「トランジション・タウン、リサイクリング、代替電力、長持ちするデザイン。これらは対症療法でしかありません。私たちが現在の生活をそのまま続けられるようにしているだけで、時間稼ぎをしているのです。根本的な原因、すなわち私たちの心理に注目しているわけではないのです」
イギリスの新作ドキュメンタリー映画「Consumed ― Inside the Belly of the Beast(消費 ― 獣の腹の中 )」は、私たちの消費欲求は進化論と心理学によって説明づけられると主張する。つまり新しい家、新しい車、新しいiPadというように、私たちが物質的なアイテムを持続不可能な勢いで消費しているのは、ステータスを獲得したいという欲求があるからだという。映画の冒頭としては強い主張だ。しかし言われてみれば、この主張は私たちが知っている人々にぴったりと当てはまらないだろうか。
Cワード、すなわち「消費者(consumer)」や「消費主義(consumerism)」に対し、多くの人々は数々の否定的なイメージを抱く。しかし、このイギリスのドキュメンタリーは進化心理学という複雑な分野を探究し、私たちが消費するのは種としての傾向なのだというアイデアを提示し注目を集めている。私たちは「経験、成長、学習への欲求、そして夢と野心を実現したいという非常に自然で人間的な欲求」の一部として消費するのだ。別の言い方をするなら、Our World 2.0で以前に論じたように、消費とは、生き残り、生殖の相手を獲得するという生物学的に正常な行動傾向として考えられる。
脳の食べ物
では、消費主義はどの時点で正常ではなくなり、ドキュメンタリーの中でインタビューを受けた1人が「心の病気」と表現した状態になってしまったのか、あるいは、なるのか?(インタビューを受けた人たちは、人類生態学、考古学、持続可能デザインといった分野の専門家たちだ)
ドキュメンタリーでは登場しないのだが、ここでは理解を助けるためにマズローの欲求階層について言及したい。マズローの階層説(下記のピラミッドをご覧ください)によると、人類は常に、基本的な生理的欲求(食料、水、セックス、睡眠)と安全欲求(健康、家族、財産などを守る欲求)を満たそうと努めてきた。
映画によれば、私たちの多く(もちろん全員というわけでは決してない)は特に20世紀後半になると、人間やその他の種を狙う捕食者や病気から身を守りたいという原始的な欲求を満たすことができた。
基本的欲求が満たされると、私たちはマズローの階層をさらに上っていく。愛情や所属を求め、次に尊敬(他者に対する尊敬や他者からの尊敬)を求めるようになる。状況が悲しい方向に向かうのは、まさにこの時点だ。映画の制作者たちは、私たちは今、社会的地位や他者からの尊敬を消費経済を通して買っているのだと主張する。基本的欲求が産業社会によって満たされた今、私たちは時間と脳を消費活動に没頭させているのだ。
消費主義は、刺激と新しいアイデアを渇望する人間の脳にとって一種の栄養である。しかし極端に走った消費主義は、社会や環境に影響を及ぼすプロセスに変貌する。その結果、私たちの長期的な利益(すなわち生存の可能性とあえて言おう。私たち人類の生存と言って差し支えるのなら、地球上の他の多くの種や資源の生存の可能性だ)が危険にさらされるのだ。
さらに消費のプロセスは、ますます複雑になり、ストレスの多いものになった。選択肢があまりにも多く、新しい装置や道具はあまりにも複雑すぎて私たちの理解を超えている。映画で指摘されているように、私たちは良き消費者になるにはどうしたらいいのか、一生懸命考えているのに、逆説的なことにその見返りは少ないのだ。
悲しいことには、私たちは尊敬や地位や威信を消費活動を通して獲得しようとしている間に、マズローの階層における愛情と所属の部分を見失ってしまうらしい。そして自己実現の何らかの形を獲得するチャンスは、ますます遠ざかってしまうようだ。
世界は情報が過剰にあふれているため、映画「Consumed」は恐らく意図的に、すぐに忘れてしまう統計を大量に盛り込むことはしていない。ただし、ある統計だけは驚くべき数字であるために突出している。平均的な西洋人は20歳になるまでに100万本、つまり1日に約140本のCMから情報を受け取っているというのだ。企業や政府や商人たちは明らかにそれぞれの役割を演じて、私たちが進化論的傾向に屈するように仕向けている。消費することをしきりに勧めるメッセージの激流の中、一体どうやったら足をすくわれずにいられるのか。
その反論として、私たちにも意志がないわけではないし、ひたすら買いまくるという誘惑に抗う力は誰にでもあるのだという考え方もある。
様々な映画を消費する
現代社会の暴走する消費傾向やその背景にある力学、そうした悪癖を乗り越える方法について分析したドキュメンタリー作品は、映画「Consumed」が最初ではないし、今後も制作されるだろう。
「Consumed」がお手本としたのは、映画監督のアダム・カーティス氏による2002年の評価の高い番組「The Century of the Self(自我の世紀)」だ。この番組は、広告会社と企業がいかに私たちの進化論的特性を利用するのか、細かく分析している。このBBCの連続番組は、英語圏における大量消費主義の発達を精神分析の視点から探究している。まず、ジークムント・フロイトの甥であるエドワード・バーネイズ が第1次世界大戦の直後、いかにして「広報活動」を実用し始め、一説には大衆の「無意識の欲望」を操作して消費に向かわせたのかを明らかにする。
