しかし、今日の先進国の基準からすると、実は、私はほんのわずかな特権を行使したにすぎない。

私は22歳まで飛行機に乗ったことがなかった。私にとって、それは当たり前のことに思えた。一体全体、なぜ、若年の身で、空を飛ぶなどという途方もない浪費をする必要があるのだろう?当時私は、結婚式のためにカナダ国内のウィニペグに飛ぶことさえ、少々贅沢だと思っていた。ところがである。今日、国際線や米大陸横断線のフライトにすでに慣れ親しんだ小さな子供達が、何人も身の回りにいる。

私の若い頃は、この種の贅沢は一握りの大人たちだけが行使できる特権であった。今ではあらゆる年齢の人々が、飛行機の利用は贅沢でもおかしなことでもないと考えている。私の半生の間に、自分自身も含めた普通の人々まで、あまりに贅沢者になってしまった。毎日毎日の絶え間ない移動においては、特にあからさまである。

旅行。私たちの行いの中で、その方法は、持続可能でない最悪の行為の一つだ。それなのに、私たちは、絶え間なく旅行する。旅行をしていない時は、次の旅行を計画しているか、少なくとも夢見ている。

世界の現状を鑑みると、私たちは歴史的に最悪の局面に立たされていると結論づけざるを得ない。直感力を行使すれば、どんなに最悪の疫病に冒されているのか誰にでもすぐ分かる。この疫病をある人は「旅行虫」と呼ぶ。旅行虫は私たちの身体の中で大暴れしている。私がそう感じるのは、馬を飼育する生活に戻ったことで感覚が過敏になっているからだけではないだろう。

私は環境問題(実は社会問題なのだ)に取り組んでおり、ピークオイル説がとなえる石油供給量のピークを理解している人たちに囲まれている。そんな人たちであっても、どこか一箇所に留まろうとする人には、ただ一人として出会ったこはない。

脱石油社会移行への草の根運動であるトランジッション・ムーブメントの創立者、ロブ・ホプキン氏は次のように述べている。「・・・私たちは生活のあらゆる局面で、これからはとてつもない規模の変化を目にすることになるだろう。」 私は周りを見渡してその反対の事が起こっているのを目にしひどく落胆する。それは、産業時代から変わることのない“いつもの”贅沢が、とてつもない贅沢にふくれあがっていることだ。まるで意図的に贅沢をふくらませているかのように。
それは、私たちの旅行のやりかたに顕著に現れている。私たちは今までこんなに巨大な車を運転したことがないし、こんなにぶっ飛ばし運転をしたこともない。(制限速度で運転してみると私が最後に言っていることの意味がわかるはず) 私たちは今まで航空機内や車内で、これほど多くの時間を過ごしたこともない。

空しさからの逃避

私は、旅行への渇望をまったく理解できないわけではない。誰だって、時にはじっとしていられないこともある。困難を乗り切れないときの空しさ、何かをやらずにはおれない気持ち、これらすべてが「逃避行」の根っこにあるに違いない。

もちろん旅行には何らかの意味がある。旅行は好きな方向を自由に選ぶことができる。つまり、強力な麻薬が持つ罠のすべてを備えている。時には、私たちの回りの悪意に満ちた世界から逃避するために、お薬として旅行に依存しなければないないこともあると思う。しかもその悪意は拡大する一方なのだから。

たとえば郊外など、出て行くに値するような不満だらけの土地に、自ら選んで留まる人たちにしても、無益から逃れるのは難しい。そんな場所に住む私の長年の友人の一人は言う。「私は好ましい土地に住む必要はそれほど感じないの。だってここは便利よ。休日に自分でドライブして、どこだって好きなところに行けるのだから」

エネルギーの正しい使い方とは?

人々がひねくれたことを言うのを聞いたことがある。「石油が間もなく無くなるのなら、あるうちに自分のために使いたいよ」 その気持ちは理解できないわけではないが、これこそまさに直感的に違うと感じる。ロブ・ホプキンズ氏を再び引き合いに出すと、石油は「ものすごく役に立つもの」であり、脱石油社会移行をめざして活動する本物の企業を動かすために、一滴だって無駄にできないものなのだ。言い換えれば、変革は、エネルギーを必要とする。今、私たちにとって、「エネルギー」とは石油である。だから「まず、無駄使いを止めよう」が私たちのスローガンであるべきではないだろろうか?

