協力的進化のとき

進化は、適応できない者に容赦ない。テニソンが「血に染まった牙と爪」と印象的に表現したとおり、自然は常に適応の過程で何十億もの生命体や種全体を犠牲にしてきた。

だが私たち人類は、そんな自然の牙を鈍らせてきた。自力で生き残れない個人(老人、病人、けが人)の面倒を見るからだ。しかもその歴史は非常に長く、おそらく何万年にも及ぶ。ここ数十年の間に、多くの人々は社会的に確約された生存のいかだに飛び乗った。とはいえ、これは慈しみの感情とはほとんど無関係だ。現代では屈強で健康な人物でもスーパーやATM、その他近代産業のインフラから完全に切り離されてしまえば、数日、数週間以上生き残ることは非常に難しいだろう。

集団的適応力を高める戦略は(少なくとも一時的には)効果があった。結果的に死亡率は低下し、ここわずか2世紀の間に人口は700パーセントも増加した。現在は毎年約8000万人の割合で人口は増え続けている(出生数が死亡数を上回る)。人間はあらゆる場で、私たちの利益に直接関わるトウモロコシや畜牛などを除いては、ほとんどの生命体の環境収容力を奪ってきた。協調しながら自然淘汰を巧みに避けることに長け、よって(やはり一時的には)、自然選択の支配を打ち破ってきた。少なくとも他の種のように自然淘汰されずに済んでいる。

人によっては、人間社会の中でも、聡明で勤勉な者が鈍い怠け者を押しのけて成功する「自然選択」が行われているではないかと考える者もいる。社会ダーウィン説によると、このような競争による選択は種を進化させる。しかしその考えに批判的な者は、富があまりに不平等に配分されると、社会的安定が脅かされ、社会内での個々の成功は社会全体には適応しないと指摘する。それを懸念し、ほとんどの国々は競争による選択を社会的なレベルで人工的に制限している。アメリカではこの制限は累進所得税、社会保障制度、フードスタンプ、障害者給付金、メディケイド、扶養児童補助などの形をとっている。自称「保守派」は、政府は社会の勝者が全てを手に入れることを妨げるべきでないと主張するが、そんな彼の多くは教会が貧困者に施しを与えるのは良いことだと考えている。

ここ20~30年の急速な経済成長と物質過剰が(それは安価な化石エネルギーによって可能になったもの)、社会のセーフティネットを各国内で拡大してきた一方で、アメリカが先導する表面的には穏やかな世界的帝国制の出現を示してもいる。アメリカの恐るべき軍事機構が国際紛争に蓋をし、世界的に広まっている通貨は比較的安定した世界経済を維持し(当然、アメリカの利益にかなうようにである)、戦死者の数は世界的に減少し、極度の貧困による死亡率も減った。

ここまでは良いことづくめだ(大体のところは)。

しかしながら、不幸なことに、死に神を打ち負かそうという集合的努力はうまくいっているが、その多くの主要な要素は持続可能ではない。死亡率の減少は抗生物質だけによるものではなく(微生物は結局は抗生物質への耐性を持ってしまうのだが)、再生可能なエネルギーを自然の回復力を超えた速度で取り出したり、再生不可能な資源をできるだけ早く掘削し尽くたりすることにもよるものだ。過去(化石燃料が作られた時代)と未来(孫の世代が私たちの行動の後始末に追われ、借金を払い、私たちが浪費した資源なしで暮らさなければならない時代)から借りを作りながら、効率的に人口の『Overshoot(オーバーシュート)』(人口が環境収容力を超えること)を行っている。人口生態学者にとっては常識だが、種が一時的に環境の収容力を超えれば、その後は固体激減につながるのは必至だ。

“レジリエンス論者によれば、現在人類は全てのシステムの変化を特徴づける「適応サイクル」の中の「開放」の段階に入っている。これは 「資本(天然、人工、社会、インフラ、金融)が失われ、斬新なものが成功していく、急速で混沌とした段階」と定義される。”

