人間以外の生物種も意識を持っているか?

ある日私は、キャリアを積むために旅立とうとするある優秀な仲間の門出を祝い(「祝う」というのがはたしてふさわしい表現なのかはわからないが)、他の仲間たちと一緒に地元の中華料理店で夕食を楽しんでいた。その場にいたのは、科学者、教育者、環境管理者、プランナー、そしてコミュニティでその他の職種に携わる仲間だった。会話はさまざまなジャンルに及んだが、ふと科学者の1人がタコに意識はあるのかというようなことを言い出した。この話題はちょっとした議論を呼び、私たちは意識、さらには自己意識を持っているという証拠が存在する生物種を数え上げ、そのような証拠が今のところ見つかっていない生き物はどうなのだろうかと思いを巡らせた。

(動物に意識があるのかどうかを立証することは難しい。動物に直接聞いてみることはできない。また、周りの人間に聞いてみたところで、あなたの望む答えを言おうと、真実ではないことを口にしている可能性があるため、やはり意味がない。言ってみれば、私に意識があることを知っているのは私だけであり、私以外の人はそれを疑うかもしれない。とくに、テレビの前で眠りこけている私の姿を見ればなおさらだ。)

人間以外の生物種の複雑な神経処理というテーマは私の興味をかきたてる。なぜなら、私の研究者としてのキャリアは魚の行動の研究から始まったからだ。この研究領域において重視される原則は、完全に客観的であること、実際に目で見て確認できるものや直接測定できるもののみに基づくこと、そして、動物を「小さな人間」と考えてしまう傾向を避けることだった。もしかすると動物は意思を持ち、事前に計画を立て、物事について考えるといったことを行っているのかもしれないが、そうだろうという仮定から出発してはならない。

私は、意識を持つ生物種がいずれ、人間などが考えるよりもはるかに多く存在すると分かる日が来ると思っている。そうした生物種は、私たちと同じような意識を持つ「小さな人間」ではなく、それぞれに固有の意識を持っているのではないだろうか。

これは今もなお行動生物学者にとって妥当なアドバイスである。しかし、人間以外の生物種の少なくとも一部は意識を持っているという可能性は、あらがえないだけでなくほぼ確実に正しい。そして私は、意識を持つ生物種がいずれ、人間などが考えるよりもはるかに多く存在すると分かる日が来ると思っている。そうした生物種は、私たちと同じような意識を持つ「小さな人間」ではなく、それぞれに固有の意識を持っているのではないだろうか。そして私は、タコもそうした生物種のリストに名を連ねるだろうと考えている。

その晩の会話を振り返った時、興味深いと感じたのは生物学者ではない友人たちの反応である。彼らは、私たち生物学者がタコに意識があることを現実的な可能性と考えているようだと知ってかなり驚いていた。人間以外の生物種に意識があるということを示す証拠の存在が話題にのぼると、彼らは驚いた様子を見せたのである。おそらく、そうした証拠が存在するとは知らなかったのだろう。そして、人間以外の生物種に意識があったとしても、それが私たち人間とは違う形の意識だという考えに、彼らは少し混乱していた。

しかし全体として、私たちの話がつかめてくると、彼らは動物も意識を持っているという考え方に共感し、受け入れた。確実に彼らの多くは、犬や猫、馬といった動物に意識があると思いたくて、実際にそう信じているのだが、科学的にはあり得ないかもしれないと思っていた。しかし、そのような考えを科学者たちが真剣に検討していることを知り、他の種についての自らの直感に対する自信を取り戻したのだ。もちろん、人間以外の多くの生物種にも意識、さらには自己意識があるということを認めるようになれば、それら生物種の扱い方がより一層大きな問題となる。意識を持つ生き物には不可譲の権利があるのか?その晩は、そこまでの話にはならなかった。チキンの甘酢和えがあまりに美味しくて、食事を後回しにはできなかったのである。

他者への思いやり

翌日、私は何気なく地元紙に目を通していた。田舎に住んでいると、地方紙は、広い目で見たら全く重要ではないのだが、地域コミュニティがどう機能するかにおいて重要であるゴシップや些細な出来事など、貴重な情報源となる。地元紙を読むことは有益な習慣なのだ。その日の新聞の3面には、近隣の田舎道で(それぞれ対向車線を走っていた)2台の車が停車したために通行が完全にストップしたという、そのいきさつを伝えるすてきな記事が載っていた。2台の車はなぜ止まったのだろうか?ドライバーたちは、カミツキガメが道路を横断できるようにしてやっていたのである。

さらに紙面を読み進めると、別のカミツキガメの話が載っていた。このカメはどのような経緯からかシェルドンという名前であり(カメが自分の名前を意識しているとは思えないが)、魚釣りのルアーが足に突き刺さり、さらに食道に引っかかって苦しんでいるところを発見された。カメは、職場からの帰宅途中に通りかかった救急医療の専門家によって応急処置を施されたのち、少し離れたところにある野生動物外傷センターに運ばれ、消化管から3本の針を外すための緊急手術を受けた。シェルドンの体調は回復しつつあり、1週間以内に湖に戻される予定だという。

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カミツキガメ(Chelydra serpentina)は、しばしば道路上で見かけるが、水の中で見かけることはほとんどない(水の中にいるのだが、あまり人間に近寄らない)。Photo: Michael H. Schwartz. Creative Commons BY-NC-ND.

