アフリカゾウが、マンモスのユカに取って代わる時

2007年に開催された14ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約、CITES)締約国会議の傍らで、ある興味深い会話が交わされていた。ワールド・フォーラム・コンベンション・センターのコーヒーショップの片隅で、二人の代表者が交わしていた会話だ。

「なぜゾウを過保護に扱うんですかね」と一人の代表者が言った。「象牙取引をしなければ、ゾウの価値が下落して、結果的に絶滅につながりますよ。いずれマンモスのように絶滅してしまうでしょう……。我々は象牙を採取し、利用し、全てがブラックマーケットに流れてしまう前にアフリカ諸国の経済を構築すべきです……。一部の地域では、ゾウが人間を殺したり作物を荒らしたりするレベルにまで個体数が増えています」

もう一人の代表者は反対意見だった。彼は次のように主張した。「ゾウは取引されるべきではないですし、商品として見ることさえ許されませんよ……。ゾウは人間と同様に生き物であり、保護されて当然です。そして人類がゾウを絶滅させる原因になってはいけません……。我々は国立公園を強化し……人間による妨害を廃絶し……資源を消費しない観光だけを利用すべきなのです。象牙の販売が承認されれば、違法な密猟が深刻化します……。ゾウはアフリカ西部の一部の地域では絶滅に近い状態ですよ……」

二人の会話は、文化的関心などに基づく見解に重点を置いた方向で長々と続いた。その日のうちに、議会では折衷案が合意された。その合意によって、アフリカ南部4カ国の政府が所有し由来が確実な登録済みの象牙の在庫は、象牙販売に関する国内の管理が十分であることをCITES事務局が認証した国に対して販売することが可能になった。

“アフリカゾウやサイ、そしてゴリラやトラといったカリスマ性を持つ種の運命が相変わらず不安定なままだとすれば、あまり知られていない種の絶滅はニュースの見出しに載ることさえないだろう。”

今、私がこの記事を書いている間にも、アフリカゾウはアフリカ西部と中央部で絶滅の危機に直面している。代表者たちの会話で示された二つの意見は、二つの相反する中核的信念の表れだ。すなわち人間中心主義と環境中心主義である。自然の保護と管理に関する政策プロセスは、しばしばこの二つの中核的信念を反映しており、政策立案者の間に今でもしっかりと刻み込まれている。そして、話し合うことが何もなくなる時まで、刻み込まれたままだろう。

保護政策のサブシステムにおけるこうした意見の衝突は、野生動植物を絶滅から守る適切な方法を特定する上で最大の障害物のひとつだ。

アフリカゾウやサイ、そしてゴリラやトラといったカリスマ性を持つ種の運命が相変わらず不安定なままだとすれば、あまり知られていない種の絶滅はニュースの見出しに載ることさえないだろう。ジャーナリストにとって、チョウの種やカエルの種の減少について報道することは、必ずしも新聞の売り上げ部数を伸ばすことにはならない。テレビ局やその他の報道メディアにおいても同様である。

ナイロビで新聞社に勤めるジャーナリストと話した経験から、私は環境関連のニュースがケニアではメディアにどう捉えられているのか、興味深い洞察を得た。彼によると、野生動植物は必ずしもケニアの人々の関心を集めていないという。彼は次のように続けた。「国民は野生動植物の運命に同情的ではありますが、本質的に熱い思いを抱いているわけではありません。彼らが知りたいのは政治、犯罪、ゴシップ、雇用、そして携帯電話の新製品のことです。つまり、生態系の問題に関心があるのは、欧米諸国の政府から資金を得た小さな特定グループに属する人々やムズングー(白人)だけなのです」

ある意味で、アフリカの環境保護における深刻な欠陥とは、その方向性が植民地主義や白人の情熱に関連していることだ。さらに、私たちが大量絶滅について語る時、その研究を行うのは一般的に欧米の研究者たちであり、資金はヨーロッパや北米の国の組織が提供しているようである。それがチャールズ・ダーウィンであれ、リチャード・リーキー氏であれ、どういうわけか世界は進化と保護に関する欧米的認識に偏らざるを得ない。このようなイデオロギー間の断絶が、アフリカや東アジアの地域で保護が低い優先順位に置かれているもうひとつの理由である。

カリフォルニア大学バークレー校のアンソニー・バーノスキー氏と同僚らが執筆し、『ネイチャー』誌に掲載された論文が、幾つかの興味深い結果を強調している。

ここで、次のような疑問が浮上するかもしれない。人類の誕生以前にも大量絶滅は起こったのに、なぜ6回目の絶滅をホモ・サピエンスだけの責任と考えるべきなのか?

