人類学者なら、人々は飢え死にする前に戦うと言うだろう。政治学者なら、市民は政府に「パンとサーカス」の提供を期待すると言うだろう。平和活動家なら、持続可能な平和が持続可能な食料生産を可能にし、その逆も真だと言うだろう。
紛争が起こりやすく食料不安に陥りやすい環境で暮らし働く人々にとって、食料と平和の関連性は明白である。しかし豊富な食料に恵まれるか、友好的な貿易関係を持つ平和で安定した国や、食料が手に入りやすいことが当然とされる密集都市に暮らす多くの人々はどうだろうか? 実際のところ食料は平和とどんな関係があるのか?そして一部の食料は他の食料よりも「紛争に配慮した」食料なのか?
ここでの「紛争に配慮した」という表現は、「紛争に配慮した開発」という新しい規範から生まれている。このアイデアが第一に目指すのは、開発組織が現地の環境に負荷を与えない開発的介入を始める前の、組織が置かれた文脈を理解することである。
この点を考え始めるにあたって、もともと戦争で使用するために開発された化学薬品が新しい用途、すなわち産業的農業の殺虫剤として利用された点を考えてみると面白い。こうした化学薬品は、紛争下で敵の能力を弱めたり殺したりするために利用されるのではなく、昆虫、雑草、土壌、その他の生き物を殺すために使われ始めた。その利点は、農学者や経済学者が訴えたように、収穫量の増加だった。
第二次世界大戦後の時代から1970年代末にピークを迎えるまで、緑の革命による技術革新と収穫量の増加が定着すると、穀物の余剰と低価格化によって世界の飢える人々の数は減少した。しかし、生産性の向上は1990年以降、沈滞し、食料生産の成長率は人口増加率に追いつかなくなった。今でも、8億5200万人が毎晩空腹を抱えたまま就寝している。一方で、私たちはいつの間にか集合的に、化学薬品への傾倒がもたらす悲惨で長期的な結末への対処を、未来の世代に任せることにしてしまった。その結末とは、土壌の枯渇と水汚染である。
私たちが倫理的に安心できる食料源を見つけるためのこうした歩みの規模が小さいからといって、わずかでも最初の一歩を踏み出すことを諦めるべきではない。
このような過去数十年間に勢力を増し続けたもう一つの力が、農業食品分野の多国籍企業である。その結果、新たなタイプの紛争が誕生した。すなわち環境を乱用する企業に対し説明責任を求める消費者の闘いである。
1970年代、スイスの巨大食品企業であるネスレ社は、世界中の母親に対して特殊調整粉乳を精力的に売り込み始めた。対象となった地域には、地域の水源が汚染されていることが知られていた多くの開発途上国が含まれていた。最も弱い乳児たちは特殊調製粉乳よりもずっと安全な母乳を飲んでいれば避けられたはずの病気に掛かったり、死亡したりしたことから、ネスレ社は責任を問われた。
この出来事は、ネスレ社の数々の製品に対する猛烈な不買運動を促進し、運動は今日でも続いている。そのような行動は、110億5000万USドルというネスレ社の巨大な利益に大打撃を与えることはないかもしれない。さらにネスレ社は集中的な宣伝キャンペーンを行い、乳児を育てる最良の方法は母乳育児であると請け合って、不買運動に対抗している。
しかし、私たちが倫理的に安心できる食料源を見つけるためのこうした歩みの規模が小さいからといって、わずかでも最初の一歩を踏み出すことを諦めるべきではない。
地域の味
興味深いことに、ほとんどの東南アジア諸国では、道路際や屋台のプラスチック製テーブルに無造作に置かれたスイートチリソースや魚しょうやしょう油は、ラベルは違っていても、見た目や味はほとんど変わらない。工場で作られた食品やプラスチック容器や添加されたグルタミン酸ナトリウムがなかった時代には、人々はどうしていたのだろうか。
もちろん、上記のような異国のソースに言及すること自体が、かつては人々の暮らしを支えていた地域独特の産物に代わって、工業的に生産された輸入食品が広い範囲で流行していることの象徴である。世界各地を旅してみると、私たちは不健康なソフトドリンクとチリソースでお互いに結ばれてはいるが、大抵は本当の平和で結ばれているわけではないことが分かる。
