生存主義の復興

「こうなるとわかってたよ」
「わかってただって?」
「ああ、こういう事態になるだろうってね。 いつだってそう信じてた」
「何か備えをしたか」
「いや、何ができるっていうんだ?」

コーマック・マッカーシーによる印象深い小説『ザ・ロード』の登場人物が交わす会話だ。生物圏が完全消滅し、生き残った生物は人間のみという世界が描かれている。

この会話は、温暖化やピークオイルなどの諸問題をひき起こしてきた文明というものの終わりが迫ったときに多くの人々が感じるだろう思いを代弁している。「何ができるっていうんだ?」私たち多くの人間にはせいぜい情報を集めることぐらいしかできない。最近になって様々な生存主義(サバイバリズム)に関するサイトや本、映画が次々に現れてきている。

生存主義者のサイトLife After the Oil Crash(オイル・クラッシュ後の世界)は、ピークオイル説を受けて、石油が枯渇しつつあるため「我々の知る文明はまもなく終わりを迎えるだろう」と警告している。

このサイトには本のリストが挙げられている。ポール・ロバーツ著の『石油の終焉』(2005)、 リチャード・ハインバーグ著の『The Party’s Over: Oil, War and the Fate of Industrial Societies』(パーティは終わった―石油、戦争、産業社会の運命)(2005)、ジェームズ・ハワード・カンステラー著『The Long Emergency』(長い非常事態)(2006) などである。それらはいずれも今こそエネルギーの将来を再形成しなければ、重大な結果を招くだろうと訴えている。

読書派というより映画派だという人向けには、陰鬱としたドキュメンタリーも増えてきている。「郊外型生活様式の終わり」(2004)、「A Crude Awakening: The Oil Crash」(怖い目覚め:オイル・クラッシュ)(2007)、そしてつい最近の暗い映画「Collapse」(崩壊)(2009)。 いずれもメッセージは単純明快だ。「深刻な問題が起こっている」

ウェブサイトThe Life After the Oil Crashでは商売も繁盛しているようだ。太陽電池を使った装置や浄水用マイクロフィルター、非常用ラジオや無線など大量のサバイバル商品が宣伝されている。また日和見主義者には『Profit from the Peak』(ピークオイルで得られる利益)(2008)というガイドがお勧めだ。そこではピークオイルこそ21世紀の最大の投資対象だと謳われている。

それは行き過ぎだ、気候変動などの方が好みに合う、と感じるようならデヴィッド・デ・ロスチャイルド著『地球温暖化 サバイバル ハンドブック』がよいだろう。このガイドブックには気候変動を防ぐための77の方法が挙げられている。アル・ゴア氏の壮大なドキュメンタリー「不都合な真実」(2006)は忘れがたいし、「The Age of Stupid」(エイジ・オブ・ステューピッド)(2009)も非常に興味深い。

別の視点からは「End of the Line」(飽食の海)(2009)が、過剰漁獲のため漁業自体が崩壊すると警告している。また「ブルー・ゴールド:狙われた水の真実」(2009)は、将来的には水をめぐって戦争が起こると述べている。

これら作品の目的はいずれも迫り来る世界的危機への関心を高め、そのような危機を防いだり、避けたり、生き残ったりするための行動を促すことだ。しかし意図していないにも関わらず読者や視聴者を絶望的・否定的な気分にさせるという間接的な効果もある。(「何ができるっていうんだ?」症候群)ゆっくり進行しつつある環境の変化を説明する別の方法はないものだろうか。

生存主義の歴史

既にご存知だろうか。生存主義は産業革命の時代からある考え方だ。『The Politics of the Earth』 (地球の政治)(1997)の著者ジョン・ドライゼクによると、生存主義の提唱者はウィリアム・フォスター・ロイドとトマス・マルサスだという。 マルサスが1798年に有名な人口原理論の最終版を出版したのち、ロイドが1833年人口増加抑制について述べている。2人とも共有資源の乱用と制御されない人口増加の危険について紹介したのだ。