この疑問に対する古生物学者や生物学者の説明は、6回目の絶滅はホモ・サピエンスの誕生以降初めての絶滅期であり、10万年前のホモ・サピエンスの誕生と同時に始まったというものだ。残念ながら、世界が今日ほど相互につながっていなかった時代には、人類の消費パターンと野生種の数はあまり明らかではなかった。

この現象について、ギャレット・ハーディン氏は1968年、『サイエンス』誌に寄稿したエッセーでうまく説明している。彼は牧夫の例を使って「共有地の悲劇」を説明した。限りある世界で、牧夫は自分の家畜を無限に増やさざるを得ないシステムに閉じ込められている。荒廃あるいは悲劇が始まるのは、全ての人々が殺到し、それぞれが最大の自己利益を追求し、さらに社会が共有地の自由を信じている場合である。共有地が海洋であっても、世界各地の広大な森林地であっても同じである。

ハーディン氏が言及した自己利益は、私たちの種の発見にも非常に明らかに見て取れる。私たちが現在知っている種は、国際自然保護連合(IUCN)によって評価された種の小集団に基づいた推定なのだ。

種の研究者も権力とインセンティブに左右されていると論じることも可能だ。ジョン・ホーガン氏は自著『科学の終焉(おわり)』の中でダーウィンを引用し、科学を探究する強い衝動が進化するのは、真実そのものを知りたいという私たちの欲望によるのではなく、私たちの遺伝子が優勢となる可能性を高めるために環境をコントロールしようとする強迫的欲求によるのだと論じた。言い換えれば、社会が全体的に関心を持たない研究の場合、その研究を科学者に促すインセンティブは少ない。さらに、知識や情報を収集するというこのプロセスは、状況を理解したり問題を解決したりすることだけが目的ではなく、より高度な交渉力を得るためにも利用される。権力政治と保護に関する情報科学のおかげで、IUCNは今でも保護の優先順位を決定付ける最高権力機関だ。

種の研究がインセンティブに関連する場合、いかにインセンティブが社会の優先順位に関連しているかを私は以前、示したことがある。保護が低い優先順位に置かれていることが、諸問題への答えを見つける上での根本的な問題なのだ。一部には、私たちの教育システムがその原因である。生き生きとした自然の描写は、私たちが幼稚園で親しむ本や物語から始まる。しかし成長するに従って、私たちのあからさま本能は自分自身の発展に向かう傾向がある。この発展への欲求は、直接的あるいは間接的に、知らぬ間に競争を促す。同一の種の間での競争(経済的および社会的階層間での競争に加えて、仲間同士の競争)もあれば、他の種との競争もある。後者の場合、私たちは自分たちの目的を果たすために他の種やその生息地を勝手に利用する。こうした生存本能は衝動として、地域から全国へ、そして国際政策へと伝わっていく。

上記の主張は経験的事実に基づいて歴史上で確認することができる。自然や保護への投資は資源開発と共に始まったことは、あまりにも明白だ。人類が自然のことを本当に考えたのは唯一、環境に対する人間の行動が人類そのものを滅ぼすことに気づいた時だけである。1960年代の終わりには、環境への産業化の影響が人間と自然の両方に打撃を与え始めていた。その状況が結局、環境運動を生み、保護主義的アプローチはさらに勢いを得た。

しかし1980年代の終わりには、持続可能な利用という概念が徐々に発展していった。例えば、保護主義と功利主義の折衷案や、資本主義と社会主義の接近である。持続可能な開発は、経済や政治の自由主義あるいは新自由主義にとっての勝利でもあった。そして同じ理由から、持続可能な開発は、さまざまなフォーラムや国での議論の場でさまざまな解釈がなされている。

過去から未来へ

私たちが過去から未来へ向かうにつれ、減少する種を守る活動が形成しつつある。しかし、その対策は満場一致で認められてはいない。私は、アジア諸国(中国、日本、インドを含む)が種の保護を目指す世界的基金の創設を先導するとは思えない。私の考えでは、基金は絶滅のスピードを遅らせる重要な条件である。

