母なる大地へ捧ぐ人道主義の愛

「地球を大切に」という思いを、人間は遠い太古の昔から抱き続けてきた。今日でも千年も昔からの生活様式を保ち続けている、「原始的」とみなされる社会にすら、この地球を守らなければ、という思想がある程度は見られる。

今日、地球温暖化と環境・野生動物の保護が、かつてないほど話題に取り上げられている。人間が故郷、地球を取り返しのつかない形で傷つけていると警告もされている。同時に、環境破壊による付けが回ってきた。油、土壌、魚類が枯渇し始め、食不足によって紛争や慢性的な飢餓がさらに悪化しつつある。

地球を酷使しすぎた結果、人間は心理的なダメージを得ている。地球を人間であるかのようにみなし、無意識にその症状に同情する作用が働いているようだ。子どもたちが「自然欠乏症」であると大胆な意見を主張する者もいる。

私は、臨床心理学者としてこれまで関わってきた人々との経験に基づき、人間の感情に関する理論を築きたいと考えている。これまで私は、地球が人間1人1人と直接的、精神的、心理的関係を示唆する現象について考えてきた。そこで、精神分析、象徴化、さらに生態哲学の要素を少々と生態学研究を取り入れながら、人類がいかに地球を守るための戦いに文化を取り入れてきたかについて、1つの視点を提供したいと思う。

母なる大地

大地を、命をはぐくむものの象徴や表現だとみなす考えは、ずっと昔から人間社会にあった。例えばゲルマン神話のユグドラシル(世界樹)は、世界の各地を結びつけるもので、神々自身から神聖さと命と力の象徴として崇め称えられた木だ。その神話では、人間は2本の木、すなわち自然の生の素材から創造されたとしている。また、キリスト教の聖書では万物は、大地そのものの要素である土から創られたとしている。

ゲルマン神話のユグドラシル(世界樹)は、世界の各地を結びつけるもので、神々自身から神聖さと命と力の象徴として崇め称えられた木だ。

大地を「命の母」、そしてその下にある生きとし生けるものの母とみなして祈りを捧げ、崇め奉ることもまた、珍しいことではない。多くの民俗が、大地に還り、その懐に抱かれ、その中に眠り、その恵みと魂が結び付くよう願っている。大地が命を与え、養ってくれる存在であることから、多くの文化において肥沃の神々が、大地との深い関わりを示す女神であるのも不思議ではない。肥沃の神々は子孫の祈りに応える母として描かれるのである。

哲学者、ミルチャ・エリアーデは、「母なる大地」に関する考察を示した。彼は大地と母を象徴的なレベルで比較した。大地は、母親と同様に、私たちが物的世界で最初に愛着を感じるものである。大地は私たちを母のように抱き、母のように育て、食、薬、木材を提供し、万能ともいえる形で私たちの必要に答えてくれる。それはまるで赤ん坊にとっての万能の母のようだ。その胸から赤ん坊は成長し自立していく。

祖国から離れた人々(移民労働者、難民、放浪者)は、母親から引き離された子どもが示すのと同様の失望感や不安を示すことが臨床的に知られている。どちらも、なじみがあり安全で満足を与えてくれる存在の喪失によるものだ。

精神分析家メラニー・クライン氏は赤ん坊を観察し、ある理論を打ち立てた。これによると、新生児はある段階で、母親にしがみつき、栄養を奪うことで母親を「傷つけた」のではないかとおそれ、その罪悪感から一種の失望を覚えるのだという。この罪悪感は人が成長するのを助け、フラストレーションと自責の念を感じる能力を育てるそうだ。

私たちは、地球の窮状に動揺しているとはいえ、自らに問いかけ、失望し、同時に償いをしようとしているだろうか。

つまり罪悪感や、それに伴う「修復」の必要性が、成長のかなりの初期段階で経験されるということだ。この理論には賛否両論があるが、その中核となる考えはこうだ。人間が安定した精神へと育っていくのは、自らの行動を反省し、より「優しい」自己を確立し、「善良であること」を学んで償い、自らの問題を修復しようとするという深い包容力のおかげである。人間は幼い間に、全能な母親ではなく「ほどよい母親」の下で成長し、その母からあまりに多くを求めすぎた(絶対的権力の行使)という罪悪感を持つことによって、社会化し、基準や価値観を理解していく。

