トルド・チェルシュトレーム
客員教授国連大学グローバルヘルス研究所(マレーシア、クアラルンプール)客員教授である。また、ルンド大学プーフェンドルフ研究所(スウェーデン、ルンド)客員研究員、オーストラリア国立大学国立疫学公衆衛生センター(オーストラリア、キャンベラ)客員フェロー、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、グローバルヘルス研究所(英国ロンドン)名誉教授でもある。
2014年9月16日、「New Climate Economy(ニュー・クライメイト・エコノミー)」の報告書が発表され、注目を集めた。この報告書の主旨は、「環境に優しいエネルギー生産、輸送、および産業開発」への投資は、排出対策を講じない場合(BAU)のインフラ支出に比べると資本コストが若干高くなるが、その大部分はエネルギー供給所要量の低下分によって相殺されるというものである。このような転換は人間の福祉にさらに大きな恩恵をもたらすとともに自然環境の維持にも貢献するものであると、同報告書は主張する。
この新たな、気候変動に対する具体的行動を取るための経済的理由は、気候変動による高温化に関連した労働生産性の低下がもたらす数十億米ドル相当の損失を考慮することによってさらに強固なものとなる。分析においては、労働時に環境熱にさらされるすべての人間の生理的限界を考慮する必要がある。これらの限界については、公衆衛生分野の科学文献の中では何年も前から論じられてきたが、その気候変動との関連性が保健科学者や経済学者の関心を集め始めたのはつい最近のことである。
国連大学グローバルヘルス研究所(UNU-IIGH)と国連大学環境・人間の安全保障研究所(UNU-EHS)は、気候変動が健康と人間の安全保障にもたらす影響のさまざまな側面について、研究や世界的な分析を行っている。コミュニティや国の経済パフォーマンスとの関連性はますます顕著になりつつある。その結果、気候変動の緩和と適応を目指す強力な世界的・国家的政策を求める根拠がさらに強まってきている。
「地球温暖化」が実際に起こっており、世界の多くの高温地域では気温があまりにも高いために生活が困難になりつつあるということが、今では事実として立証されている。例えばシンガポールでは、日陰での暑さ指数(WBGT)が酷暑を超える(WBGT > 29℃)日の年間日数が、1980年の10日から2011年には70日にまで増加している(チェルシュトレーム他著、2013年)。
職場の暑さ、経済パフォーマンス、持続可能な開発の間には明確な関連性がある。一定の熱暴露レベルを超える(湿度により左右されるが、気温30~40℃超)と、時間当たりの作業能力が低下する。そのような高温状態は暑気において、多くの熱帯・亜熱帯国だけでなく、米国南部、南欧、オーストラリアでもすでによく見られるようになっている。その結果として、作業能力が下がり、労働生産性は低下し、経済生産の損失が生じる。
この問題は2000年以降、学術会議の場でたびたび取り上げられてきたが、私が共著者とともに高温化による作業能力の低下について初の世界的分析を発表したのは2009年のことであった。この研究の中で私たちは、世界の21地域における完全稼働作業日の年間平均日数の減少分を合計すると、「基準年」である1975年から労働力配分(農業、工業、サービス業の割合)が変わらないと仮定した場合、2050年までに最も気候変動の影響の大きい地域で18パーセントの損失がもたらされると推定した。2050年までの予想される労働力の変動を考慮すると、作業日数の減少は通常、0.2パーセントから4パーセントまでの範囲内となることがわかった。これらの地域別推定値は、後に労働生産性損失の初の経済影響分析において使用された。
他にも2つの報告書(ソロモン・M・シアンおよびジョン・P・ダン他著)が、気候変動の経済的影響の一要因として労働生産性損失の問題を取り上げているが、それらの報告書では経済的影響の実際の計算過程が示されていない。それぞれの分析は異なる手法で影響評価を行っており、発生する損失についての結論をさらに強固なものとしている。
屋外作業は、太陽放射の熱負荷を余分に受ける(写真をご覧ください)ため、高温な気候条件からとくに大きな影響を被るが、熱帯国の工場や作業場の多くは効率的な冷房設備を備えていないため、数百万人の屋内作業者も影響を免れない。そのような職場での想定される熱ストレスと影響については、いくつかの報告書が発表されている(チェルシュトレーム他著、2014年)。これらの事例は、毎年最も暑い季節に何百万人もの労働者が熱にさらされている状況を示している。
UNU-EHSの報告書「Pushed to the Limit(限界に達して)」、ならびにUNU-IIGHとHothapsプログラムの間で進められている協力によって、気候変動を背景として環境熱が日常生活、公衆衛生、労働生産性、経済パフォーマンス、および人間の安全保障に及ぼす影響についての証拠が明らかになりつつある。(Hothaps=High Occupational Temperature Health and Productivity Suppression:労働環境の高温化による健康と生産性の抑制)
さまざまな国の職場における過度の高温がもたらす経済コストの量的推計を初めて行ったのは、「Climate Vulnerability Monitor 2012(気候脆弱性モニター2012)」報告書である。同報告書では、高温化によりもたらされる労働生産性損失のコストが、2030年には世界全体でおよそ2兆米ドルに達するだろうと結論付けている。多くの国は最大で年間GDPの数パーセントを失う可能性があり、その損失額は数十億ドルに上る。この報告書の根拠となる能力損失分析に関する最新情報が間もなく公表される(チェルシュトレーム他、近日中に発表)。この研究では、世界全体を網羅した詳細な地域メッシュ分析を用いて、21の地域における高温化に関連した損失を算出している。最も大きな影響を被るであろう10地域を図に示す。