よって、今後数年かけて世界経済が成長をやめ縮小し始めれば、その結果は世界的な死亡率の増加となる可能性が高いと思われる。

レジリエンス論者によれば、現在人類は全てのシステムの変化を特徴づける「適応サイクル」の中の「開放」の段階に入っている。これは 「資本(天然、人工、社会、インフラ、金融)が失われ、斬新なものが成功していく、急速で混沌とした段階」と定義される。本論では、この概念に何度も立ち返ることになる。この概念は、実際に経験する者にとっては「開放」というよりは「まさに地獄」と感じられるであろう状況をイメージする上で有効だ。起こり得ることとして以下が考えられる。政府援助によるセーフティネットは費用が負担しきれず廃止される。 公のインフラの衰退、経済システム、輸送システム、政治システム、医療システム、食料システムが様々な形で様々な程度で機能不全となる。世界的軍事主導権を維持することが様々な理由で維持不能になり(政治的機能不全、帝国の中核での経済衰退、輸送燃料の不足、安価ながら不安要素の高い新種の武器の拡散などが要因)、国際紛争がより起こりやすくなる。このような状況はいずれも個人のぜい弱性を増す。すると、いかだに乗るもの全員が危険にさらされる。特に貧しい者、高齢者、病人、障害者などはそうだ。

“アメリカ国民はそれに対し警鐘を鳴らしたり、反応したりすることができずにいる。国民の多数が下流階級に属し、食料過多だが栄養不足、娯楽過多だが情報不足、負債過多だが技術不足という人々が占め、はるかに少数の上流階級層は金融上の「強奪」によって生活しており、その活動による悪影響の証拠に耳を貸したりはしない。”

ぜい弱性を改善するため経済、政治、交通、医療、食料システムを設計し直すことは可能だ。こういった類の提案はもう何年もなされてきているが、そのほとんどが拒否されている。なぜなら現状で潤っている権力団体には何の得にもならないからだ。アメリカ国民はそれに対し警鐘を鳴らしたり、反応したりすることができずにいる。国民の多数が下流階級に属し、食料過多だが栄養不足、娯楽過多だが情報不足、負債過多だが技術不足という人々が占め、はるかに少数の上流階級層は金融上の「強奪」によって生活しており、その活動による悪影響の証拠に耳を貸したりはしない。

全く感情的にならずに前兆を読む人なら、人類の死亡率増加を避けがたく有益な種の自然淘汰だと考えるかもしれない。適応できないものは排除され、適応したものが生き残り、人類はそのおかげで良くなる、と。最終的には。理論的には。

あるいは、裕福で無慈悲な者たちが生き延び、他の者は消えうせるか奴隷として服従するかを選ばざるを得ない状況もあり得なくはない。

最大の危険は、社会の支援システムが完全に崩壊しない限り、「オーバーシュート」は「アンダーシュート」に変わってしまう可能性があることだ。アンダーシュートとは人口レベルが、積極的な適応が行われていれば維持されていたであろうレベルより生存者の数が少なくなるところまで過剰な補正を行うかもしれない点だ。それはおそらく産業革命直前あたりの人口よりはるかに少ないだろう。そして何とか生き延びることができた人にとって、文化とテクノロジーのレベルは、何らかの対策が行われれば保存されていたであろうレベルをはるかに下回る程度に落ち込むかもしれない。

今となってはもう何を試みようが、私たちの前には、環境社会学者ウィリアム・カットン氏が「人口のボトルネック効果」と呼ぶ事象が厳然と待ち構えている。たとえ明日素晴らしい新たなエネルギー源が見つかったとしても、少々時間稼ぎをしてくれる程度にすぎない。だが、たとえそうでも私たちはボトルネックをどうやってくぐり抜けるべきか選択することはできる。どれだけの者がどのような状況で生き残れるのかを決定する要因に影響を及ぼすことは可能なのだ。

協力的適応か競合的適応か

最悪のシナリオを避ける唯一の方法は、欠乏に適応し危機を脱出するため効果的かつ協力的に努力をすることだ。

幸運にも、この種の協力的な活動が実際に現れつつあると信じられる理由はいくつかある。人類はこの上なく協力的な種であり、私たちの最も初期の先祖たちも徹底した共同体主義者だった。他の種にも、食べ物の取り合いや交尾相手をめぐる小競り合いなどはあるものの、同様に共有し合い協力する行動が見られる。ある種の個体が、別の種の個体と協力したり助けあったりする行動も見られる。進化論者ピョートル=クロポトキンは1902年に著した傑作『相互扶助論』 で、進化は競争だけでなく協力によっても進められることを指摘している。

