祖父の戦争、世界的疫病、大恐慌についての覚書

2014年09月05日 ブレンダン・バレット ロイヤルメルボルン工科大学

多くの読者はこの記事のタイトルを見て、恐らく読む気を失うだろうということは、私は承知している。ここまで読んでくださった数少ない読者は、よくある悲観的な記事なのではないかと心配になっているに違いない。極めて厄介なこの時代には、華々しい最先端の機器や、街ではやりの事柄や、ダイエットや、急に思い立った夏休みの行き先に関する記事を読みたいという読者の気持ちも、私には理解できる。そうした記事もどうぞ自由に読んでいただきたいのだが、この記事は悲観主義者の暴言ではないのでご安心ください。

多くの環境活動家(そう、私は自分をその1人だと考えている)が地球の未来について相手に考えてもらおうとする時、孫たちに何を残すことになるのかについて語る。例えば、デヴィッド・スズキ氏の『Letters to My Grandchildren(孫たちに送る手紙)』やジェイムズ・ハンセン氏の『Storms of My Grandchildren(地球温暖化との闘い-すべては未来の子どもたちのために)』といった書籍がある。どちらも重要で魅力的な本だ。しかし、本稿で私は真逆のことをやるつもりである。

この記事は、私の祖父(母方の祖父)、ジョン・ジェイムズ・ハリソンに宛てた手紙として考えていただきたい。祖父の人生や彼が生き抜いた時代は、世界の未来や私たちが予測しておくべき事柄について貴重な洞察を与えてくれると思う。この記事が伝えるのは、いかに歴史が繰り返すのかということでも、ましてやマーク・トウェインが示唆したように、いかに歴史が韻を踏むのかということでもない。むしろ、過去に例を見ない難問に直面した時の個人の柔軟な強さや、自発的な奉仕に関する問題を取り上げる。

残念ながら私は祖父に会ったことはなく、正直なところ、今年になるまで祖父のことはほとんど何も知らなかった。祖父は私が生まれる前に亡くなっている。非常に多くいる私の親戚のもとには祖父の写真が数多くあるはずだが、私の手元にあるのは2枚だけだ。1枚は祖父の妹の結婚式での写真で、もう1枚は軍服姿の祖父の写真で、顔と胸しか写されていない。

祖父が兵士だったと母から聞いたことを思い出したのは、今年上旬、第1次世界大戦の開戦100周年を記念した講演の準備をしている時だった。そして私は祖父に関する情報をインターネットで探し始めた。偶然にも、親戚の1人が祖父の情報集めを調査員に依頼しており、運よく祖父の従軍記録を手に入れることができた。あえて運よくと書いたのは、第1次世界大戦の人事記録の60%は1940年の火事で焼失し、残存した記録は「Burnt Documents(焼けた文書)」と呼ばれているからだ。すばらしいことに、こうした記録はすべてデジタル化され、オンラインで入手可能だ。結果的に、私たちは祖父の軍歴記録、軍務記録、死傷届を手に入れた。

では、何が分かったか?

まず、本稿のタイトルになぜ複数形の「wars(戦争)」が含まれているのか、読者は不思議に思われているかもしれない。その答えは次のような事情による。1900年5月、19歳だった祖父はウエスト・ライディング連隊(ライディングとは旧ヨークシャー州の行政地区のことだ)に入隊し、第2次ボーア戦争で戦った。ご存じない読者のために説明すると、ボーア戦争はアメリカのベトナム戦争のイギリス版のようなものだった。1902年に戦争は終結したが、祖父は1906年4月まで連隊に残った。

1914年8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した時、祖父は34歳で、れんが職人として雇われていた。記録によると、1914年9月17日、祖父はヨーク(祖父の故郷)でウエスト・ヨークシャー連隊の第10大隊に志願した。この連隊の歴史はオンラインで完全版を見ることができるが、本稿では、いくつかの特別な出来事を皆さんと共有したい。

第10大隊は訓練を終えると、戦争に動員され、1915年7月14日、フランスのブローニュに上陸した。祖父はこの任務で1917年1月23日までフランスに駐留した。第10大隊は数々の戦闘で戦ったが、恐らく最も悲惨だったのはソンムの戦いだ。

私は連隊に関する公式記録を『The West Yorkshire Regiment in the War(戦時のウエスト・ヨークシャー大隊)』という書籍で読んだ。そこには、1916年7月1日の出来事が記されている。午前7時30分、第10大隊は塹壕(ざんごう)を乗り越え、緩衝地帯を横断し、フリクール村のドイツ戦列を襲撃した。大隊は4隊列に分かれて襲撃し、2隊列は敵を突破したが、残りの2隊列は失敗した。死傷者数は多く、そのほとんどが機関銃の発射によるものだった。将校22人、その他の階級750人が負傷あるいは死亡した。陣地は奪えず、大隊はVille(ヴィル)まで撤退させられた。

その戦地に身を置き、その体験を生き抜くことがどんなものだったのか、私は想像もできない。祖父に何が起き、彼がどう戦ったのかについても知ることは不可能だ。しかし、ソンムの戦いの初日が終わった時点で、イギリス軍は6万人近くの死傷者を出し、そのうち2万人は死亡した。その日に戦った大隊としては、ウエスト・ヨークシャー連隊の第10大隊の死傷者数が最も多かったと考えられている

