お金のいらない世界は可能か

「問題を引き起こしたのと同じ考え方で、その問題が解決できるはずがない」

これはアルバート・アインシュタインの言葉だ。しばしば引用されるわりには、応用されていないことが多いのだが、社会に根強く残る問題がどうしてなかなか解決できないのかをうまく説明している。

例えば、従来、発展というものは巨大なインフラに巨額の投資をして得られるものだと考えられていたが、バングラデシュの経済学者は大胆に発想を転換し、それまでは考えられなかった貧しい女性を対象に少額の貸し出しを始めた。ノーベル賞受賞者のムハマド・ユヌス氏が創立したグラミン銀行は総額数十億ドルの融資を行い、小規模融資が人々を貧困から救い出す効果的で直接的なやり方であることを示した。この方式は世界中各地で採用され、個人も融資を行うようになってきている。

直線的思考で導かれる解決策は、どこからその考えがきたのかが分かりやすいので非常に魅力的である。人は自分の周りのシステムに欠陥があるとは考えたくないものだ。今あるシステムの長所を並べ、望ましくない部分だけを微調整しようとしがちだ。そうしたところで、結局また別の個所で問題が現れるだけなのだが。その結果、終わることのない「もぐらたたき」ゲームに明け暮れることになる。まだ見ぬ問題が現れる前に大急ぎで技術の改良を行わざるを得ないのだ。

表面的にはこれは悪くないように思える。技術の改良は経済に良いことだし、人は進歩とスムーズな変化を好む。とはいえ、歴史は、社会システムが社会的、政治的、経済的、軍事的な理由で唐突に終わりを迎えて塗り替えられていく。世界大恐慌、第一次世界大戦、第二次世界大戦などがその例だ。繰り返すが、今ある経済システムが一部だけ崩壊した場合、その問題を修復しているつもりでいても、結局無駄な努力をしているに過ぎない。

全ての持続不可能な活動は、その表現が示す通り、必ずいつかは終わる。現在のシステムの終焉や唐突な中断について考える前に、少しばかり視点を変えて、社会を一から作り直すとしたらどうなるかを考えてみよう。

軌道に乗るビーナス

博学な未来学者、ジャック・フレスコ氏はもう何十年もそういうことを考えている。1974年に行われたラリー・キング氏によるインタビューをご覧いただきたい。お金は(そしてそれに関連する政治、権力)は究極の腐敗原因であるとして、フレスコ氏はお金のない世界の青写真を描くことに着手し始めた。お金を土台としている社会でお金のない社会を語るのはナンセンスではあるが、ひとまずそれは横においておこう。お金のない社会は、既存のシステムより有効だろうか、そうだとしたら、どうやってそこへ到達できるだろう?

現在の私たちには購買力分の自由しか与えられていないとし、フレスコ氏の代表的イニシアティブ、ビーナス計画は、まったく新しい社会システムを提案している。現存のシステムでは「社会のニーズ」を語る前提として「経済のニーズ」を満たすことに重点を置いているが、フレスコ氏のシステムでは、真の「人のニーズ」とその配送に重点を置く。このビーナス計画の考えの中核をなすのは、資源は売買の対象ではなく全ての人々が共有するものという考え方である。再生可能なエネルギー、多くの分野で進化したテクノロジー、中央コンピュータ制御システムを大々的に利用し、「人のニーズ」に見合う分の資源を分配する。

否定的に見られるスターリンや毛沢東の産業・農業社会主義とは異なり、フレスコ氏が理想とする社会では、様々な機械が人々を退屈な重労働から解放する。現在は、このような重労働のために多くの人々が教育を受けたり生活を楽しんだりすることができずにいる。フレスコ氏は、政治的介入のないシステムなら必然的に戦争、飢餓、貧困、そして犯罪をもなくなるだろうと主張している。そして、より高い教育を受けた人々がその才能を人類と自然の繁栄のみに活かすことができる。ビーナス計画が示すビジョンはかなり突飛で、ユートピア的、かつ恐ろしいものにすら映るかもしれない。しかし、フレスコ氏は、94年間の経験から、ユートピアは達成できないと存分に承知している。彼の信念は、このようなビジョンは(1)現存のシステムよりは良いシステムであり、(2)絶え間ない技術革新によって(私たちがそれを選びさえすれば)、達成可能だということである。

彼の考えは持続可能な発展の考え方の中で最も過激なものの1つだろう。現在は、限りない経済成長はよいことかどうか、現在の経済モデルはいったい持続可能な発展を支えることはできるのか、といった議論が行われているが、それらを超越している。より広い視野で考えてみると、この考えは人類文明における資本主義を超えた(資本主義によって可能になるという面もある)、進化形なのかもしれない。

人はお金を得られなければ仕事などしないという批判はよくあるが、何が人を動機付けるかに関する新たな研究によって、この批判は否定されつつある。金銭的報酬は、認知能力を必要としない機械的な単純作業に対してのみ、動機として有効なようだ。このような作業は簡単に機械化できる分野であるという点が興味深い。創造的活動は通常、利益など考えずに行われている。成長し続けているデジタルメディアのグローバルデータバンクが典型的な例だ。それらのデジタルメディアは無料で創られ、共有され、インターネットからダウンロードが可能だ。現在、人々は、市場が決めた一連の行動に労働力を提供している。時には邪悪な動機で働く場合もある。ビーナス計画の未来ビジョンでは、人は外から押し付けられた目的によってではなく、内なる情熱につき動かされて行動し時間を費やす。