残念なことに、保護活動を襲った最大の誤算は実際のところ、世界金融危機と欧州連合の危機である。前述のように、保護に対する世界の関心は一度も優先されてこなかった。むしろ、保護は常に優先順位の最下位辺りに置かれてきた。アジア諸国が世界的な種の保護プログラムを導入するためには、保護すべき種が存在する一部の国で経済を成功させなければならない。

例えば、政府が他国に保護助成金を提供する場合、助成金は自国の事業利益にとって好ましい条件と引き替えにすべきだと主張する人もいる。例えば助成金を受ける国の資源(木材、鉱物、その他の生産物)への優遇的あるいは戦略的なアクセスなどだ。その結果、保護は経済支援に左右される可能性があり、そうなれば選択肢が少ない困難な取り組みとなる。

第2の問題は人口増加である。人口の爆発的増加はインドと中国でピークを迎える見通しだ。アフリカの人口も急増している。中国の事例を見ると、いかに経済成長が世界規模での種の搾取につながり、世界にとって過剰な市場価値を生んだのかが分かる。アフリカの人口増加と繁栄がアジアのレベルにまで達した場合、野生動植物の消費的利用の需要がアジアと比べてはるかに高くなるかどうか、興味深いところである。なぜなら文化的に(繁栄するにつれて文化が変わらないとすれば)アフリカの人々は中国人よりもブッシュミート(野生動物の肉)や珍しい肉を好むからだ。中国の成長はまた、経済の高まりと共に伝統的な文化や儀礼がさらにブランド化されていくこと(つまり、珍味として広く認知されること)を証明した。こういった状況が保護活動を推し進めることはあり得ない。

第3に、種の保護のための進歩的政策を決定付ける政策立案者の選択が問題である。政策立案者は必ずしも、種を愛する者や専門家である必要はないのだ。彼らは提供されたり入手できたり便利だったりする科学に頼らざるを得ない。しばしば実際の解決策よりも利便性が優先され、便利な政策は必ずしも保護にとって正しい政策とは限らない。

皮肉にも、世界の共有地の大部分は政府の管理下にあり、政策はひとつの選択だけではなく幾つかの広範囲な背景に基づいて作られる。そのため、開発がさらに優先され、2国間でのビジネスチャンスで調和を図ることも可能になる。

国レベルでは、政策立案者は環境に関する背景を検討する前に、社会的および経済的利益を結びつける。その理由は明らかだ。すなわち社会と経済の影響は、環境問題よりも官僚制度の安定に重大な結果を招くからだ。

結果として、こうした観点から導き出された政策は幅広い背景を扱うものになる。つまり、特にどの問題にも具体的には取り組まないのだ。確かに科学者や非政府組織は、政策文書の中で言及された言葉を引き合いに出して主張を通そうとするが、そうした言葉は往々にして政策立案者にとっては最も重要なものではない。

こうしたシナリオの典型的な例は、東南アジアのある国で環境犯罪に取り組んでいる担当官と個人的に議論した私の体験から説明できる。その国で野生生物に関する違法な犯罪が深刻化した時、政府は野生生物関連の犯罪について議論するため、取締官全員を会議に招集した。会議は、国際刑事警察機構との情報共有を含む、約束と今後の対策と共に終了した。

ところが会議が終わると、取締官たちは野生生物に関する犯罪を深刻な問題として取り扱うことにあまり積極的ではなかった。野生生物関連の犯罪対策は彼らにとって優先事項ではなかったからだ。結果としてその会議は、ただの議事録とプレスリリース以上のものを生み出さなかった。

取締官と環境犯罪の間のこうした断絶は、特に優先順位の問題が絡む場合、世界的な傾向であるようだ。従って、イギリスの野生生物犯罪の担当部署のひとつが、その存続のためにNGOから資金提供を受けざるを得なかったことは驚くべきことではない。

政策立案者たちの関心は、外部からの経済的インセンティブに基づいて動く可能性もある。タンザニアの事例では、マサイ族がンゴロンゴロ自然保護区内の土地を出て行くように求められており、より深刻な状況である。

私は昨年、ンゴロンゴロ自然保護区でマサイ族の族長にインタビューを行った。彼によると、マサイの文化は食肉用に野生生物を殺すことを認めていない。過去には、誇りを表すためにライオンを殺す風習があったが、その慣習が行われなくなってから久しい。では、政府の役人がマサイの文化に変化を求める場合、何が目的なのだろうか。

