スヴェン・オーケ・ビョルケ氏はアグデル大学の開発学センターの講師をしており、前職はノルウェーのUNEP GRID Arendal(国連環境計画・地球資源データベース・アーレンダール)で勤務していた。
人類は可能な限り早急に効果的な方法で気候変動に対応すべきだと、あなたが強く感じているなら、気候問題への反論者や懐疑論者、否定する者のバカげた行為に強い懸念を感じることがあるかもしれない。気候変動は現実なのだと警告する人々と、そういった警告を疑ってかかる人々の間では何十年もの間、議論が続いており、それは時間の経過と共に徐々に進化してきた。
私たちはここで、気候問題を否定する人々との議論で使える最高の論拠をリストアップするつもりはない。しかしあなたがそれを知りたいのなら、最近Treehuggerに掲載された100 + rebuttals to common anti-climate change arguments(よくある気候変動への反論に対する100以上の反証)を見てみるといい。
すべての反論者や懐疑論者や否定者たちが近いうちに意見を変えることは、あまり期待していない。そういう状況を心待ちにしているわけではないけれども、それが現実となれば当然、気分がいいものだ。例えば、Climate Progress(アメリカ進歩センターによるブログ)でこんな報告があった。ほんの数日前のこと、イギリスのデイリー・メール紙はそれまでの「気候問題に懐疑的な」編集方針を、気候変動は「現実であり、大いに懸念すべき」だと認める方向に変更した。著名な「懐疑的環境論者」であるビョルン・ロンボルグ氏でさえ、今週は少しばかり風向きを変えた。
しかし現状は、気候変動に関するネガティブな予測をひどく懸念する人々と、懐疑的な見方をする人々は、どちらも社会の中では非常に少人数だ。そしてそれぞれが自分たちの立場をサポートするために熱心に世論に働きかけている。
正直なところ、気候変動の議論で見られる対立は真新しいものではない。環境問題全般についての議論でも、人口増加の議論でも、同じような反対意見が見られる。実際、驚くべきことには、同様の対立はトマス・マルサスの時代までさかのぼることができる。つまり意見が分かれることはノーマルなことで、人間の長い歴史の一部であり、人間の条件の一つであると考えられるのだ。
マルサス自身はこういった状況を、1798年「人口論」の序章で要約している。彼はその冒頭で、人間はいかなる時も2つの分岐する未来に直面していることに気づくようだと記している。
「現在、大いなる問題が論争中だと言われている。すなわち人間は、今後加速度的に、これまで達し得なかった無限なる改善へ近づき始めるのか。あるいは幸福と苦痛の間を永遠に揺れ動く運命であり、あらゆる努力をしてもなお、目標までの計り知れない距離を縮めることができないままなのか、という問題である」
マルサスがこういった言葉を記してから長い時が過ぎ、偉大な進歩が現実のものとなった。しかし彼の言葉は今でも真実味を帯びている。私たちは数々の未来のシナリオを持っているが、それらの多くは最終的に、オーストラリアの政治科学者ジョン・ドライゼク氏が生存主義(人間は成長の限界に近づいており、その限界や社会の崩壊を飛び越えようとしているとする考え)とプロメテウス派(独創性と技術と市場が問題を解決するとする考え)として説明したものに要約できる。
しかしマルサスは、この昔ながらの二分法を深く検討し次のように記している。「しかしながら、人類の友がこの苦痛な不安状態に終わりが来ることをどれほど熱望するにしても、また探求心旺盛な者が未来への展望を援助する光明をどれほど喜んで迎えるにしても、このきわめて重要な問題で両端の意見を持つ者たちが互いに遠く離れたままであることは実に嘆かわしい」
これは明らかに、現在の気候問題の議論におけるパターンにあてはまる。すなわち、面と向かった直接的なやり取りを避けるパターンか、攻撃的な非難やそれに対する反論という形式で両者とも相手の弱点を探すけれど、決して議論に終わりがないというパターンである。そういった状況は環境論全般でも見られる。