例えば、インド(南アジアの最大国)における昼間の労働時間の年間損失は、2050年に1975年比で5パーセント増加すると思われる(図をご覧ください)。「生産的労働時間」の年間損失と同じ割合で各国の年間GDPも減少するならば、かなりの損失が予想される。プライスウォーターハウスクーパースの推定によると、2050年のインドのGDPは21兆米ドルとなる。1975年以降の気候変動がなかったならば、同国のGDPはこの予想額を5パーセント(1兆米ドル)上回っていたはずである。同様に、他の多くの新興経済国にとっても損失は非常に大きなものとなるだろう。
これらの経済生産が気候変動によって失われずに済むならば、保健、教育、エネルギー供給、輸送などへの主要な地域社会投資がより提供しやすいものとなるだろう。労働生産性の損失は毎年生じるため、数十年後の累積経済損失は、多くの低・中所得国における貧困削減や経済発展に大きな影響を与えることとなる。
最近発表された報告書「American Climate Prospectus(米国気候展望)」は、労働生産性に個別の章を割いた初めての大規模な分析である。同報告書は「時間使用研究」に基づいて分析を行い、2050年と2090年の米国における高温化に関連した労働生産性損失は、気候変動がもたらす最大の実質的経済コストとなり、2050年にはGDPの約0.2パーセントに達すると結論付けた。高温化に関連した死亡コストはさらに大きなものになると思われるが、これらの推定値はすべての年齢層の「統計的生命価値」に基づいているため、国家経済と直接関連しない。2050年の米国のGDPは推定38兆米ドルであるため、コストがその0.2パーセントにあたるとすると、年間760億米ドルとなる。この値は、「Cliamte Vulnerability Monitor 2012(気候脆弱性モニター2012)」報告書で算出された2030年の米国の推定値350億米ドルと概ね合致する。
この推定値には、屋外での重労働から日陰や屋内でのより軽い労働への労働力のシフトが織り込まれている。こうした労働力の変動は気候変動の影響の地域別推定値を押し下げ、これが一因となって2030年と2050年の間でパターンの変化が生じている。いずれにせよ、生産的な昼間の労働時間の地域的損失と同じように各国のGDPが低下すれば、各国のGDPの実質的損失は何十億米ドルに上ると推定される。
先日発表されたニュー・クライメイト・エコノミーの報告書には、これらのコストが織り込まれていない。最初に指摘した通り、これらのコストを考慮することによって、気候変動緩和のための緊急的な政策や行動を求める経済的理由はさらに強まる。
9月23日に開催される国連事務総長の気候サミット2014において、国連大学は「The Economic Case for Climate Action(気候変動に対する具体的行動を取るための経済的理由)」に関するテーマ別セッションを主催する。このセッションでは、以下のようないくつかの重要な課題について、新しいアイデアの出現を奨励、促進する。
気候変動の経済的影響に関する分析や議論においては、「損失と被害」、ならびに気候変動の脅威への対処法について検討しなければならないということを強調しておく必要がある。多くの低・中所得国は、現在進行中の世界的な気候変動の原因に自分たちはほとんど関与していないにもかかわらず、その悪影響の主な被害者となるだろうと考えている。例えば、低・中所得国20カ国で構成される組織「Climate Vulnerable Forum(気候変動に脆弱性を持つ諸国会議)」は、この問題に関する分析とキャンペーンを進めている。
ココ・ワーナー他が主張するようにこのテーマは、人間の安全保障と人権にかかわる重要な問題であり、これまで温室効果ガスのほとんどを排出してきた国々には自国の排出量を削減する特別な義務があるという議論はもっともである。最近の報告書の中で示された気候変動緩和を求める新たな経済的理由もこうした結論を支持している。それでも依然として、熱帯および亜熱帯の低・中所得国で以下のような行動の可能性を検討する必要がある。
レジリエンス構築には、水と衛生、電力供給など、保健サービスやインフラの改善が含まれる。気候変動によって感染症やベクター媒介病が増加することが予想されるが、その多くは既知の公衆衛生行動によって予防可能である。特定の気候適応措置も同じように有益な結果をもたらす場合があり、現在行われている健康増進のための政策や行動(都市部における公共輸送機関や自転車の利用拡大など)の多くは、気候変動の面でもメリットを生んでいるということに留意すべきである。つまり、1つの行動が健康増進とともに温室効果ガスの排出削減にも役立っているのである。
最後に、このテーマに関する今後の研究や分析では、気候変動の進行過程のどの段階において、レジリエンス構築と適応だけでは間に合わなくなってしまうのかということを考える必要がある。つまり、緩和こそが大きなコミュニティを守る唯一の方法なのである。今すぐに行動を起こさなければ、何百万もの人々が「限界を超えて」しまう可能性があり、彼らのコミュニティや国は経済面で、またその他のさまざまな面で苦難に直面することとなる。最近行われた経済分析は気候変動を防止することで大きなメリットが得られるということを示しており、労働生産性の損失をこれに加味するならば、予想されるメリットはなおいっそう大きなものとなる。
翻訳:日本コンベンションサービス
(注:本編のオリジナル記事は、9月23日に国連大学英語版ウェブサイトに掲載されました)
気候変動の経済分析において見逃される生産性損失 by トルド・チェルシュトレーム is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial 4.0 International License.