ここでの重要な問題は、私たちや農業従事者や環境にとってよりよい食料は、大抵は高価であるという点である。新鮮な食料は素晴らしい。しかし数え切れないほどの原材料が使われて複雑な包装が施されたコンビニ食よりも安価であることはあまりない。食料の過剰な産業化や単一農法化(さらに、しばしば助成金の交付)は、情報を持つ人々なら直感的に、全く持続不可能だと気づく形態である。工業食品は一貫して安値であり続けられる。なぜなら、その生産の「外部性」(温室効果ガスの排出、土壌と水の汚染、医療制度への負担、搾取された労働者への社会的および精神的影響)が販売価格に含まれていないからだ。
写真: Alva Lim
経済学者なら、これは市場の明らかな失敗例だと言うかもしれない。しかし、私たちはスーパーマーケットのレジでお財布からお金を出し、自分たちの胃袋が最終的に受け取るよりも多くの食料を手に入れることによって、現在の市場システムを定期的に黙認しているのだ。いわゆる「市場」が今や究極的権力であり、本当はいやだと言いながらも、誰もが市場の神殿で崇拝している。「見えざる手」は、「見えざる生産者」や「見えざる環境破壊」と関連しているのだ。
世界的に規模の経済が拡大すれば、その結果として、農民が土地収奪という現象によって住む場所を追われたり、工業化された「食肉生産」では標準的に見られる非人道的な家畜飼養が見えないところで行われたりする。出稼ぎ労働者たちが直面する激しい虐待や過剰労働や、非人道的な環境に閉じ込められ、食肉処理のために大量の薬品を投与された何千頭もの動物たちほど、平和から程遠い存在はあるだろうか?
第二の関連した要因は、私たちの利便性への飽くなき欲求だ。ほとんどの人々は忙しい生活の中で、どれが有機栽培で、地産食品で、さらには遺伝子組み換え食品不使用なのかを調べるためにスーパーマーケットを歩き回りながらラベルを読む時間や意志がない。大急ぎで家に帰って、パートナーや子供に食事を作らなければならないのだ。
現代の資本主義の振り子は、資本のてこ入れに向かって大きく振れ、賃金労働の保護からは遠のいていく。そのため、私たちが何を消費しているのかを熟考する時間も精神的エネルギーも、自然と少なくなっていく。だから、私たちはじっくり考えることはしないのだ。
ましてや、私たちの多くがますます厳しくなる労働条件によって多忙を極めている場合、食べ物に注意を払うのは難しい。例えば、コンビニエンスストアから飛び出しながら、あるいは車の中で不健康な食事を取るという状況である。それは悪循環だ。
今日では、体制が定着させたストレスを最小限に抑えることができる食物そのもの(ハーブ、根菜、豆類、ナッツ類、ベリー類など)は、多くの人にとって法外なほど高価だ。生産者と消費者の間の固定化した距離(それが見ざる、聞かざる、行動せざる、食べざるという現象を生む)は、現代社会の自然との断絶について多くを語っている。ソーシャルメディアを使って、瞬時に地球の裏側にいる友人と最近の食事の写真を共有できるとしても、状況は同じだ。
私たちが食文化の守り手(農業や漁業や発酵食品業の従事者たち)とつながることができるもう一つの、恐らく実現不可能な世界なら、私たち自身や地球の健康に悪い食べ物を私たちがむさぼる可能性は確かに低いだろう。
写真: Alva Lim
紛争に配慮した食事のレシピ
このような問題について人に教える(そして正直なところ、説教する)と、大抵の場合、相手は至極妥当な疑問を投げかけてくる。私たちは何をすべきか、という疑問である。挑発的な人々を前にして、私はまず「紛争に配慮した食事」というアイデアを掘り下げたいと思う。下記に示すのは、私が取り急ぎ考えついた基本原則であり、メインコースとなる対話の前菜のように考えるきっかけとなれば幸いだ。