ここで思い起こしておきたいのは、この辺りでカミツキガメといえば、大いに誤解を受けているビーバーに匹敵するほど評判が悪いということである。カミツキガメはほうきの柄をかみ切ることができる。湖に脚を入れて揺らしていようものなら、つま先を食いちぎられる。カミツキガメは、浅瀬をおぼつかない足取りで 1人で歩く幼い子どもを捕まえようと恐ろしい形相で待ち伏せする、どう猛で邪悪なうそつきの生き物である。そしてかわいらしい小さな子ガモを食べてしまうのだ(これは本当)。しかしこの日の新聞には、多忙な暮らしの中でわざわざ時間を割いてカミツキガメを助けた人についての記事が2つあった。結局のところ、人類も捨てたものではないのかもしれない。私たち人間は他の生物種に敬意を示し始めたようである。

大きなカミツキガメにもなれば50〜75歳だというのであるから、尊敬の念に値する。同様に、自分たちの領域である水中世界にて軟体動物であることを意識しているタコも尊敬に値する。私たちが、「私たちの地球」と呼ぶこの惑星で暮らす他の生き物に敬意を抱くことができれば、もしかしたら、自分たちがもたらしている甚だしいダメージのいくらかを直ちに正そうとする意志を持つことができるかもしれない。決して時期尚早ではないのだ。

タコを理解する

では、タコについて私たちは何を知っているだろうか? タコは、いとこにあたるヤリイカやコウイカ、オウムガイと同様、最も複雑な軟体動物であり、知性の面ではカキ(これも軟体動物)やその他のさまざまな軟体動物よりも秀でている。タコは私たちと少しも似たところのない生き物であるため、彼らについて理解するのは少し難しい。大きな頭によく発達した2つの目がついていて、その下にある口の周りを8本の触手が取り囲んでいる。その他の細部は頭と体の中のどこか深く隠れた場所ですべて渦巻き状になっていて(カタツムリほどではないが、軟体動物は渦巻きが大好きなようだ)、他のほとんどの動物がするように、右側と左側、上と下、前と後ろといった通常の二面的な形で存在してはいない。彼らは絶えず形を変える生き物であり、その特徴から水族館での飼育が難しい。非常に小さな隙間でも、体を押し込んで逃げ出してしまうからである。

coconut octopus

ココナッツオクトパス(メジロダコ)は、身を守るために木の実の殻や貝殻を使う。触手の先で海底を歩きながら、内側の吸盤を使って殻を運ぶ。危険が迫ると、体の周りを素早く殻で覆う。Photo: Nick Hobgood. Creative Commons BY-NC (cropped).

彼らは素晴らしい視覚を持っており、彼らの眼は網膜が反対側にあるため、私たちのような脊椎動物の眼よりも構造的に優れている。ご存知の通り、私たちの網膜は視野のちょうど真ん中に盲点が存在する。それは、光受容体から延びる神経軸索が眼球に入り、1つにまとまってから網膜の中心を通って眼球の後ろ側へと出ていくためである。これに対し、タコの場合は、光受容細胞が眼球に接しており、軸索が網膜の外側に出てから1つにまとまって脳へとつながっている。脊椎動物の眼は、インテリジェント・デザインの概念(「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)が間違っていることを示す絶好の証拠である。タコは知性によって設計されたのではなく、進化したのだ。いやしかし話がそれてしまった。

素晴らしい眼を持っているとは言っても、タコは私たちのようには物を見ていない。彼らの行動、とくに、体表全体にさざ波のように広がる色の変化を用いた社会的なシグナル伝達や、自らの体の下にある海底の色に合わせた正確かつ迅速な体色の変化から、彼らが色を見ることができるということがわかるが、彼らの眼には1種類の光受容細胞しかない。光のさまざまな色を感知するためには、通常は3種類の光受容細胞が必要だが、それを持たない彼らがどうやって色を見ているのか、科学者たちは今も理解に苦しんでいる。タコが皮膚の中にある受容器官で周囲の色を感知できるということを示す証拠がいくつかあり、ごく最近では、スリット状の瞳孔が色収差(光の色によるレンズの焦点距離のわずかな差異)に基づく色覚を助けていることを示す新たな証拠が見つかった。

非常に初期の学習実験で、タコは垂直に置かれた暗色の棒と水平に置かれた暗色の棒の違いをすぐに学ぶことができるが、左に45度傾けた棒と右に45度傾けた棒は同じように扱い、その違いを学ぶことはできないということがわかった。私たちも頭を傾けるとこれら2つの棒のうちの1つをもう一方と同じ傾きとして見ることができるが、タコも同様に頭を傾けることができるからである。決して、タコが小さな人間だと考えてはいけない。私たちとは全く違うのだ。