インフルエンザの攻撃、運よく再び脱出、そして負傷

前線の状況は悲惨だった。死傷届によると、祖父はインフルエンザにかかり、1917年1月13日、 ルーアンに設営された第1オーストラリア総合病院に収容された。思い出していただきたいのだが、当時は抗生物質の登場以前であり、インフルエンザに関する医学的知識は限られていた。そうした状況下では、インフルエンザは死に至ることもあり、患者は深刻な呼吸器疾患に苦しみ、場合によっては大量の肺出血も生じた。

結果的に、祖父は病院船のグレナート・キャッスル号で1917年1月21日にイギリスへ戻されたと記録に残っている。祖父は同年後半までイギリス祖国で回復を待ち(それほど病状が深刻だったのかもしれない)、1917年9月14日に再びフランスへ配置された。

つまり、ドイツ軍が1918年3月21日に春季攻勢を開始した時、祖父は再び第10大隊にいたということだ。この日の攻勢はドイツ軍にとって、開戦以来最大の前進であり、アメリカ軍が完全配備する前に連合国軍を打ち破ろうとする最後の試みだった。

3月25日までに、第10大隊で生き残った者たちはEaucourt l’Abbaye(オークール・ラベイ)東部を防衛していた。彼らは2中隊のわずか150人の兵士で、他の150人の兵士とともに第50旅団として戦っていた。同日の午前10時、ドイツ軍は第10大隊の陣地を大量の機関銃を使って攻撃した。最初の攻撃は撃退されたが、午前11時30分頃、大隊の左方前線が突破され、その時点でほぼ包囲されていた全隊は撤退を余儀なくされた。死傷者数は多く、また多数が捕虜となった。ところがこの時も、運よく生き残った人々の中に私の祖父が含まれていた。

1918年4月には、ドイツ軍による突破の恐れはすでになく、同年8月、連合国軍は逆襲を開始した。第10大隊は8月23日にアンクル川を超える際に交戦し、8月24日の早朝、敵陣を攻撃した結果、ドイツ軍将校7人と他の階級の兵士240人、および機関銃18丁を確保した。

第10大隊は8月25~26日には直接的に交戦していなかったが、8月27日のかなり早朝、フレールの西にある丘の上でドイツ軍の防衛に出くわした。第1の塹壕は問題なく奪えたが、第2の塹壕を奪う戦闘はさらに激しく、午前7時30分まで続き、敵の反撃によって陣地を維持することができなくなり、大隊は撤退せざるを得なかった。この間、総計で140人のドイツ人捕虜と14丁の機関銃が確保された。この時点で、連合国軍が戦争を勝利しつつあることは明らかだった。

祖父が左手首を負傷したのは、こうした軍事行動の間だった。軍歴記録によると、祖父は1918年9月1日にイギリスへ帰還させられている。この時、祖父にとっては戦争が終わったのだ。

戦争の終結、流行病の始まり

ウエスト・ヨークシャー連隊の第10大隊に所属していた祖父やその他の兵士たちが動員解除されたのは、1919年4月1日である。祖父の人事記録に押されたスタンプによると、当時の祖父は肉体的に入隊不適格であり、負傷による障害度は40%であることが示唆されている。祖父が軍務に就いた合計時間の計算も掲載されており、4年197日間であることが示されている。

第1次世界大戦に従軍した数百万人のイギリス兵と同様に、祖父の記録にはBronze Star Medal 1914-15(1914~1915年ブロンズスター・メダル)、British War Medal(英国戦争記念メダル)、Victory Medal(戦勝記念メダル)を授与されたことを証明する3つのスタンプがある。祖父はSilver War Badge(シルバー戦争記章)も授与された。この記章は病気や負傷によって除隊した兵士に送られたもので、「王と帝国のために ― 功労をなす」と刻まれている。受章者はこの記章を民間人の服装で右胸に着けることになっていた。

戦勝記念メダルの銘刻はとても印象的である。メダルには「文明のための大戦1914年~1919年」と刻まれている。第1次世界大戦は、すべての戦争を終わらせるための戦争であり、文明の未来のための戦争だった。それは欧州列強の帝国の終末の始まりであり、軍人と民間人を合わせて世界で3700万人の死傷者を生む結果となった(兵士たちは世界各地からやって来て、戦い、塹壕で死んでいった。例えばインド出身の100万人の兵士は第1次世界大戦で戦い、6万2000人が命を落とした)。

あまり知られていないのが終戦時の衝撃的な状況に関する事実だ。1918年1月から1920年12月までの期間、スペイン風邪が世界的に大流行し、5億人がかかり、5000万人から1億人が亡くなった。

研究によると、この疫病が最初に発生したのは、1918年、フランスの大規模な軍隊中間準備地域と病院キャンプだったとされているが、それよりも早く、1917年の春に発生したとする説もある。もしかしたら、祖父は1917年にインフルエンザにかかっていたために免疫を得たのかもしれない。最終的に、実際の戦争中に亡くなった人よりも、この疫病の結果として亡くなった人の方が多かったことは、悲しい現実である。

大恐慌

話題を祖父のメダルに戻すが、私たち家族の手元にはもうない。メダルについて母に尋ねたところ、どこにあるのか分からず、質に入れられたのかもしれない(借金の担保として手放した)と言っていた。なぜメダルを質に入れたのだろうか?