この時代において、正しいエネルギーの使い方とは、どんなものだろう? 旅行に多大の時間を費やす理由は教育である、と主張する私の仲間が増えている。最初は正しい言い分のように聞こえることは認めるが、ついつい軽口をたたいて反論したくなる。ますますたくさんの人たちがますます楽々と世界中を旅して回っているのに、地球上の生命に影響を与える事態の深刻さに、なぜ、ますます無知蒙昧になりさがって行くのか、と。

とは言え、議論のための議論のようにもなるが、旅行の精神が教育の伝達手段であるという議論には、少なくとも一部同意しても良いと思っている。最近仲間から聞くところによると、脱石油社会の世界にどうやって生きるべきかの教育を他人に施すために、旅行は必要だとのことである。

議論を戦わせたいポイント。私の同僚がしばしば訪れるのはヨーロッパである。 ヨーロッパに行けば、なぜか、カナダに正しく住むための方法を学べるとのことである。あまのじゃくの戯言を言わせてもらうと、もしヨーロッパがそんな楽園であるなら、ここカナダのアルバータの小さな農場にヨーロッパ人が毎年毎年はるばる遠くからやってきて、明らかに彼らが同じことを学ぶために、私たちはホスト役を務めるという皮肉な状況があるのはなぜだろう。

その答えは、大事なことは場所ではない、ということだ。つまり、すべてにおいて理想的な場所など、どこにもない。しかし、その気になってちょっと探せば、役に立つことを学べるところは、どこにだってある。事実は、学びは、重要ではない。旅をすること自体が、重要なのだ。場所なんて、どこでも良い。どこかに出かけることが重要なのだ。そうでなければ、旅行麻薬の効果を感じることはできない。

実行は教育に勝る

重要な人たちが絶え間なく世界を旅しているのを見ると、私は大きな戦慄を感じる。もっともっと長く家にいることによって得ていた、あるいは家にいることにより提供される大きな価値の敷居を私たちは超えてしまったという直感がある。私たちは同時に一つの場所以外にいることはできない。遠い場所でエネルギーを使うことは、自分が地元にもたらす良い効用を薄めてしまうことにならないだろうか?

もしも旅行の目標が教育であるというのなら、旅行中毒を見直したほうがいい理由を、思いつきで幾つかあげてみる。

他のどこかで学んだ住み方は、移転可能でないかもしれない。それはあなたが転居しようとしているところでの住み方を学ぶのとは同じではない。道の向こうの農場でさえ、最善を導き出すために異なった知識とスキルを必要とし、それは1マイル先の農場と同じでないかもしれない。

限られた資源しか持たない脆弱な事業や運動が地元にはたくさんあり、彼らはあなたのような人たちとの係わり合いを熱望しているが、支援は限られている。あなたの存在はバイタリティーにあふれており、あなたがいなくなることで潜在的で未熟なベンチャーに致命傷を与えるかもしれない。

旅行に使っている資源を、変化をもたらすのに必要である実際の仕事のためにとっておくべきではないか?

私たちは必要な情報を持っている。実際、必要以上に。まだ持っていないものは、本当の変化を起こすための団結の努力である。家にいてください。そして、変化の始まりを支援してください!

認識が行為に置き換わることがないように、教育は実行に置き換わることがない。多くの文化において、応用がなければ、「知識」という言葉はない。教育というものは、応用がなければ、有形資産を生み出さない自己完結の行為でしかない。

実行する事から学ぶのだ。繰り返しになるが、あなたが家と呼ぶ所で役立つ事をしなさい。そうすれば、あなたが自分の事業を持つために有利なスタートを切れ、またはそれが直接貴重な経験となり、新しい知識が地元にもたらされない事を心配する必要がなくなる。