2人の考えは130年以上経った後、1968年の生態学者ガレット・ハーディンによる論文「The Tragedy of the Commons」(共有資源の悲劇)、そして1972年のデニス・メドウスらによる『成長の限界』へと引き継がれる。後者は、ローマ・クラブ(ローマのシンクタンク)が依頼した研究で、私の大学の授業では必読書だったものだ。幾何学級の成長と限りある資源の関係について述べられ、私たちはいずれ資源の限界を超えてしまう危険があると指摘されている。

生存主義の歴史は多くの著名な科学者、学者、評論家によって受け継がれてきた。その中にはワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウン、生物多様性の世界的権威ノーマン・マイヤー、生物学者、かつ教育者、そして『人口爆弾』(1968)の著者でもあるポール・エーアリックらが含まれる。

彼らは皆、幾何学的成長の脅威について警告している。最良の例は、レスター・ブラウンによる1978年出版の『地球29日目の恐怖―人間と資源の調和を求めて』の中で美しくシンプルに語られる物語だろう。池があり、そこではハスの葉が毎日倍に増えていく。29日目、ハスの葉は池の半分を覆っているだけなので、特に問題はない。ところがその翌日ハスの葉はまた倍に増えて池を完全に覆いつくしてしまう。

このような比喩を使って科学者たちが訴えているのは生態系の環境収容能力についてである。人口がその能力を超えて増加すれば、生態系は崩壊してしまう。科学者たちもエンジニアや地質学者と同様に、現代の産業社会が依存している資源に関しても限りがあると警告しているのである。

これらが生存主義の議論の代表的なものであるが、彼らの声は1990年代の持続可能性に関する議論の大転換を迎えて、すっかり鳴りを潜めてしまった。

そう悲観的にならないで

世界的に環境問題が議論される中、生存主義が隅へ追いやられている原因のひとつは、その考え方があまりに悲観的で、実質的な解決策や将来像を示さないという点である。かつてマルサスは物質的進歩や富の蓄積という概念を軽視しすぎだとして批判にさらされたものだ。現在もそれは変わっていない。

生存主義者は人類の英知、創造性、才能、技術革新、テクノロジー、見事な適応力や回復力といったものをあまりに軽んじていると非難されているのだ。

エーアリックが説明した人口爆弾はチクタクと秒を刻みながらも爆発はしない。成長の限界という概念も一般人の目には見えない。生存主義者は人類の英知、創造性、才能、技術革新、テクノロジー、見事な適応力や回復力といったものをあまりに軽んじていると非難されているのだ。

気候変動、ピークオイル、生物多様性、食の安全に関する議論の中でも同様に楽観論者と悲観論者に別れる。ビヨン・ロンバーグのような人々は、今の状況は最高で、温暖化ガス排出を削減することより、限りある資源を必要な分野で使うことの方が大切だと主張している(「Sceptical Environmentalist, 2001」〈環境懐疑論者2001〉をご覧ください)。 また、マイケル・シェレンバーガーやテッド・ノードハウスは「環境主義の死」(PDF)という論文の中で、現代の環境主義は最も深刻な生態系の問題に対処することはできないと述べ話題となった。 彼らは、地球温暖化に関して環境主義者がひとつの問題に的を絞るのはよくないとし、我々に必要なのは大胆なクリーンエネルギー革命や、「アポロ計画(人類を地球に送る計画)」のような努力であって、慎重な京都議定書ではない、と主張する。

彼らの主張には一理あり、確かに世界的資本主義においては楽観的な視点の方が向いているかもしれない。一方の生存主義者の議論は、消費に基づいた現代の生活とは正反対の方向を向いており(自制、自給自足、抑制など)、政治指導者にとっても、一般人にとっても魅力的とは言えないのである。

もし彼らが正しかったら?