“たとえ私たちが危機を回避することはできず、それに反応するしかないとしても、人間はいくつかの可能な未来を予期することはできる。それは競争に向けたものか、協力に向けたものかで異なってくる。”

核心を突くとこうだ。苦難の時は人間の最悪の部分も引き出すが、最良の部分も引き出す。レベッカ・ソルニット氏が『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』の中で(ニューヨークタイムズの書評をご覧ください) 人々は危機に直面すると、最低でも物が豊かにある時と同様程度に協力し、共有し、助け合う傾向があると述べている。批判的な人はソルニット氏の主張は誇張に過ぎず、崩壊しつつある社会では犯罪や暴力の発生率が跳ね上がるではないか(例えば2000年頃のアルゼンチンのように)と反論するかもしれない。

たとえ私たちが危機を回避することはできず、それに反応するしかないとしても、人間はいくつかの可能な未来を予期することはできる。それは競争に向けたものか、協力に向けたものかで異なってくる。競合的・協力的シナリオのスペクトルの片方の端では少数の金持ちが封建領主となり 残りは極貧生活に苦しむ。もう一方の端では自由な個人の共同体が団結し、生活必需品を生産し集団の繁栄を最大限に引き上げようと努める。「競合的」な側では食料の買いだめと広範囲の食料不足が起こるが、「協力的」な側では パーマカルチャーの畑があちこちにできる。競争がさらに激化すれば、人々は基本的生き残りの技術を持たず死んでゆく。さらに協力すれば、人々はそれぞれの技術を共有し、何らかの障害がある者たちの世話をする。投資家が自分たちの利益を守るため競争的努力を進めれば金融機関に対する信頼が崩壊してしまうかもしれない。そうなれば最終的には全ての取引が途絶えてしまう。だが十分に協力し合えば、人々は成長をベースにしない公益事業の役割を果たす金融システムを作り、共同体主義社会経済が実現する。

「開放」への序奏

現実社会では人間は競争的でもあり、同時に協力的でもある。ずっとそうだったし、今後も変わらない。だが環境や、条件付け、脳内物質によって、より競争的になったり、より協力的になったりするのだ。今から数十年後に人口・資源・経済のボトルネックを通過する時には、様々な場と時に競合的・協力的行動が交互に見られるようになるだろう。このことに関する私の第一の主張は、経済的、環境的危機を効果的に回避する方法がなくても、欠乏と危機に直面した時に人はより競争的な方向へ進むか、協力的な方向へ進むかを自分で選択する能力はあるということだ。必要な社会構造と条件がそろえば、社会全体がより冷酷になったり、友好的な方向へ進んだりする。 地域社会の機構を今構築しておけば、後々の生き残りの展望を改善できるのだ。

さらに論を進めよう。これは裏付けの証拠も反論も収集中の、まだ準備段階の仮定である。人間は権力者らが、崩壊しつつあるシステムをなんとかそのままにとどめ再構築しようとする「開放」の初期段階では、冷酷な競争の最悪な部分を目にすることが多い。不確実性と恐怖に直面し、今あるものにすがりつこうとする努力は、私たち多くの人間から競争的な性質を引き出すのだ。しかし一旦危機のど真ん中に突入してしまえば、人は結束する傾向にある。

“エリートたちは(やみくもな愛国主義、意見の割れる議論、人種的恨みなどを利用して)意図的に「我々対彼ら」というメンタリティを植えつける。”

エリート(莫大な富、権力、権利が脅かされる可能性のある人々)の間では前者の傾向が見られた。 そんなエリートたちが中心になって社会全体の規則や規制や情報の流れを決めるため、私たちは皆、運命の瞬間が来るのを待つ間、激しく競争的で恐怖に満ちた時を過ごさざるを得ないということだ。エリートたちは(やみくもな愛国主義、意見の割れる議論、人種的恨みなどを利用して)意図的に「我々 対 彼ら」というメンタリティを植えつける。一般大衆が共通の利益を促進しようと協力することを阻むためだ。革命とは多くの面で協力的なものであるが、支配者はそれを防ぐため大衆の協力的精神を共通の外国の敵と戦うよう仕向ける。

