討論会 2.0:サメ絶滅の危機

Our World 2.0の読者の多くは、サメのヒレを切り取る(しかも通常、サメが生きている間に)という、議論の余地もなく粗野な漁法があることをご存知だろう。

この残忍な行為はすべて、特に中国文化で珍味とされるサメのヒレ、つまりフカヒレスープの名の下に行われている。中国の経済成長と、国内の富裕層の増加に伴って、フカヒレスープの消費量は増加の一途をたどり、同時にサメの個体数は急速に減少している。これは不思議でも何でもない。毎年、7300万頭ものサメが、もっぱらフカヒレのためだけに殺されているのだ。ちなみに、野生生物の取引監視ネットワークであるTRAFFICの報告によると、サメ全種のうち3割が「絶滅危惧種あるいは準絶滅危惧種」である。

歴史ではよく起こることだが、問題が目に余るようになり、文字通り見て見ぬふりができなくなった時、人間はすっくと立ち上がる傾向がある。サメの減少傾向を食い止めるための国際的な取り決めは遅々として、一向に効果が上がらないが、地理的に地球の反対側に位置する2つの場所でそのような局所的な運動が起こり、注目を集めている。

フカヒレの一大消費地である台湾では、今年、海上でサメのヒレを切り取る漁法を禁止する法律を導入する(陸上では可能)。この法律の施行により、フカヒレ漁はうまみがなくなる。というのは、漁民はサメの胴体(ヒレに比べると、重いだけで、商品価値は低い)をわざわざ陸揚げしなければならないからだ。また、この法律は、長い伝統を持つ文化規範に挑むものなので、その点からも、遵守されるかどうかは、今後の経過を見守りたい。

一方、カリフォルニアでは、同州の上院議員がさらに一歩踏み出し、フカヒレの「販売、取引、所有」を禁止する法案を成立させた。多くのアジア系議員が禁止に賛成したものの、カリフォルニア州は大規模なアジア系コミュニティを擁するだけに、一部からは反発の声が上がっている。だが、そのような禁止措置がいくら特定の民族コミュニティに影響を及ぼすものだといっても、それは本当に人種差別なのだろうか?

写真: KQED QUEST

写真: KQED QUEST

裕福な人々や企業がその富をひけらかすためにフカヒレが利用されおり、食物連鎖の頂点に位置する脆弱な種のサメが犠牲になっているのだ。

サメのヒレを切り取る漁法は、しばしば槍玉に挙げられるが、たしかにこれは、自然資源のさまざまな利用形態について、世界で見解が異なる好例と言える。すべての社会は、どのような生物および生態系が正当な採取の対象になるかについて、独自の容認基準を築き上げている。犬を食用にするのは、欧米では「吐き気を催す」ことであっても、アジアの貧困層に属する人たちにとっては、手の届くタンパク源である。だが、それとは異なり、フカヒレは裕福な人々や企業がその富をひけらかすために使われている。束の間、料理で社会的地位を上げて見せることに、食物連鎖の頂点に位置する脆弱な種を犠牲にする価値があるとは思えない。

こういったことをすべて考え合わせて、フカヒレスープの全面禁止は正しいことだろうか? それとも、一部の文化グループを不当に狙い撃ちするものだろうか? 他のグループに独自の伝統文化を追求してはならないと言えるグループなどあるだろうか?

よく言われることだが、文化は発展してゆくものだ。それならば、サメの個体数の現在の減少率を理由に、単純にサメが不足しているのだからこの風習は維持できない、だから変えるようにと圧力をかけてもいいのだろうか? あるいは、台湾において見られたように、この伝統を実践してきた人々が自ら気づいて、明らかに持続不可能で、言うまでもなく非人間的な習慣をやめるかもしれない。 それとも間違っているだろうか?

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著者

マーク・ノタラスは2009年~2012年まで国連大学メディアセンターのOur World 2.0 のライター兼編集者であり、また国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)の研究員であった。オーストラリア国立大学とオスロのPeace Research Institute (PRIO) にて国際関係学(平和紛争分野を専攻)の修士号を取得し、2013年にはバンコクのChulalpngkorn 大学にてロータリーの平和フェローシップを修了している。現在彼は東ティモールのNGOでコミュニティーで行う農業や紛争解決のプロジェクトのアドバイザーとして活躍している。