反消費主義を扱ったもう1つの傑出した映画に「No Logo: Brands, Globalization and Resistance(ノー・ロゴ:ブランド、グローバリゼーション、抵抗)」(2003年)があり、オンラインで視聴可能だ。『ブランドなんか、いらない』 を執筆したカナダの活動家、ナオミ・クライン氏は、たがの外れた資本主義が環境や社会に及ぼした悪影響への対抗手段として誕生したアンチ・グローバリゼーション運動を評価する作品だと見ている。
しかし、いずれもすでに10年ほど前の作品だ。さらに、この2作品の発表以降、グローバリゼーションと消費主義がほぼ間違いなく加速していったことを考えると、それらの作品が促進しようとしていた、暴走する資本主義に抵抗する運動は、いまだに社会の多数派から賛同を得られずにいるのかもしれない。
一般社会の関心を集め、より公平でより良い世界に私たちを向かわせるという点で言えば、「Consumed」は現代社会の現状を科学的で注意深く、かつ内省的な方法で分析した点で優れている。この映画の間の取り方は、明確には分かりにくいのだが、世界金融危機以降、かつてないほど「人々は現代的な生活の性質に疑問を抱いている」という感覚を反映している。この点を微妙に描き出すことで、異なる「語り手」の情報から集められた1つの考え方を単純に強調するあまり冗長にしてしまうことのないように、プロデューサーたちは神経を使っている。さらに、映画全体の情趣としては観客に現状を疑問視させる傾向がある一方、ニュアンスのある作りなので、私たちが進むべき目標に到達する方法については明瞭な答えを与えない。
この映画の間の取り方は、明確には分かりにくいのだが、世界金融危機以降、かつてないほど「人々は現代的な生活の性質に疑問を抱いている」という感覚を反映している。
しかし、この映画は優れた補完的作品であり、「No Logo」のように、人類が進むべき未来の青写真を明確に示す、主張の強い活動家による映画に替わる作品ではない。わずか52分の作品であるため、「Consumed」は人類がさらに進化を遂げた段階へ進む方法について深く検証する時間を割いていない。そのため、私たちが消費主義というプロセスを、少なくとも短期的には克服できないのも当然だと言っているように見える。鋭い観客ならきっとこう思うだろう「トランジション・タウンも、リサイクリングも、代替電力も、長持ちするデザインもダメなら、一体何がいいんだ?」そうした取り組みを、今日の生活の苦痛を低減して今後も消費し続けるための一時しのぎの手段として切り捨ててしまうのは、公平ではないかもしれない。むしろ、そうした取り組みは多くの人々にとって、今でも「飲み下せない苦い良薬」なのかもしれないのだ。
この映画やその他の英語で撮られたドキュメンタリーに共通した、避けられない弱点は、作品の中でインタビューを受ける人々がイギリス出身か北米出身のどちらかでしかないという英国中心主義的な傾向だ。終末の日や西洋文明の没落に関する、非常によくありがちなアングロサクソン的不安感が、この映画にもあふれんばかりに登場する。BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)やその他の国の新興中流階級の人々は、初めて消費主義を経験している最中であり、彼らの視点を理解することは有益だったはずだ。さらに言えば、たとえそれが持続不可能あるいは物質主義的であるにせよ、先進諸国が手にした物を切望している世界中の人々の視点も、有益だったはずだ。
トラの口
「Consumed」の中心的な論拠は気の滅入るものかもしれない。しかし同作品は、過剰消費と環境からの分離という現代社会の現状は不可避ではあっても、人類の進化の上では比較的短い時期として考えられると断定している。この映画は、私たちがここ、すなわち今日の消費社会にいるのは意味あることだという強いメッセージを発信している。ここではないどこか、より良いどこかに向かう過程のワンステップだというのだ。短編であるにもかかわらず、本作は未来に関する希望を描き出しており、登場人物たちは世界の人々が自己破壊的な現実に目を覚まし始めることを信じて(あるいは少なくとも望んで)いるようだ。
では、「獣の腹の中」という挑発的なキャッチフレーズは何なのか?恐らく、私たちが消費者/マーケティング時代の驚くべき自己破壊性を克服するつもりなら、それを内側から、すなわち消費者社会の真ん中から始めるのが最適だと映画は示唆しているのだ。人間社会がかつてない窮地に立たされている今、「必要は発明の母/父」という観点で考えるなら、今日の私たちにとって非常に困難に見える変化を起こすことは、最高の対処法だ。
しかし、この理論は賢明な考えだろうか。あるいはただの希望的観測だろうか。「物事の内側から変化を起こす」ことが目標だと誰かが言うのを、あなたは何度くらい耳にしたことがあるだろうか。それは可能なことだ。しかし、いったん獣の腹に入ってしまえば変化に影響を及ぼすチャンスを失ってしまうのも、また真実である。なぜならあなたは体ごと、のみ込まれてしまっているからだ。あなたはトラの口をすでに通り過ぎており、後戻りはできない。
あるいは、そんなことも全く問題ではないのかもしれない。なぜなら今日の窮状に対する本当に正直な反応とは、1人のコメンテーターが映画の中で指摘したように、私たちは答えをまだ知らないと認めることだからだ。私たちはいまだに答えを探し続けている。しかし、いずれ答えは見つかるのだ。
翻訳:髙﨑文子