現実に、成人の行動の多くは、幼い頃の母親との関係が元となっていることが明らかな場合が多い。大地に関しても、このことは明らかだ。人々は大地を絶対的な権力で酷使したことに対し、ひどく動揺している。

それでも1つの疑問が残る。私たちは、地球の窮状に動揺しているとはいえ、自らに問いかけ、失望し、同時に償いをしようとしているだろうか。もしそうでなければ、私たちはそのような感情を持ち、行動を起こす方法を考えければならない。この感情はなじみのあるものではあるが、恐ろしいものでもある。なぜなら、それによって私たちの無力さを思い知ることになるかもしれず、また、自力ではコントロールできないものの犠牲になるという究極の恐怖に直面するかもしれないからだ。それは、私たちを生み、育て、全てを依存してきた存在による復讐である。

媒介者としての文化

古代エジプト人の時代、あるいはそれ以前からずっと、文化と習慣は、儀式や作法を通して人々に、死や命やその源になるものとの別離について心の安らぎと希望を与えてきた。多くの文化には、大地を称えるための収穫の儀式がある。それらは生態的、経済的恩恵をもたらすだけでなく、人々への心理的利益ももたらす。象徴を使い、不死への憧れや「最初の創造物」との一体化(「究極の喜びの領域」)を表現することによって、人は自らを癒す心理現象をつくり出すのだ。

さらに、通過儀礼や儀式を通して伝えられる文化規範は、個人レベルではとても耐えられない死や別離と自らの間に距離を置いてもくれる。文化はこのような状況に対応するルールを提供し、人を守り、治癒するのである。つまり文化には深い感情と結びつく力があるのだ。

アマゾンのヤマノミ族、極北のイヌイット族、ナミビアのサン族、そして、都会に住む人々にいたるまで、私たち人間は心の奥底に「大地」への所属と、「1つの土地」への所属という欲求を持っている。何世代にもわたって私たちを育ててきた1つの場所、風景、土壌に対する愛着は、安心感、心理的安定を支えるものだ。locus to lean on(頼るべき場所)への欲求は人類の存在に不可欠なのである。

環境活動家であり、ノーベル賞受賞者のワンガリ・マータイ氏は、自然を威厳と尊敬の対象、かつ、報復の権利も持つ対象として見直すべきだと大々的に主張する1人だ。マータイ氏は大地を擬人化し、生態系の問題をより広い視野で見るよううったえている。地球を保護する活動を通し、彼女は従来の経済的不安の域を越え、人間性と、人間らしさを取り戻す戦いを強調している。

アマゾンのヤマノミ族、極北のイヌイット族、ナミビアのサン族、そして、都会に住む人々にいたるまで、私たち人間は心の奥底に「大地」への所属と、「1つの土地」への所属という欲求を持っている。

インドの女性によるチプコ(木を抱く)運動は、自然を擬人化し、女性の力を活かす具体的な活動の1つとして興味深い。チプコ運動は70年代に始まった非暴力の環境活動だ。メンバーは、文字通り木々を抱きしめて、それらが産業用に伐採されるのを防いでいる。活動の支援者の1人は著名なインドの哲学家、エコ・フェミニストであるヴァンダナ・シヴァ博士だ。シヴァ博士は、女性の持つ悩みと自然が持つ悩みを関連付け、いずれも男性中心の家父長的社会の被害者だと主張した。この考えに基づくと、自然は女性らしさを取り戻すべきであり、現実社会での主義主張を守るための感情論の運動は、そんな自然と一体になることではじめて実体化されるのだ。

今日でも、世界の文化のいくつかは、社会的に強制する形で自然保護を行っている。いわば、それらの文化習慣の根幹には、生態的な「軍事主義」が示されている。マリ共和国の伝統的バマナ(バンバラ)民族社会では(その他でも見られるが)、どの家族にもトーテム崇拝が見られる。家族の苗字にもとづき、特定の動物を保護しなければならないのだ。これによって、全ての動物が殺される数に上限ができ、生物多様性を保護することもできる。トーテムを汚すと、呪いをかけられ「頭がおかしくなる」という話が語り継がれている。これは神聖なきまりを破ることへの罪悪感を表現したものかもしれない。この例は、人間の運命と自然の関連を示している。自然との結びつきを断ち切ってしまうと、人間は社会的にも精神的にも孤立してしまうのである。