しかし、意識についてはどうだろうか? つまり、道具の使用や事前の計画についてはどうだろう? オーストラリアのメルボルンにあるビクトリア美術館のジュリアン・フィン氏とその同僚たちが2009年にカレントバイオロジー誌に提出した論文は、インドネシアのスラウェシ島とバリ島の沖合の海中55メートルにある砂質/シルト質の基層で観察されたメジロダコ(Amphioctopus marginatus)について、まさにそのことを報告している。彼らは、ココナッツの半殻2つを体の下に抱えて運びながら、残りの触手を使って海底を歩くタコを何度も観察した。タコは自らが「止まりたい」と思う場所に来ると、半殻を下ろして片方の殻にうまく体を収め、もう一方の殻を頭の上にかぶる。海底を動き回ることによってより広い範囲で獲物を探すことができ(タコはさまざまな種類の獲物を食べる待伏せ型捕食者である)、彼らを食べようとする生き物が近づいて来た場合には防御することができるのである。この驚くべき行動を収めた映像は、こちらで見ることができる。

このようなタコは、少なくとも私たちに匹敵する能力を備えた動物である。地元の湖に住む大きなカミツキガメは、私がやって来る前から何十年もそこで暮らしてきたのだから、確かに私と同じ程度にその湖を「所有している」と言えるだろう(法律上、私はその湖を所有してはいないが、湖のそばに住む隣人も皆それぞれに自分のものだと思っている)。もし私たちがそうした事実を認めるならば、私たち人間は地球で暮らす他の生き物とともに世界の一部であり、世界に属し、世界を共有しているのだという感覚を取り戻すことができるかもしれない。自らを自然界の一部と捉えれば、自然界を大切にする責任をより認識するだろう。自然は、掘り起こされ、切り倒され、殺されて皮をはがされ、出荷されて、最終的にたくさんのお金に変えられるためにあるわけではないのである。

海に感謝する

最後に一言付け加えたいのだが、海に対する私たちの理解と評価は、陸に対する場合と比べてあまりにも低い。その理由の1つは、海が別世界だからである。私たちは海のそばに住むことはできるが、海の中に住むことはできないため、私たちの多くは波の下で起こっていることについてわずかな知識しか持っていない。私は最近ブログに、私たちがいかに海にダメージを与えているかということについて書いた。2015年7月3日にサイエンス誌は、私たちが世界の海に与えている影響についての記事を発表した。「Contrasting futures for ocean and society from different anthropogenic CO2 emissions scenarios(異なる人為的二酸化炭素排出シナリオによる海と社会の対照的な未来)」という重々しいタイトルのもと、フランスのヴィルフランシュ=シュル=メールにあるCNRS研究所のジャン=ポール・ガットゥーゾ氏が世界各地の仲間とともに、高排出の未来と低排出の未来における海への影響に着目した。

この研究から2つの重要な結論が導き出された。1つめは、海は二酸化炭素の排出によって二重のダメージ(水温の上昇と酸性化)を被り、その意味で陸よりも粗悪な扱いを受けているということである。そして2つめは、直ちに積極的な排出削減に着手したとしても、私たちが海にもたらしている変化は今世紀末を過ぎてもまだずっと先まで続くということ、検討した中で最も積極的な排出削減モデルでもそうであるということ、そして、世界中の海洋システムに対する影響が本格化するのはまだこれからだということである。

彼らの記事については第1面に比較的わかりやすい要約が掲載されており、本文には専門的な部分もあるが、読者が少しだけ努力すれば十分に理解できる内容である。さらにこの記事は、サイエンス誌にしては珍しくオープンアクセスとなっているので、ぜひお読みいただきたい。私たちは、自分たちが海に何をしているのかということをもっとよく理解する必要がある。そうすれば、汚染をコントロールするためにできることをしようという意欲が高まるだろう。そして私たちが海に敬意を払うようになれば、それもまた私たちを行動へと促すものになるはずである。

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著者

ピーター・セール教授は、特に珊瑚礁を専門とする熱帯沿岸生態系の分野において、40年におよぶ経験を持つ海洋エコロジストである。国連大学水・環境・保健研究所(UNU-INWEH)所長のシニアアドバイザーであり、それ以前は、オーストラリアのシドニー大学、アメリカのニュー・ハンプシャー大学、カナダのウィンザー大学にて教員を務めていた。ウィンザー大学では現在も名誉教授を務める。珊瑚礁に棲む魚類の生態学を専門とし、最近では、幼体の生態学、漸増、連結性の側面から取り組む。過去にハワイ、オーストラリア、カリブ海、中東にて研究を行い、数々の珊瑚礁を訪れた。彼の基本的な研究を、カリブ海およびインド洋における国際開発および持続可能な沿岸海洋管理のプロジェクトの展開、指導に取り入れることに成功。セール教授の研究所からは200以上の刊行物を出版、彼自身も海洋生態学に関する本を3冊編集している。