「開放」直前の段階にある今、この過剰競争は非常に端的で決定的な形で「緊縮財政」に関する議論の中で見られる。国は解雇、年金カット、賃金カットに苦しむ多くの国民のことは放り出したままで、投資銀行救済を行っている。投資家にとって債務不履行、損害が生じないような対策は、どんなものでも過酷とは思われないようだ。しかし多くの過去の事例(ロシア、アイスランド、アルゼンチン)では莫大な債務不履行が起こってしまってから(つまり「開放」の段階に突入してから)初めて国家は金融と銀行システムを根本的に改革し、回復を可能にすることができた。これではまるで、「開放」は遅すぎるバケーションだ。だが、ここで強調しておきたい。今私たちが直面しているのは国の経済部門だけの崩壊と再構築の問題ではない。文明そのものの拡大主義的な軌跡全体を含むものなのである。

極めて重要な適応サイクルの「開放」段階を私たちが集団で通過し、その後再構築する過程は1つの進化の過程だと考えることができる。前述したとおり、進化は競争だけでなく協力によっても進む。実に、私たちの種の輝かしい業績のほとんどは、協力によって成し遂げられてきたものだ。言語(それは時空を越えて私たちの行動を統括する能力を与えてくれるものだ)は私たちを地上で他をはるかにしのぐ成功を収めた大型動物にしてくれた。狩猟採集社会集団から農業文明そして産業化グローバリズムへの社会的進化には常により高い協力姿勢が必要だった。その1つの小さな例として高層ビルを建て住むためにどれだけの濃密な協力的行動が必要かを考えてみて欲しい。今後の何十年、何百年に渡って適応し進化するには、より効率的に協力する方法を探りながら進んでいくであろう。

しかし皮肉にも過去数千年、特に過去100年の間に、社会がより複雑になって富の集中を招き、よって経済的不平等が起こり、今度は山積みの富の支配をめぐってより競争が熾烈になった(少なくとも、その可能性がある)。イバン・イリイチ氏が1974年の名著『エネルギーと公正』で指摘しているが、社会全体を動くエネルギー流通の総量と不平等の度合いには一般的に相関性がある。よって私たちが化石燃料を手に入れ、人類文明史上例を見ない量のエネルギー流通を許すとともに、わずか一握りの人間が、それまでにはあり得なかった膨大な富を蓄積するようになった。まさにこの異常なまでの高エネルギー時代に、社会的ダーウィン主義や新自由主義経済が現れ、やがて後者が世界中の経済と社会政策を占めるようになったのも驚くにあたらないだろう。

躍進

「開放」と共に、協力的進化のうねりがやってくる。適応サイクルの開放段階では斬新なものが成功する確率が高くなることは既に述べた。最近の人々は「斬新さ」を技術的な面に限定して考える傾向にある。確かにEメールやツイッターは社会的変革の速度を早めることはできる。例えば、即座に政治集会を開くことが可能であるなどだ。とはいえ、毎日一人で画面の前で過ごしていても必ずしも協力的行動にはつながらない。さらに、世界的経済危機、貿易関係の崩壊、資源不足に瀕した状況にあっては、手の平サイズの機器など頼りにできなくなる可能性も十分あり得る。よって今後決定力のある技術革新が起こるのは、バーチャルではない生身のコミュニティでの交流によるものとなるだろう。

詳細を予測するのは不可能だが、協力的進化における跳躍に必要な概要は明らかである。環境システムへの人的負荷を最低限に減らしつつ、天然資源の保全に努めるため協力的能力を結集させなければならない。それはいくつかの面では伝統社会の共同牧草地や狩猟地域の管理方式を改良する程度にしかならないかもしれない。だが今日のリスクは非常に高い。一般人はあらゆる再生・再生不能資源を利用するよう範囲を広げるべきであり、「経営陣」は掘削や収穫レベルを自然システムが回復・再生できる長期的な環境収容力内にとどめなければならない。

“私たちが現在の苦境にあるのは集合的適応を達成するために協力する能力がないからではなく、成功の過程で私たちを支える自然のシステムの有限でもろい性質を十分に考慮に入れなかったためなのである。”