例えば、ノーマン・マイヤーズ氏(環境論者、生存論者)とジュリアン・サイモン氏(経済学教授、プロメテウス派)が行った1992年の議論を考えてみてほしい。コロンビア大学で行われたこの論戦のテーマは、私たちが地球資源の利用方法を変えなければ、人間も地球も破滅するほどの歴史的な限界点に世界は達しているのではないか、というものだった(この論戦での発言は「Scarcity or Abundance?: A Debate on the Environment」(「欠乏か豊穣か? 環境に関する論争」)として出版された)。環境論者たちは心配性の人々で、自然の回復力や人間の適応能力を過小評価しているのかどうかについて、激論が繰り広げられた。
評論家の中には、どちらの論者も意見の表層を超えた明確な陳述はしておらず、この論争は中身のないものだったと考えた者もいた。しかし論争以外での両者の研究は、この問題に関する非常に深い理解を表すものだった。
もちろん全面的な真実とは言えないものの、気候問題の懐疑論者たち、あるいはプロメテウス派たちと呼んでもいいかもしれない人々は、気候変動の実際の科学やその限界を懸念するのと同程度に、自分たちが置かれている現状を維持する必要性にしがみついているのだ。マルサスは懐疑論者たちが依拠する思考を説明している。マルサスの説明を下記に紹介し、現在の議論との関連を示すためにカッコ内に斜体で説明を追加した。
「現状の物事のあり方を擁護する者は、思弁哲学者の一派(気候科学者、環境論者、生存論者などのこと)を次のように扱う傾向がある。小ずるくて腹黒い悪党で、熱心に博愛を説き、より幸せな社会(改善された気候)という魅力的な状況を描いてみせるが、それは現存の体制を破壊し、心の奥にある自らの野望の計画を推し進めるためでしかない」
この論述は、今日では気候問題の懐疑論者たちの次の主張に当てはまる。すなわち、国際連合や多くのメインストリームの科学者たち、そして民主主義的に選ばれた政治家の大半は、地球温暖化という作り事を利用して一般人に陰謀を働こうとしている。そして、いずれ全世界的な新しい少数独裁体制、または共産主義体制、または世界政治体制を作り出し、私たち全員に危害を加えたり抑圧したりするようになるのだという主張だ。さらに、地球温暖化はインチキで、陰謀であり、私たちの生活を害する試みだと訴える者もいる。人々を怖がらせて高い税金を搾り取り、新たな世界政治の資金にするというのだ。
さらにマルサスは、気候問題や環境の未来に関して懸念を抱く人々の意見を次のように要約している。「人間と社会の完全可能性を擁護する者は、体制擁護者以上の侮辱をもって反論する。体制擁護者を最もあわれで偏狭な差別意識にとらわれた奴隷、あるいは自分の利益のために文明社会の悪習を擁護する者だとの烙印を押す。自分の知識を利益のために売りさばく者、あるいは偉大なものや高尚なものを理解する力や精神を持たない者として描くのである」
つまり、気候問題の懐疑論者たちには強力な情報源や資金源があるのだと考える人がいるかもしれない。例えばアメリカでは、豊かな資金を持つ極右系シンクタンクや、石炭、タバコ、武器、石油企業といった巨大な多国籍企業に資金提供を受けるPRグループ、さらにアラブ・アメリカ・カナダの石油および石炭カルテルから資金提供を受けるロビイストたちのつながりを検索することができるだろう。さらに認知度が高く、同じ分野の専門家による評価制度がある科学雑誌に、気候問題の懐疑論者たちは自らの調査結果を発表することがほとんどないと訴える者もいるだろう。
気候変動を懸念する人々とそれに懐疑的な人々の議論は、激しく、相容れないものだ。マルサスは当時の議論について、次のような懸念を示している。「この非友好的な論争において、真理の大義は損なわれるほかない。問題の両面に関して非常によい論拠が示されても、互いに正当な評価を得られないのだ」