「オオカミが出た!」と嘘を繰り返した少年の物語が悲劇なのは、最後に本物のオオカミが現れるからだ。

地球存亡の危機についてあまりに何度も聞かされた私たちは、今度「オオカミが出た!」と少年が叫んでも助けに行くのはやめようと決める村人たちに似ているかもしれない。そうやってヒツジを失うリスクを冒すのだ。オオカミはいろいろな形で必ず存在するのだから。

しかし環境問題における「オオカミ」は本物なのだろうか?2008年、グラハム・ターナーは「成長の限界」のシナリオと、1970年から2000年にかけての実際のデータを比較検証した。そして残念ながら、「生活水準維持」「業務形態維持」したままでは今世紀半ば以前に世界は崩壊するというシナリオに実態が酷似していると結論付けた(PDF)。これは恐ろしい警告である。

しかしながら、そのメッセージはなかなか伝わらない。大衆はこの不況の中、現在の仕事にしがみつくだけでも必死で、近未来の世界の実態などという難しい問題に関心を向ける余裕などないのかもしれない。「きっと誰かが対処してくれるだろう」と願いながら。

あるいは、ドライゼクが指摘したとおり生存主義はエリート集団のみに訴えかける考え方なのかもしれない。だから世界の政府は新たな世界気候変動に関する協定を結ぶことに関心を向ける一方で、大衆の方は関心が薄く、「Apocalypse Fatigue(終末論疲れ)」を起こしているようである。少なくとも、そう考えざるを得ない。

生存主義者が伝えるメッセージは、実際に危機が起こって初めて人々の耳に届くのかもしれない。そうなれば人々は「どうして今まで誰も話してくれなかったんだ」と非難を始めるだろう。そして生存主義者の方は「どうして今まで我々の意見を聞いてくれなかったんだ」と答えるのだ。

しかし、もし私たちが本当に今 転換点に立たされていて、温室効果ガス排出抑制経済の中、モノ不足の時代に入りつつあるのだとしたら、次の質問はこうだ。「どうしたらこの議論をエリート集団や組織だけではなく、より幅広い社会へ届けることができるのだろう」 だがそれは不可能なのかもしれない。ジャレッド・ダイアモンド氏が2005年発行の『文明崩壊』で語る通り、不可能だからこそ文明が崩壊するのかもしれない。いったい私たちに選択肢はまだあるのだろうか。既に崩壊への道を私たちは選んでしまったのだろうか。

ダイアモンド氏が説明するには、文明は殺されるのではなく、自殺するのだという。問題解決に優れる社会であっても、固定観念が問題解決を阻むのである。例えば、かつての課題が安価なエネルギー源を提供することだったとき、人々はその答えを石油に見出した。しかし今になっても、その当時の石油が必要だという観念に縛られ、どんどん石油が減少していく現実に、どう対応してよいかがわからないのだ。

また見逃してはならない点として、重要な「資源不足」が挙げられよう。それはエーアリック、ブラウン、メドウズ、マイヤーズらのように尊敬と名声を集める、生存主義を語れる若い新世代の科学者たちである。いまのところ生存主義を受け継ごうとする若い科学者はみられないようなのだ。生存主義など疑わしく、見当違いで不適切だと考えられているからだろうか。生存主義的な環境論は、かつてシェレンバーグやノードハウスが私たちに訴えた通り、本当に絶えつつあるのだろうか。

あるいはその逆に、モノ不足や自己抑制といった概念を広めようとするウェブサイト、書籍、映画が勢力を伸ばしているのは、今後生存主義が主流になる第一段階なのだろうか。たとえ今はほとんどの人が耳を傾けていないとしても、生存主義はひそかに復興し始めているのだろうか。

翻訳:石原明子

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生存主義の復興 by ブレンダン・バレット is licensed under a Creative Commons Attribution 3.0 Unported License.

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著者

ブレンダン・バレットは1984年からイギリス原子力発電所の環境アセスメントに従事して以来、環境分野に従事してきました。環境スペシャリスト、都市設計者でもあり、コミュニケーションや教育をはじめ環境問題の研究のため、ITを駆使しています。

博士課程を終了後、1997年から国連大学に加わり、2002年に国連大学メディアスタジオを立ち上げました。

IUCN(国際自然保護連合)教育・コミュニケーション委員会のメンバーでもあり、オーストラリア環境研究ジャーナルやサービス・リサーチ・ジャーナルの国際編集顧問委員会のメンバーとして活躍。2002年から2005年には情報社会サミットで、国連大学の中心的役割を果たしました。

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