日本の海塩作りの伝統を守る

日本の文化の1つに海塩がある。何世紀にもわたって、塩の生産は日本各地で重要な活動として続いてきた。そして沿岸地域の人々は、命に欠かせないこのミネラルを海水から取り出す精巧な技術を開発してきた。

塩作りに関する最も古い記録の一例は、古事記と日本書紀という8世紀の史料に見られる。日本最古の神話と歴史をつづった書物だ。その記録によれば、天皇に献上する水を運んでいた船が老朽化してしまった際、船は濃い塩水を煮詰めるための薪にされて、作り出された塩は国々に与えられたとある。また塩作りの場面の断片は、朝廷の詩歌や能の舞台に登場する。典型的な描写としては、塩作りをする浜辺の寂寥感や孤立感を描いたものが多い。

文学の世界以外でも、塩の重要性は塩の道や塩に関連した地名、塩の神々が奉られた神社の存在に反映されている。塩は汚れを落とし清める物質として、様々な儀式的場面で用いられる。
塩の重要性は塩の道や塩に関連した地名、塩の神々が奉られた神社の存在に反映されている。

能登半島の塩作り

石川県の能登半島の浜辺には今日も職人による小規模な塩田が存在し、塩田は重要な海洋資源である塩の抽出と利用を通して人間社会と環境がともに進化してきたことを表わすシンボルでもある。

能登の塩作りの歴史は少なくとも5世紀までさかのぼる。当時は海水を煮詰めるために小さな陶器の壺が使われていた。その後、揚げ浜式として知られる新しい製塩法が8世紀頃に開発され、かつての手法は忘れ去られた。新しい製塩法は2段階で構成されていた。まず海から海水を運び、塩田にまき水分を蒸発させる。次に、濃くなった塩水を特殊な構造の釜で煮詰める。

技術の進歩により、もっと効率的で労力を節約できる製塩方法が日本の他の地方では導入されたが、能登半島では昔ながらの揚げ浜式製法が生き続けた。技術が廃れなかった理由は、この地域特有の自然環境の特性と社会経済的な要因という組み合わせの結果である。

能登半島の海岸は岩場が多く、潮の干満差が非常に小さい上、気候は高湿で日照時間が短い。こういった条件は、潮の自然な干満を利用して塩田に海水を引き込む新しい製塩法には適さなかった。

あまり好条件とは言えない自然環境にもかかわらず、江戸時代(1603~1868年)に地元を治めていた加賀藩の徴税政策は、能登半島が塩の生産地として独自性を確立するために重要な役割を担った。江戸時代、徴税制は米に基づいていたが、耕作に適した土地が能登には非常に少なかった。そこで加賀藩は塩手米制度を実施し、十分な土地がないために年貢米や日々の食糧に事欠く農民に一定の金利で米を貸し付け、農民は塩で返済した。

加賀藩は塩の取引を独占し、江戸幕府(封建制の軍事独裁政権)が制定した参勤交代制の一部として大名(地方領主)が当時の都である江戸(現在の東京)へ行く旅費の4分の1を、塩の販売による収入でまかなった。

塩手米制度のおかげで、製塩業は能登の沿岸に住む人々にとって最も重要な職業の1つになったが、同時に製塩に携わる人々を社会的に、あるいは地理的に拘束する要因にもなった。

したがって、かつて半島の海岸線沿いに列をなしていた塩田(1940年代の写真には、まだ写っている)の景観は、まさに“文化的ランドスケープ”だった。塩田は自然環境がもたらす特殊な制約や利点だけではなく、地元の人々の自然資源への依存と特権階級による支配を融合する、ユニークな社会経済的状況も反映していたのだ。

揚げ浜式製塩法の伝統の知恵

1868年、明治維新によって封建制が幕を閉じ、西洋の規範に影響された近代化の時代が始まった。社会や経済の全般的な再構築、藩による塩の専売制廃止、そして新たな政策と技術の導入によって、能登半島の伝統的な製塩業は急激な衰退をたどった。新たな雇用機会が異なる人生の選択を可能にした結果、それまで製塩業に携わっていた人々は他の産業に移り、塩田は能登のランドスケープから姿を消した。