共有は愛である

最近、いわゆる「コラボ消費」がもてはやされるようになったが、資源を共有する考え方は、ビーナス計画と似たところがある。所有しているものを交換するなり、一緒に使うなりして効率的に共有すれば、全体的な物的消費量は減る。自分の持ち物をほんの短い間しか使用しないことがあることを考えると、所有物の中には自分が使わない間、他人に貸し出せるものもたくさんあるはずだ。もちろん、最近このような新しい名前ができたからといって、このコンセプト自体が新しいということではまったくない。人類は物を共有したり、貸し借りしたり、交換したりということを何千年も行ってきたのだから。

新しい名前がつけられたこのコンセプトの目新しい点は、インターネットのおかげで、入手可能な品物を探す手間が大いに省かれ、これまでにはない遠距離間での当人同士の取引が可能になった点である。例えばeBayは、不要品を販売できる世界初のオークションサイトである。またswap.comは家庭にあるメディア媒体をつなごうとしている。このサイトによると、各家庭には新品同様のメディア媒体が約450品目あり、その額は7500米ドルにもなるという。他のサイトでは、この考えをカーシェアリングと相乗りに応用している。ソフトウェア開発における共同努力のおかげで、無料でオープンソースのソフトウェアが多様に利用可能となった。これは気候科学の研究なども含め、基本モデルとなることだろう。

当然だが何でもかんでも交換可能というわけではない(交換可能ならと願うものは数々あるのだが)。交換という概念において壁になるのは、個人の所有物によって得られるサービス(情報や移動手段)より、そのモノ自体(車、本、DVDなど)に対する物理的な愛着だ。それらがなくなっても、生活を楽しめなくなるわけではない。それらのサービスを提供してくれるメカニズムを失うというだけである。

オンラインの物々交換はオンラインショッピングに取って代わるだろうか。CNNはそのように考えているようだ。Wall Street Journalでさえ、物々交換は景気低迷による例外的な行動というわけないと認めている。Swap.comの報告によると、これまでに180万件の物々交換が行われたことで、1150万ドル分の余分な消費が抑えられ、そのおかげで1040万ポンド(4717トン)の炭素節約となった。

しかし、たとえモノそのものではなく、それから得られるサービスが重要だと分かってはいても、赤の他人に車だのパワードリルなどを簡単に貸せるものだろうか。あるいは、自分が本を送るとき、相手も送ってくれると信じることができるだろうか。隣の家のガレージに、いつの間にか自分の家のものがたまっていくという話は、郊外でよくある笑い話だが、少なくともこの場合なら犯人は明らかだ。

「コラボ消費」の興味深い点は、現在私たちがモノやサービスを得る際の判断の拠りどころとしている販売元に対する信用格付けが、新たな格付け方法に変わる点だ。私たち個人が信用できるかどうかが格付けされるのだ。つまり、モノを手に入れる手段は金融資本の機能ではなく、社会資本の機能になるということだ。広義での「個人の富」を理解するにあたって、これは非常に重要な点であり、これこそがお金の代わりとなるものなのだ。社会資本は時間とともに増える。適切に共有し、信用度が上がれば、よりよい社会的行動が促進されることにもなる。個人の自由とアイデンティティが犠牲になりさえしなければ、この理論は素晴らしいものだ。

もちろん一晩で全てが変わるはずがない。関心が高まる今日、最も必要とされるのはempathetic civilization(共感の社会)に向けた人間の意識の成長である。人類はそもそも共感的な生き物である。共感しあう仲間は最初は血族だけだったが、進化と共に、種族、宗教、現在は国家へと広がってきた。今後は全ての人類、全ての生物や植物、そしてついには私たちの地球へと広がっていくであろう

現在のシステムには限界があると考え、新しいシステムを取り入れようという考え方の要素はすでに見られる。しばしば論じられるように「Y世代」はデジタル第一世代であり、彼らにとって共有することはごく当たり前である。消費資本主義ではなく、コラボ消費主義も彼らにとって当たり前の概念になりうるだろうか。そうなれば、次世代は何をもたらすだろう?

最後に想像してみよう。もし私たちが、フレスコ氏が思い描く世界に生きていたら、お金に基づいた社会をナンセンスだとは思わないだろうか。別の言い方をしよう。欲しいものが何でも手に入るようになったら、いったいお金など必要だろうか。

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ビーナス計画のウェブサイトには、ここではとても書ききれない膨大な質問に対する回答が載せられている。

翻訳:石原明子

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著者

クリストファー・ドール氏は2009年10月に、東大との共同提携のうえ、JSPSの博士研究員として国連大学に加わった。彼が主に興味を持つ研究テーマは空間明示データセットを用いた世界的な都市化による社会経済や環境の特性評価を通し持続可能な開発の政策設計に役立てることだ。以前はニューヨークのコロンビア大学やオーストリアの国際応用システム分析研究所(International Institute for Applied Systems Analysis)に従事していた。ドール氏はイギリスで生まれ育ち、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジにてリモートセンシング(遠隔探査)の博士号を取得している。