環境は国際関係を生き残れるか?

先日、大国同士の外交政治が明らかになった。カリフォルニアの暖かい日差しの下、アメリカ大統領と中国の国家主席による話題の「建設的な会談」が行われたばかりの今、国際関係において環境がどのように考慮されるべきかを問うには、ちょうどよいタイミングである。

従来、外交担当者は環境劣化がもたらす社会政治的影響、例えば気候変動から生じる社会政治的影響には頭を悩ましている。例えば、干ばつや洪水によって生まれる環境難民の移住問題に直面した場合、国益にどんな影響があるか? こうした叙述で見落とされるのが、大国の(そして新興国の)権力政治も環境劣化の原因である可能性だ。外交で権力を持つということは、それが「ハード・パワー」か「ソフト・パワー」か「スマート・パワー」かにかかわらず、その国の国内総生産(GDP)の規模に大いに支えられている。そして脱物質化が叫ばれているにもかかわらず、GDPはいまだに経済の「エコロジカル・フットプリント」と相関している。地政学における権力と威信を絶えず蓄積しようとする各国の傾向も、環境劣化を促進する。

国際関係の現実主義的な構造において、常に国は国際社会での序列を覆そうとしたり、序列の現状維持に努めたりする。この構造が地政学を、協力や共存ではなく競争や対立をデフォルトとして捉える状況に傾かせる。協力や共存は熱望され、称賛されるのだが、国の行動や計画や経済投資において重要視されるのは、競争や対立の方である。こうした競争によって国は、ジャワハルラール・ネルー氏が自叙伝で述べたように「権力資源を最大限まで」開発することを余儀なくされる。世界のあらゆる国々が同じように(つまり競争と対立に向かって)行動するかどうかについては議論の余地があるかもしれない。しかし国際舞台、あるいは、より小規模な地域的ステージに立つ先進諸国と新興諸国にとって、こうした行動は標準である。

現在進行中の経済、軍事、外交における中国の台頭は、同国の発展過程の意図的な結果である。中国の発展は、膨大な生態学的コストを払って作り上げられ、維持されている。その目的の1つは、国際舞台における中国の地位を再び回復し、19世紀および20世紀に被った迫害という深い国民感情に焼き付いた屈辱感を緩和することだ。世界の資源をむさぼり、大気と水を汚染している生態学的略奪者として中国を非難するとしても、重要なのは、中国は先進諸国の足跡をたどっているだけであることを忘れないことだ。

“富裕諸国は、食うか食われるかの国際関係の構築において権力と威信を保つことに強烈な不安を感じるあまり、すでに巨大化している経済とエコロジカル・フットプリントを増大させることに固執する”

さらに、一見分かりにくいことだが、先進諸国(西洋ではイギリス、フランス、アメリカ、東洋では日本とロシア)は、より協力的で非競争的な外交規範を構築するほど成熟していない。そして、新たに台頭してきた中国も、ある意味で皮肉なことなのだが、特に上記の歴史的屈辱の加害者ではない国々との関係を築く意欲を示していない。

それどころか富裕諸国は、食うか食われるかの国際関係の構築において権力と威信を保つことに強烈な不安を感じるあまり、すでに巨大な経済とエコロジカル・フットプリントを増大させることに固執する。従って、例えば気候変動に関する交渉場面で、多くの先進諸国は経済の「競争力」を守るために、環境にとって進歩的な誓約に尻込みをする。一方、新興大国は、成長を制限しかねない環境関連の誓約を避ける口実として、「開発の余地」を過剰に主張する。現実主義者の観点からすれば、こうした状況は容易に合理化される。しかし、共有され限りある惑星において、そのような現実主義は現実的なのか?

限りある惑星で、傷つき踏みにじられる無限のエゴ

綿々と続く歴史的不満と病的な愛国主義と地政学的な疑念があおり立てる競争と、片時もゆるまない対立への準備態勢は、生態学的に「満タンの世界」で維持していけるのか?

