ブレンダン・バレット
ロイヤルメルボルン工科大学ブレンダン・バレットは、東京にある国連大学サステイナビリティ高等研究所の客員研究員であり、ロイヤルメルボルン工科大学 (RMIT) の特別研究員である。民間部門、大学・研究機関、国際機関での職歴がある。ウェブと情報テクノロジーを駆使し、環境と人間安全保障の問題に関する情報伝達や講義、また研究をおこなっている。RMITに加わる前は、国連機関である国連環境計画と国連大学で、約20年にわたり勤務した。
私は今、日本は経済的に「新しい標準」にあるのかもしれないという考えを受け入れようとしている。「新しい標準」とは、不況が長く続き、経済成長はほんの少ししか見られないような状況のことだ。私がこの状況を受け入れようとするのは、一般的に20年も経済不況が続けば、経済的・社会的に崩壊しそうなものだと考えられるにもかかわらず、日本は全くその逆だからだ。日本では多くの点でごく健全に見える。
では私がなぜこのような結論に至ったか。2012年の地球環境変化の人間・社会的側面に関する国際研究計画(IHDP)の『Inclusive Wealth Report』(IWR: 包括的な豊かさに関する報告書)の報告に衝撃を受けたからだ。IWRは国内総生産(GDP)に代わる新たな経済指標で、自然資本、経済・生態学的条件、国民の健康と生産的能力を評価し、国の政策が持続可能かどうかについても測るものである。
この報告書は、日本を含む20カ国を1990年から2008年にかけて様々な面から評価しており、私は以下を読んで驚いた。
「日本は最も好ましい状態にある。富が蓄積され、自然資本の蓄えも増加している。これは主に森林部門への投資によるものだ。この状況は多国と比べ人口増加率が低いことによっても説明がつく。その大部分は最近の日本の生態系サービス評価によっても裏付けられている……」
包括的な豊かさの指標はまだ開発過程にあることには留意すべきだろう。国連大学ではより詳しく知りたい人々向けに2013年1月7日に、これを題材としたイベントが開催された。
ここで私が述べたいのは、日本をGDP成長というレンズを通して眺めれば、ここ20年は停滞していたと結論づけられるだろうが、新たな視点で見ると物事はまったく異なった様相を呈しているということだ。
人は現状維持を求める傾向がある。ただしそれはたいていの場合、経済成長の時期においてだ。経済的に厳しい時期は、多くの人の苦痛や苦労を目の当たりにし、自分にも何が起こるか分からないという不安にかられる。そして「通常の」経済成長が戻ることを願う。
2008年、私は経済危機の直後にイギリスの銀行のマネージャーと話をした。彼女は窮状を嘆き、「再び普通の状態」に戻る日が待ち遠しいと言った。彼女にとって「普通」とは銀行の利益、投資の機会増加、顧客満足を意味する。普通の日が戻らない可能性など彼女には考えられなかった。戻るのが当然だと考えていたのだ。
それから4年後、二番底の後には三番底の恐れも見え始めていた。世界中が「普通」に戻る可能性はいまだにはるか遠くにしか見えない。このような状況の中で多くの評論家が、我々は現在成長の終わりを目の当たりにしているのだと主張するのにもうなずける。『The End of Growth(成長の終焉)』の著者である脱炭素社会研究所のリチャード・ハインバーグ氏は「我々の知る経済成長は終わりを告げた」と述べる。
私たちは世界的成長の終わりに直面しており、現在の制度、政策、個人活動、願望も変わらねばならないと専門家たちは述べている。
CIBCワールドマーケットの元チーフエコノミスト、ジェフ・ルービン氏にも『The End of Growth』という著作があり、経済成長のための本物のエンジンは常に安くて豊富な燃料や資源だったと述べている。しかしその時代は終わった。
エネルギーと金融の専門家、ネイト・ハーゲン氏は最近の講演の中で、私たちは世界的成長の終わりに直面しており(先進国の経済はいまだに非常に豊かではあるが)、現在の制度、政策、個人活動、願望も変わらねばならないと述べている。
上記の2冊もハーゲン氏の講演も、現状を寒々しく暗くとらえている。経済成長を過去のものと考える理由は3つだ。資源の過剰消費、気候変動のような環境への悪影響、そして負債である。私たちは世界経済と生物圏を限界まで使い切ってしまった、あるいは使い切るまであと少ししかないようなのだ。
これに対しハインバーグ氏は、自然資本の枯渇、特に従来の石油生産がピークに達する中、そういった制約に合う「新しい標準」を作らねばならないと述べている。そして、持続可能な範囲で採取可能な資源の分量の範囲内で利用する「健全な経済均衡」を提唱し、私たちが「古い標準」に固執するならば、私たちは引き続き高い失業率、不平等の拡大、環境危機の悪化から抜け出すことが出来なくなるだろうと警告している。
ハインバーグ氏の考え方は、英国サリー大学「持続可能な発展」の教授、ティム・ジャクソン教授の考え方と特に似ている。ジャクソン教授は『成長なき繁栄―地球生態系内での持続的繁栄のために』の著者でもあり、「成長」をより意義があり、物質主義的でなく、成長に依存しないものへと再定義すべきだとしている。
こういったハインバーグ氏やジャクソン氏が提唱することには、良いアイデアだね、という以上の価値があるのだろうか。