- 食べ物らしい食料:これは一見、奇妙な基準に思われるかもしれない。しかし、スーパーマーケットの棚にあるほとんどの商品が、砂糖がかかっていたり、冷凍されていたり、油で揚げられていたり、ソースがかかっていたり、あるいは単純に混ぜものだったりして、もはや食料とは認識できないほどであるため、私はこの原則を挙げた。「地面に近い」食事を取ること、つまり新鮮なフルーツや野菜、穀物、さらに可能な限り自然な状態に近い環境で飼育された肉を食べることは、心の平安と世界の平和に近づく確実な方法である。
- 地元の食料:手つかずの雨林の破壊が自宅の玄関先で起こっていれば無視しにくい。ますます注目されつつあるファーマーズ・マーケットは、価値連鎖が短いため、食料を育てている人々の目を見る機会を与えてくれる。
- オーガニックな食料:これは単なる流行やバズワードではない。私たちの目には見えないが、持続可能な方法で食料を育てるために絶対に欠かせない表面下の自然の一部(土壌微生物、細菌、地下水など)を尊重する価値体系である。
- 旬の食料:人間と自然の相互関連性が究極的に表れる状況の一つが、あるフルーツや野菜が旬の時期になると、私たちの体はそれらを最も欲しがるということだ。それに、読者の皆さんは冬においしいトマトを食べたことがあるだろうか?
- フェアトレードの食料:食料を生産する人々には、あなたや私と同じように、公正な賃金を受け取る権利がある。フェアトレードのシステムは複雑で不完全ではあるが、チョコレートやコーヒーやその他の食料に私たちが本当の価格を支払うことを実現させるプロセスの第一歩だ。
- 社会的な食料:誰かと一緒にガーデニングや料理や食事をすることは、お互いに対する愛情や自然に対する愛情を示す力強い表現方法になり得る。研究によると、私たちがより健康で、より平和な人生を送るために重要な要素として「社会構造」が特定されている。
写真: Alva Lim
ここでしっかりと意識しておかなければならないのは、紛争に配慮した食事のレシピでは微妙な違いを感じられるニュアンスが必要であることだ。そして「はい/いいえ」「やってもよい/やってはいけない」といった二者択一的な解答では、人々は紛争に配慮した食料を選ぶようにはならない。それは、1本のブログ投稿や1冊の本でさえカバーし切れないテーマである。なぜなら食文化や生産システムや貿易体制や地元の食料安全性への懸念(例えば福島)は、世界各地で異なるからだ。さらに、私たちは現実的には、自分の口に入れるすべての食料に関するすべてを知ることは不可能である。重要なのは、私たちができる時に、できる範囲で意識的になることであり、まずは自分自身が行動を起こすことによって他の人たちにも行動を促すことだ。
知識の力
私は最近、バンコクのチュラロンコーン大学でロータリー平和センター専門能力開発修了証の取得を目指す第15回期フェローとなる幸運に恵まれた。このコースは、紛争解決や平和のための能力開発といったテーマに重点を置いており、食料と平和のつながりに関する点と点を結びつけてくれた。
私はすでに、世界的に、恐らく理論的には平和と食料は相互につながっていると感じていた。今の私が以前よりも深く理解しているのは、分野に関係なくコミュニティ開発のあらゆる段階で、紛争に配慮した意志決定を行う必要性である。
さらに、有能な平和活動家に不可欠な特性の多く(共感、尊敬、そして重要なのは「片方の足は生きられた現実に置き、もう片方を創造的可能性の領域に置く」こと)は、私たちの組織や個人的生活の中にも取り入れられる。
15回期クラスメートの多くが非常に雄弁に提言したように、平和が本当に内面から生まれるのなら、私たちが体に取り込む食べ物は、私たちや、私たちの食料を育てる人々や、私たち全員を支えている地球のために平和を実現させる方法と関係があるに違いない。
だから、平和のために、自分ができる範囲で、できる時に、フォーク(食べること)で投票するのだ。
翻訳:髙﨑文子