ラムサール条約の新たな局面

1964年7月17日、ドナルド・キャンベル氏が時速649キロで砂漠のような光景の中を駆け抜けて陸上最速記録を達成した時、彼はおそらく特別仕様のブルーバード・プロテウスCN7から塩を多く含んだ地面に降り立ち、乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んだであろう。

その瞬間には多くの事柄が彼の心に去来したと思われるが、それでも湿地帯のことはまず思いつかなかったはずだ。まさにその瞬間、自分がその1つの上に立っているのだと知ったら驚いたにちがいない。陸上最速記録が打ち立てられたその場所が、いつの日か塩類湖底として国際的に重要な湿地に含まれるなど考えられるだろうか? ありえないように思われるが、オーストラリアのエーア湖盆地は記録も規則も破ったようである。

だが、見方を変えれば、国際的に重要な湿地に関する条約 (ラムサール条約)はいつも少し違っていた。国際的な条約は往々にして大国の行動が発端となるものだが、ラムサール条約は3つのNGO、すなわち国際自然保護連合、国際水禽・湿地調査局(現在は国際湿地保全連合)、国際鳥類保護会議(現在はバードライフ・インターナショナル)の熱意あふれる対話から生まれたのである。1962年、フランスのカマルグ地方でこれらのNGOが会議を行い、世界的な湿地の減少とそれに伴って水鳥に及ぶ脅威に対処するために国際条約の創設を求めた。その後、8回の実務協議が重ねられ、1971年、18ヵ国がイランのラムサールで条約を締結したのである。

今日、ラムサール条約の締約国は160ヵ国にのぼり、同条約が昨年40周年を迎えたことからも、グローバル社会で継続的に影響力を発揮していることは明らかだ。現在では全世界で2000カ所以上の湿地が登録されており、総面積は190万平方キロメートルを超える。

条約国、登録湿地、活動ともに増加

条約の核をなすのは、「全世界における持続可能な開発の達成に寄与するために」湿地の保全と賢明な利用を促進するという条約の使命である。湿地保護区の設立には特に重点が置かれており、新規締約国は加盟に際して、ラムサール条約登録湿地リストに含める湿地を少なくとも1カ所指定することが求められる。

しかし、41年もの時を経ると変わるものも少なくはなく、ラムサール条約も例外ではない。条文が水鳥とその生息環境に重点を置いているものだけに、この条約はもっぱら鳥類に適用されると信じている人々もいる。しかし、歳月と共に条約は進化し、活動の幅も広がってきた。

重大な変化が始まったのは1990年代の半ばで、ラムサール条約第6回締約国会議がオーストラリアのブリスベンで開催された折に、条約の重点は水鳥のための湿地管理だけではなくなった。

コスタリカのサンホセで開催された第7回締約国会議では、河川流域の包括的管理や水質環境基準の向上といった事柄に、より重点が置かれるようになった。2002年、スペインで 第8回締約国会議が開催されるまでには、水資源の分配、気候変動と湿地、沿岸地域の包括的管理、湿地の文化的価値などの一連の新たな問題が、ラムサール条約の下で浮上してきた。

「鳥類のための湿地」から「人々のための水」へ

ラムサール条約締約国が扱う問題がこのように拡大したのは、人間およびコミュニティーと周囲の湿地の健全性の間の密接な結びつきについて理解が深まった証拠であろう。湿地が提供する生態系サービスは、古代から人間の文明を形成してきた。

今日、水は最も重要な環境問題の1つで、それに加えて、世界的に人口が増加し、また気候変動の影響により、天候パターンがますます予測不可能で厳しいものになると予想されていることから、その重要性は増すばかりである。

実際、湿地に対する社会的需要(飲料水、食料、交通、水力発電などの源泉として)は増加しており、ラムサール条約締約国が水鳥の生息地に焦点を限定したいと望んだとしても、これらの生態系を囲むコミュニティーとその基本的なニーズを無視することは現実的に不可能であろう。つまり、ラムサール条約が対象の幅を広げ、これらの問題をより全体的な意味で捉えるようになったのは、道理にかなっていることで、また都合も良かったのだと思われる。

同時に、ラムサール条約登録湿地リストに新たに含まれる湿地の種類も広がってきた。かつては、新たに登録される湿地は渡り鳥に必要な場所がほとんどだった。その例としては、オーストラリアのコーバーグ半島、カナダのノースウエスト準州のデューイー・ソーパー渡り鳥保護区、南アフリカのデ・ホープ・ブライ、ヨルダンのアルザック・オアシス、イランのデルタ地帯であるルド・エ・ギャズとルド・エ・ハラなどが挙げられる。

しかし今日では、より幅広い基準による指定が普通になっている。もっとも、スペインのコンプレホ・ラグーナ・デ・ラ・アルブエラやオーストラリアのタスマニア州にあるモールティング・ラグーンなど、文化的重要性に基づく指定には残念ながら時間がかかった。いずれにしても、このように対象が拡大したのは、湿地の「賢明な利用」が水問題と人間の安全保障の要であるという認識が浸透してきたことを反映している。