同時に、化石燃料の枯渇のためエネルギーの流通が減るにつれ、現在の経済的不平等なレベルは保てなくなるだろう。適応過程で、私たちは平和裏に格差を埋める方法を見つけなければならない。

「再組織化」(開放の後の段階)の基礎を築くには、全ての社会構造と基盤にレジリエンスを構築しなければならない。今後数十年、私たちは、人口を長期的環境収容力内にとどめるという内在的必要性を満たしつつ低資源、低エネルギーで需要を満たす方法を開発しなければならない。

人間はあまりに自分勝手で個人主義的だから、このような進化的跳躍をすることはできないだろうという者もいる。あるいは、たとえそれが可能でも時間があまりにも限られている、と。彼らが正しいなら、これで種の終わりなのかもしれない。つまり、まもなく人類は進化の歴史における「適応せざるもの」の側になってしまうということだ。だが、人類のこれまでの素晴らしい協力的偉業の歴史を鑑みるに、さらに、言語によって(今のところはまだ、瞬時にコミュニケーションを取れるテクノロジーの力を借りて)速やかに協力的行動を取れる能力を鑑みるに、人類が危機を切り抜ける見込みは十分あるとみなすのは理に叶っている。

確かに進化は危機によって進む。人は必要性に応じて適応する。開放の段階では暴力の可能性も非常に高い。適応サイクルにおける開放の段階とは資本が破壊されるときを指す段階のことだ。現在、おびただしい数の人間、インフラ、 経済資本が崩壊の時を待っている。ほんのひとかけらを奪い合う社会がそこに待っているのだ。現状の危険性を察している多くのものは「プレッパー」(非常事態に備える者)または「サバイバリスト」(生存主義者、非常事態に自分たちだけ生き残ろうとする者)になることを選んだのも不思議ではない。だが、銃や缶詰を買いだめしておく代わりに隣人と親しくしたり効果的な会議を進行する術を学んだり、レジリエンスのある地元の食料需給システム構築に関わったりすれば、事態はもっと良い方向に進むことも可能だ。人類の生存は、犠牲が共有され、共同の努力の賜物は保存され、思いやりが大切にされる協力的な道を見つけられるかどうかにかかっている。

ダーウィンは進化しなければ種は死ぬと述べたが、それは現状の私たちのとるべき選択肢を浮き彫りにしてくれる。多くの人々は適応と自分勝手は同じものだと考えているようだ。しかし私たちが現在の苦境にあるのは集合的適応を達成するために協力する能力がないからではなく、成功の過程で私たちを支える自然のシステムの有限でもろい性質を十分に考慮に入れなかったためなのである。個々のイニシアティブは大切であり、集団思考は人を無能にすることも確かだ。しかし私たちをここまで進歩させてきた集合的適応性を増すため社会を革新し、協力する力は私たちにはある。その力が、今後数十年の資源不足に適応し、生態系と再融合する中、私たちの生存の可否、条件を決定付けるのだ。

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この記事は2012年8月15日Post Carbon Institute websiteで公表されたものです。

翻訳:石原明子

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協力的進化のとき by リチャード・ ハインバーグ is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.
Based on a work at http://www.postcarbon.org/article/1057153-our-cooperative-darwinian-moment.

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著者

リチャード・ハインバーグ氏はポストカーボン研究所の上級研究者であり、第一線で活躍するピークオイル教育者として広く知られている。これまで多数の論文や記事を「ネイチャー」、「エコロジスト」、「アメリカン・プロスペクト」、「Public Policy Research」、「Quarterly Review」、「Z Magazine」、 「Resurgence」、「フューチャリスト」、「European Business Review」、「Earth Island Journal」、「Yes!」、「Pacific Ecologist」、「The Sun」などの雑誌・新聞や、「Alternet.org」「EnergyBulletin.net」、「TheOilDrum.com」、「ProjectCensored.com」、「Counterpunch.com」などのウェブサイトに寄稿している。レオナルド・ディカプリオ制作リチャード・ハインバーグの環境ドキュメンタリー映画「The 11th Hour」など、数多くの映画やテレビドキュメンタリーにも出演。 卓越したエネルギー教育者に贈られるM・キング・ハバード賞を受賞した。

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