ドミニク・エルソン氏は経済開発コンサルタントで森林管理と自然資源を専門にしている。「Guide to Investing in Locally Controlled Forestry」 (地元管理森林投資ガイド)の著者で、シンガポールのコンサルティング会社、Seventy Three Pte. Ltd. (セブンティースリー有限会社)の創設者でもある。本稿で示された見解は専ら著者独自のものである。
最近私は、REDD構想はパブかバーにおける会話から出てきた類で、夢見がちな人やビール飲みを数百年も虜にしてきた「永久機関」と特徴が似ている、と書いて議論の口火を切った。その偉そうな主張を聞いて、油断していた懐疑論者は面食らった。彼らは自分たちの批判が敗北主義的で狭量だと切り捨てられたように感じたのだ。
REDDについては、どんなに褒めても、林業経済についての議論を刺激したという程度のことしか言えない。膨大な量のレポートが作成され、政府開発援助の資金が注ぎ込まれた大規模なプロジェクトが実施され、コンサルタントは仕事に追われた(包み隠さずに言うと、私もその一人だ)。本記事で議論したいのは、この究極の開発プロジェクトの追求が、パブで夢を語るレベルなら他愛なくて結構だとしても、そうでないなら、退屈ではあっても重要な、本当に気にかけなければいけない問題からリソースをかすめ取る大がかりな目くらましであることだ。
REDDの規模と複雑性は、経済学の教授でDevelopment Research Institute (ニューヨーク大学開発研究所)の共同所長を務めるビル・イースタリー教授が「プランナー」と呼ぶ人たちの傲慢さを反映している。同教授は、そのプランナーが計画を立てれば、(炭素)市場で環境保護のゴールを、現金移転で生活向上のゴールを、そしてインセンティブでガバナンス改善を、さらにはGHG(温室効果ガス)の削減をすべて同時に達成できると思っている。
この欺瞞が暴かれなかった理由は、誰にとっても何かが含まれているからにほかならない。保護論者は高い防壁と執行力を得る。新進歩主義者は市場の見えない手を知覚する。ターゲットの国々は助成金の巨大な壷に手を伸ばし、何とかしなければならないもののコストは賄うことができる。
この実験がまったくうまくいっていないことを示すしるしは、REDD+が比較的穏便なAD(森林減少の回避)からRED (森林減少からの温室効果ガス排出削減)、そしてREDD+、REDD++と膨らみ続けてきた過程に見られる。この間には、クランプ、テストチューブ、ゴムホース、ゴムバンドなどが山のように付け足されて、今や不安定きわまりない。まるで、ヒース・ロビンソン (米国の皆さんにはルーブ・ゴールドバーグの方がわかりやすいかもしれない)が描く奇妙な仕掛けの機械である。つまり、単純な作業をさせるために設計された非常に複雑な機械なのだ。これは全選挙民を取り込みながら、個々の大事な問題をすべて解決しようとした結果である。この目論見は永久機関の設計にそっくりだ。 目指すのはフリーエネルギーを生み出すことだけではなく、ツバメの卵を集めながら美味なオムレツも作ることも同時に実現したいのである。
永久機関の追求の根源にあるのは、「地球はとても慈悲深いので、私たちを無限エネルギーに導く裏口を用意してくれていて、それで世の中の心配事はすべて解消できる」という確信だ。REDD+ は同じユートピア思想に由来するもので、そこでは人間社会は至高の存在に理解してもらえると信じられている。ちなみに、この思想は詳細で断固とした計画にめっぽう弱い。
REDD+は巨大な計画機関で、「計画作業」を重ねれば重ねるほど良くなると信じている人々によって念入りに作られている。
これに信憑性を持たせるため、REDD+は、まるで現代の進歩性に対する同意こそが、実際の仕事を行う滑車やレバーのようなシステムから私たちの注意をそらすものであるかのように、この計画における市場局面を強調した。
しかし、パブの飲み仲間は惑わされない。REDD+は巨大な計画機関だ。それは「計画作業」を重ねれば重ねるほど良くなると信じている人々によって念入りに作られている。彼らは、自然のランドスケープが社会によってどのように形成されてきたかなど無視する。数千年の間には、侵略、植民地化、都市化、美化、商品化がわけもわからないまま、たたみかけるように起こり、自然のランドスケープは常に移り変わってきた。それでも、彼らは歴史をつまびらかにするという自然で内在的なプロセスを踏むことなど考えもせず、そんなことをしなくても、自分たちの機械があれば万事うまくいき、今後のランドスケープは思いのままになると考えている。
このような計画盲信は、私たち全員がゴールと手法に賛同していれば、十分にひどいことになるだろう。妄想だった、還元主義的だったと片付ければ、それですむのかもしれないが、少なくとも友人は全員で総倒れだ。
しかし、事実として、私たちは友人ではない。すべての大規模な開発プロジェクトは知らない誰かの手によるもので、その中には、森林地帯に暮らす貧しい人々にとって何が最善なのかについて、まったく相容れない考え方の人もいる。私たちは異なったゴールを持ち、それらをどのように達成するかについても、まったく違う意見を持っている。大規模な開発プロジェクトのゴールが滅多に達成されない理由のひとつはここにある。
私の飲み友達は、もしもまだ、ぶらぶらとビリヤード台に向かっていなければだが、私がREDDに多くを求めすぎだと言うかもしれない。私は「最善」を「善」の敵にしていないだろうか?(これはREDD会議で結構頻繁に耳にする決まり文句だ。) おそらく今回は超大規模な計画がうまくいくのだ。おそらくガバナンスの弱い国が奇跡的な進歩を遂げるのだ。平衡の采配を振る市場が冷静に効率よく資本を分配して、浮かれ気分も強欲のかけらも引き起こしたりはしないのだ。
わかった。では、これらの条件を受け入れよう。だから、エントロピーや摩擦がないことになっていても、永久機関の追求を続ける人を責めはしない。だが、CIFORの記事は「REDD+に欠陥があっても、環境保護に資金援助がまったくないよりはましなのか」と指摘していた。これがまさに私たちの分析の基本線だ。REDD+は本当に何もないよりはましなのだろうか?