ある意味で、いわゆるクライメイト・ゲート事件を取り巻く感情的なやり取りは上記のマルサスによる観察と一致している。つまりイースト・アングリア大学の気候科学者たちは、自分たちの研究に懐疑的な人々にすべての情報は開示したくないと思っていたし、そういう状況が気候科学の信憑性を損なってしまったという事実が明るみになったのだ。しかしこのスキャンダルは、気候科学や気候変動に関する政府間パネルの動きに新たな機会を与えたわけではなかった。多くの人々は単に落ち着かない気分になったり、変化が必要だと思っただけだ。
気候変動が起っているか否かという議論を超えて、可能な解決策を見据えた場合、マルサスが賢い観察をしていることに気づくだろう。彼は次のように主張している。「現状の物事のあり方を支持する人(すなわち気候問題の懐疑論者)は、概して政治的予測のすべてを非難する。社会の完全可能性(すなわち低炭素社会)の論拠を検討してみるほどの謙虚さも持ち得ない」
同様に次の記述も、気候変動に最も懸念を示す人々の行動に当てはめることができる。「思弁哲学者も同様に、真理の大義を侵している。より幸せな社会を注視するがあまり(気候変動の悪影響を訴えるがあまり)、心を奪う色合いでその恵みを描き出し、現存の体制に対する最も辛らつな毒舌に夢中になってしまう。その才能を使って、罵倒を取り除く最良で最も安全な方法を考えることなく、たとえ理論上であっても人間が完全に近づく進歩を脅かす大きな障害に気づきもしないようだ」
この言説を今日の言葉で翻訳してみれば、気候変動を嘆く多くの批評家たちは気候変動の影響をどちらかといえばネガティブなタッチで描き、低炭素社会の姿を非常にポジティブなタッチで描いているということになるだろう。だから懐疑論者たちは、人を不安に陥れることは役立たないという批評、あるいは低炭素社会はお金がかかりすぎるという批評で反論せざるを得ないのだ。
正当な理論は常に実験によって確証される
マルサスはこの議論を次のように結んだ。「正当な理論は常に実験によって確証されるということは、哲学において認められた真理である」
多くの気候科学者たちは、気候変動に関しては、私たちは未来を「実験している」のだと主張するだろう。現実には一度しか行えない実験だが、それは人類が長年にわたって改良し続けてきたものだ。その結果、私たちは十分な考察を得て、手持ちのデータから将来の気候変動を予測できるかもしれない。モデルとデータの持つ不確実性は、こういった考察に基づいた行動を起こさないという言い訳として受け入れるべきではない。実際のところ、「様子を見てみる」という態度はあまりにも無責任だ。
マルサスは続ける。「しかし実際的には、最も見聞が広く物事に精通した人でも予見できないような多くの摩擦や細かい状況が起こるため、実験による検証を経て正当だと言える理論はほとんどない。しかし理論に対するあらゆる反論が十分に検討され、明らかに首尾一貫して論破されるまでは、未検証の理論はあり得るとさえ言い難い。ましてや正当であるとは言えないのだ」
このような二分化された主張に常にさらされているのに、人間の文明が直面している重大な諸問題は解決できるのかと心配になった読者もいるかもしれない。もちろん多くの問題において進歩はあり得る。例えば奴隷制や権利の平等で見られたように。しかし問題の解決には数十年、時には何百年もかかるし、それでも問題が消えないことさえある。気候変動で私たちが直面している課題とは、多くの人が早く行動を起こさなくてはならないと思っている点だ。そして恐らく部分的には、時間がないということが原因で議論がこれほど白熱しているのだろう。
気候変動が現実かどうかという議論は、すでに「十分に検討され、明らかに首尾一貫して論破され」たと私たちは確信している。
私たちは(もうすでに)、どう対応すべきかを論争する次の段階にいるべきなのだ。
翻訳:髙﨑文子
気候変動の懐疑論は昔からある問題 by スヴェン オーケ・ビョルケ and ブレンダン・バレット is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.