日本は西洋の先進国が絶対に避けるべき経済的低迷を体現したとみなされるようになってきた。多くの評論家は日本の1990年代、2000年代を失われた20年と評している。1989年にバブル経済がはじけた後、株式市場は崩壊し、その後債務危機が起こり、政府は銀行を救済しなければならなかった。聞き覚えがあるだろう。20年後、日本経済はいまだに不安なままで、再び景気後退へ突入しそうだ。
ロバート・サミュエルソン氏はワシントンポストで日本は3つの主要な問題点に直面していると論じている。第一に輸出に依存した基本的経済モデルの崩壊、第二に人口減少と高齢化、第三に国債のGDP200%超過である。氏は「経済的ダイナミズムの喪失は、その繁栄と国家の状態の性質を変えてしまった」と結論付けている。サミュエルソン氏が正しければ、日本は今「繁栄」の意味を定義し直している最中なのである。
従来のレンズを通して日本を眺めれば、ここ20年は停滞していたと結論づけられるだろうが、新たな視点で見ると、物事はまったく異なった様相を呈している。
私としてはサミュエルソン氏の説に同意したいところだが、私は経済学者ではないので、この説を大量のデータなしで信頼することはできない。私の意見ではこのような再評価は主流ではなく底流でもあり、様々な形で現れていると思う。その例の1つがもったいない学会だ。ウィキペディアの「もったいない」の定義が興味深い。「物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している」とある。これを見ると、日本社会の一部では何が何でもGDP成長をという強迫観念とは違うものが現れ出ているという印象を受ける。
だが、この底流は全ての日本人に浸透しているわけではない。2012年12月の衆議院議員総選挙の結果は国民の大多数が基本的にはこの「停滞した20年」からの脱却を望み、経済改革に投票したことを示している。
改革が実際に行われ、効果があるかどうかは別の問題である。今後数年で日本の「新しい標準」への移行の兆候がますます見られるかもしれない。しかもハインバーグ氏、ルービン氏、ハーゲン氏、ジャクソン氏の説が正しいとすれば、この「新しい標準」はほとんどの産業化国、産業化途上国が通るであろう道である。
だが現実には新たな標準は私たちが思うほど顕著なものではない。包括的な豊かさに関する報告書の結果を見て日本はまだ何も失ってはいないと主張する者もいる。金融ジャーナリスト、アンソニー・ヒルトン氏によると「『失われた10年(ロスト・デケード)』で日本の輸出は73%増加し、電力使用(経済活動の主要な指標)は30%増加した。2006年には日本の輸出は1989年の3倍になった。オズの魔法使いではないが、『迷うこと(ロスト)』はそう悪いものでもないのかもしれない」
ニューヨークタイムズではエーモン・フィングルトン氏がここ数十年で「日本は金融危機にもかかわらず、ますます豊かなライフスタイルを国民にもたらすことに成功している。やがて時がたてば、この時代は驚異的なサクセスストーリーとみなされるかもしれない」
フィングルトン氏によると日本人の平均寿命は1989年から2009年の間に4.2年延び、失業率はアメリカの半分の4.2%にとどまっている。さらに現在の経常黒字は2000年には1989年の3倍である1兆960億米ドルに上ったとも述べている。
日本は金融危機にもかかわらず、ますます豊かなライフスタイルを国民にもたらすことに成功している。
誰もがこの評価に同意するわけではないし、若者の失業率の増加、労働力人口の減少と平均年間就業時間の減少は将来の問題となり得ると指摘している。当然だが、このイメージが捉え難いのは現在が成長経済から、定常状態の経済とでも言えるような別の形態への移行時期にあるからだ。渦中にいる全ての人々がこの新たな形態を明確に捉えられるようになるには少々時間がかかるだろう。
だが、日本が設備を維持し公共の場を清潔で安全な場所に保つためインフラに投資し続けることは大事だという認識は必要だ。経済的困難に際しても、日本には国民としての誇りと社会的結束が見られる。もちろん、誰もが幸せで問題がないというわけではない。だが日本人が困難な時に見せる落ち着きぶりは賞賛に値する。
日本は健全だという新たな視点を強力に主張する一人が2011年に幸せ経済社会研究所(ISHES)を設立した枝廣淳子氏だ。枝廣氏は次のように述べる。
「私たちは経済成長のために生きているのではありません。日常に幸せを見出すために生きているのです。そして将来の世代も幸せを享受できる事を願っています。経済と社会はこの目的を果たすべきであり、それが達成できないのであれば異なった形態や構造をとらなければなりません」
ここで疑問が湧く。「もし私たちが、日本だけでなく世界的な経済成長の終焉を目のあたりにしているのだとすれば、どのような経済的・社会的行動の新たな形態や構造を探っていけばよいのだろうか。いくつかの答えは日本で見つかるだろう。ハインバーグ氏のこの説明が最も分かりやすいのではないだろうか。
「いくつかの国々や地域社会はすでに定常状態の経済の方向へ動いている。スウェーデン、デンマーク、日本、ドイツなどは国民を養うために高度成長に依存する必要はない。だからといってこれらの国々が順風満帆というわけではない(特に日本は膨大な国債を抱えており、痛みを伴う適応が必要である)。しかし、国内の経済格差が大きく、高度成長に慣れてしまった国と比べると、こういった国々の方がはるかにうまくやっていくだろう」
翻訳:石原明子
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