メディアの利用

では、このような時間を越えた価値観をいかし、母なる大地を称えるためには、どのような文化的な製作活動をしていけばよいだろうか。1つの明らかな媒体は、環境映画の隆盛に関する記事でも明らかなように、映画製作である。

フランス人ジャーナリスト、エリック・ノイオフ氏は、議論をかもした評論の中で、フランス人の環境活動家、ニコラ・ユロ監督のドキュメンタリー「タイタニック症候群」を見て、環境をますます汚染したくなったと述べた。ノイオフ氏は、この映画は現代の地球生態系の状況があまりに絶望的なため、もはや何をやっても手遅れで、地球は滅亡に向かっているのだという印象を与えてしまうと主張している。このドキュメンタリーで、ユロ監督は大々的な環境の危機と食料への影響(アフリカの干ばつなど)や、動物への影響(野生の中の動物の死骸)を、鮮烈な映像で見せつけ、ナレーションを最小限にとどめ、視聴者が直に感情的に対峙しなければならないような手法をとった。環境映画製作の動きを称賛する多くの批評家も、このドキュメンタリーの手法については批判的だった。

これと対照的なのが、ヤン・アルテュス=ベルトラン監督の「Home空から見た地球」である。これはインターネット上で無料で視聴でき、私たちの故郷、地球の美しい映像が堪能できる。この映画は「地球への愛」のメッセージであり、それを守る必要性を前向きにうったえかけるものだと、批評家や視聴者から称賛を集めた。

ドキュメンタリーに共通して言えるリスクの1つは、あるテーマについて何度も繰り返し聞かされるため、視聴者がしばらくすると飽きてしまうという点だ。正面きって努力を注いだ大衆へのうったえが、逆に環境運動の妨げになってはいないかを考えるべきだろう。「Home」は確かに手法が素晴らしく、作品全体の意図は正当ではあったが、批評家によっては、政治的スピーチで繰り返し謳われている「地球を守ろう」という主張を繰り返しているに過ぎず、内容が単純だと批判する向きもあった。

映画や、ビデオゲーム、音楽といったほかのメディアによって、文化と地球を守る戦いとを融合させれば、人間の感情に直接うったえかけ、深層レベルでのこの星への愛情に触れることができるかもしれない。今の運動では、主に、地球環境劣化と、それによって生じる罪悪感や恐怖を、私たちの理論的思考にうったえかけているだけだ。

確かに不安あおる方法を有益だと考える人もいるかもしれないが、それは人々から未知のものへの恐怖を引き出してしまう。それより、人の心から安らぎと慈愛の気持ちを引き出し、大地への愛情へと導くほうが良い。そして、あまりに傷ついた母なる大地を、愛の力で守りたいという衝動へ駆り立てるのだ。

しかし、究極的には、文化活動という強力な力を通して、厳しい現実を見せつつ感情にうったえることができれば、地域社会が必要としている力を引き出すことができる。それによって地域は奮い立ち、環境への意識が高まり、私たち全ての母である地球を守ろうという国際的な運動の一部となることができるのである。その文化活動には漫画やビデオゲームなど、「低級」だと扱われてきた形態も含むべきだ。私は臨床心理学者として、「ビデオゲーム療法」を使用した経験があるが、このとき、表面的にはシンプルに見えるゲームでも適切に使えば素晴らしい効果があるということを実感した。

心理的な安心感を得るために、木を抱けばよいのだろうか。近い将来、私たち1人1人がそれぞれ異なるトーテムの担当者となり、毎日の生活でそれを守り、敬意を払うよう行動することになるかもしれない。最低限でも、子どもが幼い時から自然に触れさせ、自然と文化的な土台が感情的に結びついていることを意識させるよう教育することが、社会において有益であることが証明されてきたのは確かだ。

翻訳:石原明子

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母なる大地へ捧ぐ人道主義の愛 by ウマル コナレ is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

著者

ウマル・コナレ氏はマリ共和国出身。国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)元インターン。フランスで臨床心理学者の資格を取得し、現在は博士号取得のため「The function of religion in the Muslim population of Mali(マリ共和国におけるイスラム教徒の信仰の役割)」をテーマに研究している。関心は宗教学、文化、セラピーとしての文化慣習、社会的、政治的文脈における心理学、現代社会における民族、集団同一性など。