今は簡単に情報が得られる時代だ。残り少ない石油や安い航空券を使う代わりに家にいて得られる情報を活用してください。例をあげると、私は買ったばかりの調教されていない馬を荷馬として調教し私の土地を首尾よく耕作した。それは、台所の本棚の本からの知識だけで十分であり、セミナーや授業や長距離運転や飛行機など、一切必要としなかった。

難しい質問

石油以外のどんな資源が旅行によって浪費されているのか?あなたが自転車、徒歩、馬、または帆船で旅行していたとしても、旅行に費やしたお金、時間、エネルギーはあなたの地元コミュニティーにとってより重要ではないだろうか?あなたが選んだ場所で自分を確立するためよりも重要か? あなたの内面の静寂を保つためよりも重要か? 多分ね。

旅行から戻ってきたとき、あなたの資源からどのくらいの価値が消えてしまっただろう?相互的な価値を身に付けたか? それとも「むこうの」生活は、地元では置き換えることができないような異なった生活なのか?

変容する価値であるなら、見つけるために世界中を旅行する必要があったか? 自分だけでなく世界中の人たちに負担をかけてまで見つける必要があったか? 私たちはみんな最終的には、他人の贅沢のコストを負担することになる。お金持ちは自分にはどでかいオフロード車ハマーを運転する金銭的余裕があると言うかもしれない。でも、彼は間違っている。彼は運転してはいけないのである。さらに重要なことは、私たち誰にとっても彼にハマーを運転させる余裕などないということである。
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旅行は、労苦(仕事)であると表現されていのは、そんなに昔の話ではない。当時の人たちは、与えられた場所から自分たちの満足を引き出すという芸術を知っていた。現在、そんなことはないが、旅行は、かつてある程度の勇気と能力を必要とした。それはともかく、当時、「狂気の移動癖」(そんな呼び方をする人もいる) を私たちは持ちあわせなかった。私たちは土地に支配されていたのだ。私が長い間想像していた通り、そして今日、経験から学んだことだが、逃げるよりも過酷な土地とともに平和に暮らすことでより多くの生活満足度を得ることができたのだ。

わがままよ、さようなら

10年前、私はスウェーデンで行われたイタチ科の動物クズリの最初の保護シンポジウムの名誉ある講演を断った事がある。皮肉なことだが、動物の保護についての講演をするために、個人資源の浪費は言うまでもなく、そこにたどり着くまでに必要な資源(電車、飛行機、その他)の浪費をするのだ。考えると断わるのが当然と思われた。

次に気が付いたのは、多くの人たち(クズリも含む)を犠牲にして、オンライン、専門誌、さまざまな報告書ですでに公開されている情報を講演するということは、わがままに過ぎないということだった。

それ以来、私はほとんど旅行をしない。車での1時間の旅は、最近では冒険と言えるほどである。(車でなく馬に乗っての1時間の旅の方がよほど良いと思っている) でも、多くの人々はこれを旅行と見なさないだろう。実際これは旅行でもなんでもない。単に、日常、行う行動の一つに過ぎない。単純な行動!

しかし、旅行をしなければしないほど、自分が選んで住む場所の微妙でかつ無限のバラエティーに順応し、旅行がしたいと思わなくなる。おそらく、これは意外な事ではないだろう。もし、旅行が私たちにとって麻薬であると考えるなら、中毒を直すことへの第一歩は、麻薬を断つことだ。

地球上のどんな場所にも異なった世界があり、その世界は太陽と月、天気、季節、その土地を訪れ去ってゆく鳥、動物、および人々によって刻々と変化し、観察する人の内面によっても変化する。

人生が必要とする満足が地元とあなたの周りにあることを知るのは何と素晴らしいことか。

私たちが生きるこの歴史の中で、あなたの近所と地域は、あなたを必要としている。かつてこんなにも動かずにじっとしていることが大切とされた時はあっただろうか。

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本記事は2009年9月8日にNew Resilient に掲載されたもの。

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著者

ジョナサン・ライトは、カナダのカルガリー地域の農家で市で初めて行った地域によってサポートされた農業プログラムの共同設立者である。彼はパートナーのアンドリアと共にアルバータ州カーボン市の近くでトンプソン・スモール・ファームというゼロエミッション農場を経営している。

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