製塩業の現代化政策(1958年、中央政府によって導入された)という新たな時代の波により、伝統的な製塩法が消滅の危機にさらされた時、石川県珠洲市の行政機関はこの伝統文化を継承し続けていた家族に資金を提供した。その後、塩作りを行なう家族は1件のみとなった。揚げ浜式製塩法はその文化的価値と観光資源としての価値が認められ、1992年には石川県の無形民俗文化財に、2008年には文化庁により重要無形民俗文化財に指定され、近年の伝統技術の復興を目指す新たな流れを推進した。

揚げ浜式製塩法の職人たちは、経験によって蓄積された、自然環境に関する豊かな伝統的知識の持ち主でもある。彼らの知識は陸と海の生態系を統合的に管理するという要素を含み、多面的でもある。

今日でも能登で行なわれている揚げ浜式製塩法は、過酷な労働や製塩に携わる人々の労働条件や社会条件といった塩田の負の一面を喚起させる。しかし、この製塩法を続ける価値とは、過去の復元にだけでなく、製法を消滅させないために不可欠な伝統的知識と技の伝承にもある。

第1に、伝統的知識には製塩に関連する建築的な景観や装置、製法が含まれる。使用される道具や資材は、何世紀もの間あまり変わっていない物が多いが、使い勝手や効率性を追求した結果、新しい物に取って代わった物もある。伝統の技術を駆使した道具作りや釜の製作に必要な職人の知識は、急速に失われつつある。

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Photo: Ryo Murakami.

さらに揚げ浜式製塩法の職人たちは、経験によって蓄積された、自然環境に関する豊かな伝統的知識の持ち主である。彼らの知識は陸と海の生態系を統合的に管理するという要素を含み、多面的でもある。職人たちは雲の形や潮の流れを見て天気を予測するという有名な能力を持ち、海洋の生態系や資源の状況や変化に関し経験に基づいた知識を有する。

職人たちは現在、工事現場から出る安価な廃材を燃料に用いることが多い。しかしかつての塩作りには、薪の供給を通じて内陸地域との密接なつながりがあった。職人たちは維持可能な薪の供給を確保するために、森林を所有し管理していたからだ。揚げ浜式製塩法における2段階の工程には、この内陸との相関関係が表われている。つまり、人力と自然の力を使って濃度の高い塩水を作り出してから煮詰めるため、薪の消費量を抑えられるのだ。

土地と資源の維持可能な利用という要素をランドスケープの視点から考えると、塩田は単に塩を生産する場所以上の存在である。資源の保全と利用への新しいアプローチ、例えば“里海”に寄与する可能性があるのだ。里海とは近年提起された概念で、沿岸地域の社会生態学的な生産ランドスケープを指し、生態系サービスのために管理されている地域のことだ。

このユニークな文化的ランドスケープ(それは日本の文化と歴史において塩がたどった複雑な道筋の一部として発展してきた)に関連する知識をどのように科学的知識と統合すれば、ランドスケープにおける自然の価値を維持し高める資源利用と管理のモデルを開発できるかが、今後の課題である。

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このビデオは「里山/里海の伝統的知識・知恵の伝承 ― 石川県の炭焼きと揚げ浜式塩田」の活動の一環として、石川県の協力のもと、国際連合大学のブランド・かおり氏によって製作されました。

翻訳:髙﨑文子

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日本の海塩作りの伝統を守る by ラウラ・ココラ is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

著者

ラウラ・ココラ氏は国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのプログラム・アソシエート。1998年から日本を活動拠点とし、上智大学でグローバル・スタディーズの修士号を修得。ココラ氏の関心領域は、社会・経済の維持可能な発展における社会の文化・環境的側面と、それらが担う役割の相互作用。