効率性の長所や、「グリーン経済」あるいは「グリーン成長」というスローガンが声高に主張されてはいるものの、それらの戦略は時間を稼ぐ一時的な猶予か、もっと悪い場合には(ありきたりな表現で申し訳ないが)暴走する列車の利きの悪いブレーキでしかない。上記のような戦略の提唱者は、戦略によって「(生態学的)限界を超えないようにできる」と主張する。しかし実際のところ、生態学的限界はすでに突破されているのだ。数々の生態系の特性(気候システムと生物多様性は分かりやすい2例だ)の機能は、人類史上、そしてそれよりも長い歴史上、確認されたことのない劣化レベルに達しているのだ。

“人類の行動は、その大小にかかわらず、今や生態学的事実として影響を及ぼしている。そして、それらの事実は、すでに知られているように、あまり芳しいものではないようだ”

多くの人々は、収入を増大させ、人間の幸福を実現するためにGDPの成長が必要であり、だからこそ各国は経済成長を絶えず追求するのだと主張するだろう。その主張はもちろん正しいのだが、それが正当であるのは、ある一点に限る。GDPで計測される経済の規模が人間の福祉や幸福の達成度に及ぼす影響は、微妙な関係にある。その関係は直線的ではなく、国のGDPと継続的な正比例を示すものではない。人間開発の便益は、国民1人当たりのGDPがある一定のレベルに達した時点で次第に減っていく。確かに、富裕諸国の場合、既存の富と機会をより公平に国内で配分することを避けるためには、経済成長は便利な口実である。一方、国のGDPと国際関係における権力の関係は、ずっと明白だ。富が多ければ多いほど権力を持ち、その逆も真実であるというのが、ありのままの現実である。

国際関係における現実主義という構造化された規範を、「人新世」における私たちの運命として認めるわけにはいかない。人類史上、前例のない今の時代において、さまざまな生態学的計測法(例えば「キーリング曲線」は、1958年以降の地球の大気中の二酸化炭素濃度を計測している)が示す傾向線は、私たちの集合的な政治の特徴を表している。人類の行動は、その大小にかかわらず、今や生態学的事実として影響を及ぼしている。そして、それらの事実は、今では知られているように、あまり芳しいものではないようだ。私たちは「ミサイルを正しく導くことはできても人間を正しく導くことはできない」と、数十年前にマーティン・ルーサー・キング師は嘆いた。確かに、王様が騎兵隊に生態学的に盲目で卑劣な現実主義者として振る舞うように命じることと、世界文明がプロメテウス的な大国にそのような振る舞いを命じることは、全く別の問題である。私たちの政治と地政学は、こうした新しい現実に取り組むために成長しなければならないのだ。

この主張が精査に耐えうるものである場合、私たちは非常に重大な政治的および外交的課題に直面する。カリフォルニアでの会談から先、オバマ大統領と習近平国家主席と世界各国の指導者たちは、課題に取り組むための英知を追求するだろうか? それとも、うぶな考えだとして切り捨てるだろうか? 国際関係では後者を選択することが現実主義であるように見えるかもしれない。しかし、その選択はもはや現実的ではない。共有され限りある惑星では、その選択は妄想的なのだ。

翻訳:髙﨑文子

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環境は国際関係を生き残れるか? by マヌ・ベルギース・マタイ is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.
Based on a work at http://ourworld.unu.edu/en/will-the-environment-survive-international-relations.

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著者

マヌ・V. マタイ博士は国連大学高等研究所「持続可能な社会のための科学と技術」プログラムのリサーチ・フェローで、ロチェスター工科大学の科学・技術・社会および公益学部の客員助教授を務めた経験を持つ。マタイ博士の研究および指導の主な関心分野は、エネルギー、環境、開発といったテーマの相互関連性であり、科学や技術政策、持続可能性や平等性に基づいた人間と経済の発展に関する概念に焦点をあわせている。また彼は『Nuclear Power, Economic Development Discourse and the Environment(原子力、経済開発の対話、そして環境)』(2013年)の筆者である。

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