私自身の考えでは、一瞬考えればわかることだと思うが、脆弱な人々の生命や生活が危険にさらされている時、欠陥計画は何もないより悪い結果をもたらすはずだ。それは資源を誤って分配し、本当の問題から目をそらさせ、そのオフセット・メカニズムはGHG排出量を削減するどころか、増加させるかもしれない。複雑で元々不確定な要素が多いために、高価な付随作業(計測、報告、検証)が必要になり、これがさらには取引コストを増加させ、森林地帯のコミュニティに暮らす人々の取り分は減って、彼ら自身の経済発展への投資など望めなくなる。
REDD+ に関しては、「取引コスト」とは、意図された受益者以外の人々が持っていった金を丁寧に表現した言葉である。
しかし、貧しい人々は去っていかないし、トップダウンの森林政策に対する社会的課題は、ステークホルダーの分析や安っぽい飾りのような「十分な情報に基づく事前の自発的同意」では、望んでも忘れ去られることはない。
森林植生の変化は社会的なプロセスで、国がこの変化を操作しようとするなら、貧しい人たちから始め、権利を導入し、強欲な投資家は遠ざけ、地方経済を築いて、大規模な開発プロセスの前に、ないがしろにされている辺境のコミュニティがいくつかの自衛手段を取れるようにしておくことが必要だ。
排出量管理に関する経験(例:カリフォルニアの窒素酸化物)については、ロバート・フランク氏が述べているように、「貧しい人々の利益に効率的に取り組まなければ、結局は その点で効率が悪いことになってしまう」ことがわかっている。森林植生の変化は社会的なプロセスで、国がこの変化を操作しようとするなら、貧しい人たちから始め、権利を導入し、強欲な投資家は遠ざけ、地方経済を築いて、大規模な開発プロセスの前に、ないがしろにされている辺境のコミュニティがいくつかの自衛手段を取り、ゲームにおける彼らの立場を主張できるようにしておくことが必要だ。
スウェーデンは20世紀初頭にこのことに気づき、ヨーロッパでも最も貧しい地方社会のひとつを最も豊かな社会のひとつに変え、その間に現存する森林の規模を2倍に増やした。
国によって戦略は異なるが、地域による自主管理と多様な地方経済を念頭に計画を進めるのであれば、それほど間違った方向にはいかないはずだ。もちろん、いつもうまくいくとは限らず、時には混乱もあり、場所によってはこれからもまだ森林被覆を失うことはあるだろう。しかし、それは開発に伴う自然なプロセスで、人間の規模で起こることだ。
ヴァルハラのCOP会議に出席していた巨人にとっては、あまり愉快ではないだろう。彼らは自分たちの大いなる叡智が活かせる他の問題を見つけなければならないかもしれない。
これで最後にすると約束するが、どうか、私たちの飲み友達の永久機関について考えていただきたい。その初期の例のひとつは1618年にロバート・フラッドが考案した「ねじ水車」だ。これは、産業化以前の時代に問題として広く認識されるようになったエネルギー不足に応えるものだった。当時は森林が主要なエネルギー源で、ヨーロッパの森林は急速にはぎ取られていた。もちろん、ねじ水車は役に立たなかった。
しかし、想像していただきたい。もし、17世紀の世界規模の委員会が、このような機械こそが貧困と森林伐採を解決する答えだと決定していたら、どうなっただろうか? セイヴァリやニューコメンなどのエンジニアは蒸気機関を発明する代わりに、不可能なものを追求して、無駄な日々を過ごすはめになっただろう。
産業革命など(そして環境団体がよく声を大にして言っている「良いこともまた」)起こらなくてもよかったのかもしれないが、そうすると、人間が繁栄を享受した特別な時代もなかったかもしれない。このように事実に反することを挙げて、あれこれ想像するのはパブではぴったりだ。
そう言っている間も私たちはまだREDDにつかまったままだが、もうすぐしらふに戻らなければならないだろう。
私たちは、REDD+がどのように機能しうるのかをお互いに証明することに熱中しすぎて、一体なぜ、それが果たして機能しうるのかを問うことをしていなかったのかもしれない。それが機能するのに必要な条件は非常に過酷で、そのために破らなければならない社会的、政治的、経済的規則は何があっても動かないものに見える。そうなると、この問題はやはり、ビールを片手に考えをめぐらす思考実験にとどめておくべきなのだろう。
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クリエイティブ・コモンズ 3.0のライセンスが適用されているこの論説は
REDD Monitor (REDDモニター)のご厚意により掲載しています。
筆者、ドミニク・エルソン氏による関連する論説については、
Program on Forests (PROFOR:プログラム・オン・フォレスツ)のビデオ、
Shifting to a people-centered model for investing in natural capital.
(住民中心の自然資本投資モデルへの移行)をご覧ください。
翻訳:株式会社ユニカルインターナショナル
「永久機関」に似ている壮大なREDD構想 by ドミニク・エルソン is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.
Based on a work at http://www.redd-monitor.org/2013/06/14/presenting-the-great-redd-perpetual-motion-machine-part-2/.