これもまた、人間中心主義的な利害が保護や、さらには地域文化という最も深遠な感覚をすり抜ける一例である。

ここで次のような疑問が浮上する。もし政府が共有地の管理者であるなら、共有地が消滅した場合、その責任は政府にあるのか? 私たちが政府について語る時、政府とはさまざまな特性と関心を持つ個人の集合であるということを理解すべきである。個人間の唯一の共通点は、政府の命令に従うことである。ところが政府の命令は、自然の保護を意図したものばかりではない。常に人間中心的な抜け穴が存在し、役人が法律をどう解釈すべきかを決定するのは役人次第である。それが保護目的であっても、人間中心主義的な目的であっても同じである。

世界は選択肢をどう見ているのか?

6回目の絶滅を防ぐのは不可能であることは、今ではほぼ明らかだ。絶滅を防ぐのではなく、「遅らせる」という表現の方が恐らく適切だろう。科学者たちはすでに次のステップに備えている。人類が絶滅に追いやった動物を生き返らせるために、科学が追いつく瞬間を待っているのだ。しかしその課題は、ひとつの種の復活だけにとどまらない。絶滅した種の生息地を復活させるという問題でもあるのだ。

種そのものを創造する価値よりも、レクリエーション活動における商業の方が魅力的に見える。私が本稿を執筆している間に、横浜にある私のオフィスからほんの500メートル先の展示ホールに、シベリアの永久凍土から発掘されたユカという名の3万9000年前のメスの子供のケマンモスが到着した。ユカを見るための入場料はおよそ9USドルから22USドルだ。

もしマンモスが復活したら、どうなるだろうか? 復活したマンモスをひと目見ることに付随する商業的価値を想像していただきたい。すでに起業家たちは、マンモスからリョコウバトにいたるまで、絶滅種の復活ビジネスに乗り出している。絶滅種の復活プロジェクトには、誤用という別の側面がある。復活した動物は、復活以前の絶滅した種に比べ、市場価値は必ず高くなるだろう。こうした価値の創出は、絶滅と復活というサイクルを加速させるかもしれない。

解決するにはあまりに複雑で、複数の国家主権パラダイムが絡んだ問題について、私は本稿で少し触れた。しかし私は他の人々と同様に、自然に関する思考システム全体が前向きに変化することを期待してやまない。種の絶滅だけが唯一の問題なのではない。恐るべきは、その規模の大きさである。今世紀が進むにつれ、恐らく私たちはなじみ深い主要な種を失うだろう。アフリカゾウからトラ、サイにいたるまで。

現在、サイの角の取引を許可すべきかどうか議論が続いている。これをきっかけに、観光客と収入をアフリカにもたらす「5大狩猟動物」のうち、いずれかの市場需要が刺激されるだろう。トラは中国で今でも繁殖飼育されており、インドは中国に抗議し、責め続けるだろう。

これらは、私たちが知っている種の運命である。一方で、CITESにまだ記載されていない複数の種が取引されている。そして、わざわざ行動を起こす人がいなければ、それらの種もマンモスのように消えていくだろう。絶滅種リストに続いて、野生生物をロボットやコミックや漫画のキャラクターとして描いた風刺画を未来の世代に残さなければならないとしたら、生命の終末がすでに到来したと結論付けてよい。つまり人類が適者として生き残った最高の存在であり、空っぽの世界で生きていくしかないことが証明されるのだ。

その時には、アフリカゾウはマンモスのユカと並んで、先進国の博物館に展示されているだろう。

翻訳:髙﨑文子

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著者

レミ・チャンドラン氏は国連大学高等研究所(UNU-IAS)の持続可能な社会のための科学技術プログラムのポストドクトラル・フェローであり、オランダのトゥウェンテ大学都市地域計画および地理情報管理学部と提携している。野生動植物の違法取引監視システム(WEMS)プロジェクトの立案者であるチャンドラン氏は博士課程の研究として、野生生物政策のサブシステム内の信念と、それらがアジアおよびアフリカにおけるWEMSの実施にどう影響するかを調査している。13年以上にわたり、環境ガバナンスの問題を扱う分野で国連組織や政府と活動し、国レベルや国際レベルの開発プロジェクトを管理してきた経歴を持つ。

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