江戸時代の教訓が福島の復興を助ける

2013年12月09日 アズビー・ブラウン 金沢工業大学

東日本大震災から2年半が経過した現在、難題を抱える日本政府と、福島原子力発電所の責任を負う会社である東京電力(TEPCO)は、損壊した原子炉3基の処理に対し世界の支援を求めている 。しかし日本のさほど遠くない過去をひもとくと、教訓となり得るような災害からの復興の事例が多い。

産業化以前の日本の注目すべき特徴の一つに、自然環境に対する実践的で高度に発達した理解がある。現代的な意味において、この知識を「科学的」と称するのは難しい。それはむしろ、数千年もの経験から生まれた言い伝えの集合体だった。森と水流と野生生物と土壌の間の自然な関係を重視し、助言と約束事とタブーを含むものだった。

森林管理に対するこうした伝統的アプローチの根底には、水系への敏感な気遣いがあった。このアプローチは村人たちに頻繁に森へ入ることを奨励した。村人たちは森で燃料や食料を集め、小川や沼や池の状況を観察した。それらは「調和の取れた共存」のために必要だと理解されていた。

稲作には効率的な灌漑システムが必要だった。新しい水田を作る場合、通常は森林伐採や水路の建設が伴ったが、その土地の自然な特性を利用して、可能な限り水流を邪魔しないように計画された。海洋資源も注意深く維持され、種や季節的変化は観測されて、魚や貝や海草の品質や漁獲量を維持するには水質が重要だと理解されていた。

しかし多くの場合、理解だけでは環境破壊を避けることはできない。16世紀末近くに終わった2世紀に及ぶ戦乱で、多くの山の斜面は丸裸になってしまった。町や要塞(ようさい)を建設したり復興したりするために、木が伐採されたためだ。こうした過剰な森林伐採は深刻な結果を次々と引き起こした。木が伐採された丘陵の斜面は、雨水の流出や雪解けを調整することができなくなり、破滅的な洪水を引き起こす原因となった。川堤や灌漑システムは一定の水流を保つように微妙に調整されていたため、頻繁に崩壊し、それと同時に食料生産の手段も失われた。食料、燃料、建設資材を含む多くの物品は川を使って運搬されていたが、そうした運搬も混乱に陥った。まさに環境的大災害だった。

それから数十年後、新たに中央政権化した政府は 伝統的な手法を義務づけ、木を伐採した箇所には必ず植樹するというガイドラインを発行した。新しい川堤の土木工事は、周期的な洪水によりよく対処できるように設計された。農業技術は、水の消費や土壌管理や肥料の使用といった観点から改良された。

環境劣化はすぐに元通りにできるわけではない。しかし17世紀末には、前述のように巧みに統合された慣習が著しい人口増加を支え、さらに食料生産や居住環境の質、衣類、健康、教育の機会を改善した。すべての施策は大抵、生活の質の向上を伴った。

サクセスストーリーとしての福島

上記の例は出来すぎた話だと思われるかもしれない。ある意味では確かにそうだった。非常に持続可能な文化は250年以上続いたが、産業化と大規模な輸出入経済の発展ののち、そうした慣習は徐々に行われなくなっていった。日本人は短期間に経済的な偉業を2回、遂げてきた。1回目は1850年代、アメリカの砲艦が開国を迫った後であり、2回目は1945年の後だ。それは驚くべきサクセスストーリーである。こうした変化は必ずしも、昔ながらの持続可能な方法を放棄する必要はなかったが、結果的には放棄してしまった。

1970年代以降、産業汚染や、農薬が国内の川に及ぼす影響に対処するための共同努力が行われた。2011年3月の福島での災害直前には、日本の多くの農村社会は、現代的な必要性に沿って、伝統的で持続可能な林業や水流や農業管理を復活させ、適応させることに成功していた。福島県はそうした活動を率先し、飯舘村(現在、離村が進んだ汚染地域に含まれる)は、著しい成功例として挙げられていた。

たき火から生じる煤煙(ばいえん)を吸い込む健康上の影響を私たちは完全に無視すべきではない。しかし産業化以前の日本人が大規模な汚染を生み出すことはなかった。例えば江戸の都(現在の東京)に貢献していた隅田川のような主要な河川でさえ、19世紀中旬までは飲めるくらいに、あるいは少なくとも沸かしてお茶をいれる程度には水質が保たれていた。福島原子力発電所から放出された汚染物質について江戸時代の日本人は無知だったが、彼らは汚染物質の回収と輸送における水路の役割を認識できていたのだろう。

同じサイクルが新たな脅威を運ぶ

数々の放射性核種が事故によって放出されたが、中でもセシウム134とセシウム137は最も懸念されている。林冠は、空気が拡散した物質の多くを取り込んだ。取り込まれた物質は葉と共に林床に落ち、土壌に入り、植物の根へ入る。さらに新たな葉や花や果実に受け継がれていく。動物が定期的に食べるナッツ類やフルーツやベリー類に含まれる放射性核種は、動物の体内に何十年も残存する可能性がある。さらに、動物の排せつ物の大部分は土壌に再び入り込み、上記のサイクルに再び加わるのだ。

セシウムに汚染された土壌や植物が最終的に森林内の小川に入り込むと、かなり予想不可能な方向に拡散していく。一部は川床から近くの植物へ染みこみ、一部は昆虫や魚に吸収される。ほとんどは海洋に流れていき、そこから海流に乗って次第に拡散するか、海底に沈殿する。汚染物質は常に下流に向かって流されるため、数十キロあるいは数百キロも離れた陸地の山から流れてきたセシウムを海洋の魚が吸収するかもしれない。

産業化以前の日本人は、木や水や植物や動物の相互依存性を非常に深く理解していた。まさにその相互依存性が今、長期的影響が予想される多くの毒物の配送メカニズムになってしまった。この環境災害の重大性は汚染物質の量にあるというよりは、汚染物質が日本の生命維持システムを基本的に乗っ取ってしまったという事実にある。

セーフキャスト(私が所属している団体)のような、科学者やエンジニアやボランティアの団体は、広範囲に拡散した放射性核種の位置を確認し、除去している。成功例も、楽観できる理由もある一方で、私たちの多くは絶望的な気持ちで森林を見ている。福島の森林は管理された方法で伐採し、林床に処理を施し、新たに植林すべきだという厳しい提言もある。この提言は過剰なものに思えるかもしれない。しかし日本の江戸時代の先人たちは、基本的にそうした提言を実行したのである。

当時、施策の効果は数世代の間、見られなかった。日本は、この種の計画を最後までやり通すのに必要な忍耐力と長期的ビジョンを持ち合わせているだろうか。もしかしたら、ないのかもしれない。しかし放射能汚染の問題は少なくとも数十年間、私たちのそばを離れない。そして私たちが森林を癒すことができない限り、水路を癒すことは不可能であり、水路を癒せなければ、環境的ハイジャックは続くのだ。

翻訳:髙﨑文子

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著者

アズビー・ブラウン

金沢工業大学

アズビー・ブラウン氏は、金沢工業大学の東京未来研究所の所長で、独自に放射線量測定を行うグループであるSafecastでのボランティアも行っている。著書にJust Enough: Lessons in Living Green from Traditional Japan (2010), the Genius of Japanese Carpentry (1995), Small Spaces (1996), The Japanese Dream House (2001), The Very Small Home (2005)がある。1995年から金沢工業大学の建築学科の準教授である。