戦後の時代、軍人恩給があったにせよ、明らかに生活は楽ではなかった。終戦から10年後の1929年10月29日、アメリカの株式市場が暴落し、世界は大恐慌へ追い込まれた。大恐慌は1930年代終盤まで続き、一部の国では失業率が33%にまで上昇した。

私が想像するには、当時、ヨークシャーで仕事が少なく、祖父が子どもたちに何かを買わなくてはならなかった場合、メダルを利用してお金を借りる他に選択肢はほとんどなく、お金をためていつかメダルを取り戻そうと願っていたと思う。

祖父は1937年に亡くなった。当時、世界はまだ大恐慌から復興している最中であり、もう1つの世界的紛争に向かって再びゆっくりと進みつつある時だった。祖父が子どもたちに、自分が兵士だったことや、自分が体験したことについての感想を話したことがあるのかどうか、私は知らない。第1次世界大戦後に生まれた私の母に祖父との思い出を尋ねた。母は祖父のことを背が高く、ハンサムで、美しい歌声を持った人物として記憶している。また、左手首にサポーターを着けていたと話す。母は、祖父の戦争に関する記録や文書が家にあったのかもしれないが、1970年に祖母が亡くなった時にすべて紛失したと言う。

できることなら、私は祖父ジョン・ジェームズ・ハリソンのことをもっと知りたいし、彼の写真を捜し出したいと思っている。祖父のメダルを見つけることができれば、なおのことうれしい(祖父の認識番号は10114だ)!

長期の緊急事態を生き抜く

最後に、ジェームズ・ハワード・クンスラー氏の著作『The Long Emergency(長期の緊急事態)』に関する私の記事を、読者はOur Worldでお読みになったことがあるかもしれない。著作の中でクンスラー氏は世界の石油生産のピークがもたらす結果や、それと同時に起こる気候変動、再び増える病気、水不足、世界的な経済不安、戦争の影響が未来の世代にとって重大な問題の原因となることを考察している。

祖父の話をご紹介した今、私はクンスラー氏の予測に無理があるとは思えない。それとよく似た状況を、私の祖父のような人々が過去にどう生き抜いたのかがわかる。確かに状況は大きく変化し、エネルギーや気候や水の問題は、考えるべき新たな諸要素であることは事実だ。しかし戦争、病気の大流行、世界的な経済の安定は、新たな問題要素ではない。

祖父の人生が私に教えてくれるのは、人は柔軟な強さを持ち、最も絶望的な時代にさえ、乗り越える方法を見いだせるということだ。また、人は自分にとって大切なもののためには戦いもいとわないということも分かる。第1次世界大戦の時、人々は統治者、国、帝国、あるいは文明のために戦った。第2次世界大戦では、よりイデオロギー色の強い戦いのようだった。つまりファシズムと共産主義と民主主義の戦いだった。そして、今日の戦いの根拠は相変わらず複雑であり、平和を維持するという課題はとてつもなく大きい。

祖父の人生と比べれば、私は安楽な人生を送っており、私の日々の試練や苦労はささいなものに見えるかもしれない。しかも、世界の多くの地域(ガザ、シリア、イラク、ウクライナなど)の人々が今でも直面する苦しみとは比べものにならない。しかし私が認識しているのは、私たちの誰もが現在、クンスラー氏が説く長期的な緊急事態の初期段階を生きているということだ(これが真実であることを知るには、今日のニュースを見さえすればよい)。

厳しい未来が待っている。結果として世界は大きく変化するだろう。そうした変化が、より多くの戦争とさらに多くの苦しみによってもたらされるのではないことを私は心から願う。むしろ、私たちが進んであらゆる事柄を根本的に考え直し、作り直し、そのうえで今すぐ行動を起こせば、平和で公平で生態学的に持続可能な世界を実現できると信じたい。

そうすれば、私たちはこの転換をやり遂げて(しかも、その犠牲にならず)、20世紀と21世紀に犯した犠牲の大きい過ちをどうにかして繰り返さずに済むだろう。それこそが、私の祖父が自らの意志で支えようとした何かなのだと考えたい。

翻訳:髙﨑文子

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著者

ブレンダン・バレット

ロイヤルメルボルン工科大学

ブレンダン・バレットは、東京にある国連大学サステイナビリティ高等研究所の客員研究員であり、ロイヤルメルボルン工科大学 (RMIT) の特別研究員である。民間部門、大学・研究機関、国際機関での職歴がある。ウェブと情報テクノロジーを駆使し、環境と人間安全保障の問題に関する情報伝達や講義、また研究をおこなっている。RMITに加わる前は、国連機関である国連環境計画と国連大学で、約20年にわたり勤務した。