インゲ・トベットン
クリスチャン・マイケルセン研究所人類学者であり、クリスチャン・マイケルセン研究所(Chr. Michelsen Institute)の上級研究員。これまで、都市部及び農村部の貧困モニタリングと分析、ジェンダー平等/女性のエンパワーメント、ガバナンス/公共サービスの提供、天然資源管理/小規模漁業、開発協力/組織開発などについて研究・調査を行ってきた。アンゴラ、ナミビア、モザンビークで居住および勤務経験がある。
貧困であるとはどういうことなのか。この問いは、一見するとさほど難しいものではないように思える。先進国では、公的にも普通の認識としても、貧困はほぼ必ず収入の観点から語られる。この観点から見ると、消費力(収入)の低さと貧困は、実質的に同義語となる。
先進国以外でも、貧困は同様の観点で取り上げられることが少なくない。国際比較のため、世界銀行は、あの(悪)名高い1日1.90米ドルの貧困ラインを設定した。つまり、1日の収入が1.9米ドルよりも少ない人たちが貧困層の一部を成しているということだ(幸いにも現在、この貧困層グループは縮小しているが。)貧困ラインをどこに、どのように引くべきなのかを論じる者はいるだろう。しかし、貧困が十分な収入がないことを意味するという考え方について、議論されることは少ないようだ。
もちろん学界においては物事に決着がつくことの方が少ない。経済学者の間でも、金銭的観点からのみで貧困を測定すべきかどうかについては意見が分かれている。社会科学の他の分野では以前より、標準的定量分析による貧困の定義は誤った認識を招く恐れがあるとし、懐疑的な見方がある。感染症のように、明確に定義された客観的な状態の一種として貧困が示される場合、貧困の兆候やその直接的影響に焦点が絞られる。これでは、根底にある構造的要因や、貧困層の人々それぞれの異なる実体験に目が向かない恐れがある。
最近の論文で、私たちはモザンビークにおけるウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態)についての対照的な見解を考察している。モザンビークを対象としたのは、この国のこれまでの成長実績に議論の余地があるためだ。1990年代前半から最近に至るまで、最も安定して総合的な経済成長を遂げた国の1つがモザンビークである。しかしこの経済成長はほとんど浸透せず、多くの人が取り残されたままだと指摘する者もいる。
政府が実施する貧困に関する公式調査は、典型的な定量分析、すなわち経済的観点から行われる。そこでは必需品を一式特定し、その費用を推定する。消費する額(生活費)が、最低限の生活コストの額に満たない世帯は「貧困」と判断される。この定義を適用した国の複数の調査結果によれば、消費によって定義する貧困はこの20年で、急速にとは言えないが着実に減少している。
しかし現在も依然として、モザンビーク国民のほぼ半数が絶対的貧困の状態で暮らしている。また、ウェルビーイングの地域間格差も存在する。例えば、南部の首都周辺は他に比べ貧困率がかなり低いことは、消費格差が拡大しつつあることを示す。
貧困に関する公式見解を検討するため、私たち自身のものを含め、さまざまなボトムアップ調査が人類学者によってモザンビーク各地で実施された。これらの調査は、経済的観点からの調査とは形態も内容も全く異なるものだ。
私たちの調査について言えば、そもそも出発点から違う。貧困に関する固定された定義や既成概念を適用せず、そうした観点から貧困層に関する統計をとらないようにした。その代わり、ウェルビーイング、多様な不利益の形態、そして不利益が発生する社会的関係の種類について、地元の人々の視点を調べることを目的とした。
この人類学的調査の結果から明らかになった主な事項の1つが、裕福な層を見ずして、貧困層を理解することはできないということだ。貧困という言葉が各地域においてどのようなかたちで語られるか、つまり、裕福な層と暮らし向きの悪い層を表す用語がどう使われるかは、社会的に疎外された人々と、地域において強力な社会的つながりを持つ人々の違いを明確に示す。
貧窮を認識する際、食料や衣服などの物質的な欠乏が強調される。しかし、脆弱性(衝撃)に対処し、社会的流動性を可能にするために不可欠なのは、社会的関係である。貧困であることは、より広範囲な社会において自分が置かれている「立場」と、その立場を通して社会の中ではい上がる余地があるかどうかとに、密接に関連している。
人類学的観点からの調査によって、政治的人脈を持っているような有力者が発展の機会を抱え込むという、複雑かつ地域的な仕組みが浮き彫りとなった。これにより既存の格差が拡大し、最も不利な状況にある人々の社会的かつ経済的流動性が限定される。
例えば、モザンビーク北部のニアサ州におけるNational District Development Fund(国家地域開発基金)は、(農村部の)経済活動に投資するための主な資金源であると捉えられていた。公式には、その資金の割当における優先度を、営利企業よりも農業、男性よりも女性、個人よりも団体のほうに高く設定している。
しかし調査した結果、地域に影響力を持つ有力者たちが、その資金を組織的に摂取していたことが明らかとなった。例えば伝統的権力者、男性起業家や与党の指導者たちが含まれるが、排除と賄賂から成る社会関係に結びついた複雑なシステムを通じて、それが可能となっていた。
また、貧困層の生活から見えてくるのは、不利な状況が再生産されるさまざまな仕組みだ。これは、ある一部のグループにだけに権限を与えるという、特定の文化的慣習と関係している場合が多い。さらに、社会的及び経済的に不利な状況にある場合、さらなる不利な状況が作り出されるという性質があることも分かった。
例えば、私たちが会ったシングルマザーの女性は、2年連続の干ばつで収穫の大部分を失っていた。3人の子どもを学校に通わせるために奮闘していたが、売るための収穫物がなく、支援してくれるような良い地位にいる家族もいない中で、子どもたちを進級させるために必要となる賄賂を今までのように工面することができなかった。また、失敗したことへの恥を隠し、尊厳を保つために、大切な人間関係まで断ってしまった人々もいた。
学問分野によって異なる貧困の認識に関して、どのように理解すればよいのだろうか。各観点の融合を図りたくなるところではある。例えば、貧困層の特徴をより正確に解析するために、社会資本指標や主観的ウェルビーイングの視点を既存の消費力測定に加えることは可能であるだろう。それとも、地域の状況を反映させるために、消費によって定義される貧困層に、定性的な追跡調査を行うことだろうか。
確かに、定性分析と定量分析を組み合わせたアプローチは貧困調査に普及しており、どちらか片方よりも豊かな知見を得られることが多い。しかし、私たちが論文で述べているように、これでは少し的外れとなる。
標準的な定量(経済的)分析と定性(人類学的)分析には根本的な哲学的相違があり、容易に融合することはできない。この相違には、社会的現実の構成についての理解や、貧困について知り得る情報、貧困がどのように生み出され再生産されていくのかに関する認識などがある。
そのため、それぞれ全く異なる観点からの貧困の理解を、十分に活用できるようにする必要がある。各学問分野のアプローチにはそれぞれ異なる強みと限界、そして政策への活かし方がある。
経済的アプローチは、経済的発展を長期間にわたって常時追跡し、消費によって定義する貧困のリスクが最も高い世帯を特定するために不可欠である(例えば、社会政策への利用を目的とした場合など)。しかし、貧困を発生させ再生産する要因となる、社会的関係に基づいた時に政治的人脈が絡む仕組みを突き止め、さらにそれを阻止するには、より深く地域に根差す民俗学的な手法が必要だ。
そして、これら異なる観点を意義ある対話に取り込んでいくことが、次なる課題として残されている。
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この記事は、クリエイティブコモンズのライセンスの下、The Conversationから改めて発表されたものです。元の記事はこちら。