あふれる善意

しかし、ラムサール条約の役割が増えてきたことについては、締約国の会議内でも批判があった。意見が分かれたのは、取り組むようになった問題の重要性ではなく、ラムサール条約がそもそも、このような問題に目を向けるべきなのかという点だった。しかし、長い歴史を経て、登録湿地数は膨大になり、160ヵ国が参加している今となっては、積極的に支持する声がはるかに強かった。

しかし、このような見解の不一致は、今日のグローバルコミュニティーで深刻化するパラドクスを示している。国際情勢として、条約をはじめとする機構の数は増え続け、同じような目標に向かって活動しているが、断片化が進みすぎた一方で、重複する部分も多いことがしばしば協調を妨げ、結果として活力に欠ける組織風土を作り出している。よく知られたことわざで言えば「船頭多くして、船山に上る」状態である。

しかし、このような課題に直面すると、ラムサール条約が当初、いくつかのNGOの尽力から生まれたというのは頼もしいかぎりだ。多様な組織の間で世界規模の活動を効果的に調整する努力において、ラムサール条約は創設時の協調の精神を活かすことができる。ただし、今後に目を向けると、そのような問題が、今月の国連持続可能な開発会議(リオ+20)のような主要な会議で議論の中心となることが重要だ。

的確な定義に向けての試行錯誤

再び1964年、ドナルド・キャンベル氏がオーストラリアのエーア湖の乾ききった湖底を疾走し、陸上最速記録を打ち立てた話に戻ろう。エーア湖はエーア湖盆地の中心にあり、オーストラリアで最も低い地点だ。内陸湖である同湖は、盆地北東部からの河川流入と雨期の影響で(これらはラニーニャ現象が生じる年にとりわけ顕著である)季節によって水量が増し、その後、再び蒸発によって干上がる。もっとも、乾季であっても通常は、より小規模な多数の内陸湖から流入があるために、多少の水は残っている。

南オーストラリアのエーア湖は、エーア湖盆地における排水の最終地点であり、世界最大の内陸排水システムの1つである。写真:ゴダード宇宙飛行センターのランドサットチームとオーストラリア地上データ受信ステーションチーム。(出所:NASA)

南オーストラリアのエーア湖は、エーア湖盆地における排水の最終地点であり、世界最大の内陸排水システムの1つである。写真:ゴダード宇宙飛行センターのランドサットチームとオーストラリア地上データ受信ステーションチーム。(出所:NASA


エーア湖の水かさが増え始めると、実に素晴らしい光景が繰り広げられる。増水した川からは魚やブラインシュリンプ(エビに似た小型甲殻類で、長期間、保存可能な休眠卵を産む)が水と共に流れ込み、その個体数が急激に増加すると、多くの水鳥がオーストラリア大陸の両側から惹き付けられるようにやってきて、餌を食べ、卵をかえす。さまざまな鳥類が一カ所に集まるために、通常は互いに隔てられている個体間で遺伝的混合が起こる機会はきわめて高くなる。しかし、大抵は数ヶ月から1年までの間に、湖はまた荒涼とした姿に戻るのである。

それでは、これは湿地なのだろうか? このような疑問を投げかけると、ドナルド・キャンベル氏は笑うだろうが、湖に水が満ち、鳥類が訪れる稀なる機会を目にする幸運に恵まれた人はどうだろうか? 湿地の長さ、幅、深さを定義すること自体は比較的単純かもしれないが、時期によって性質が変わる場合はどのように扱えばよいだろうか?国際的な場面では、「測定できないものは管理できない」という呪文のような決まり文句がまかり通っている。ほとんどの時は干上がっていて、その次に潤うのはいつなのか予測がつかないというなら、湿地の効果的な管理はできないという理屈になるのだろうか?

それでも、それが(湿地であろうとなかろうと)重要な場所であるという事実は変わらない。生態学的な価値に加えて、先住民であるアボリジニーにとっては重大な文化的価値を持つ。そして1987年、上流水系であるクーパー・クリーク、そして氾濫原の中でもクーンジー湖として知られる箇所が国際的に重要な湿地に登録されたことも合わせて考えれば、おそらく全水系が登録されてもおかしくはない。

ラムサール条約は、新たな40年に入るにあたり、これまでになかった課題に直面している。その中でも特に重要なことは、明快な定義を行う時期と場所を知ること、そして靴の紐を結び、オフィスを出て、話すのをやめて、条約の文言を行動に移す時期を知ることだ。

翻訳:ユニカルインターナショナル

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ラムサール条約の新たな局面 by ピーター・ブリッジウォーター and ロバート・ブラジアック is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

著者

ピーター・ブリッジウォーター博士は国連大学高等研究所の客員教授で英国共同自然保護委員会の現委員長である。これまで、ラムサール条約事務局長、ユネスコ生態科学部長、オーストラリア自然保護庁長官を歴任している。

ロバート・ブラジアック氏は、東京大学大学院農学生命科学研究科のリサーチ・フェローで、持続可能な漁業の管理における国際協力の可能性について研究している。現在、国連大学サステイナビリティ高等研究所(UNU-IAS)のFUKUSHIMAグローバルコミュニケーション事業に関わっており、また以前は同大学のSATOYAMAイニシアティブにも取り組んでいた。