里海について人と海とのつながり

2010年08月06日 松田 治 広島大学

瀬戸内海は海洋の生物多様性と地域住民の生活を長らく支え続けてきた。陸域と海域を一体化した管理体制により、人々はその恵沢を将来にわたり享受できると考えられる。

最近、里海(さとうみ)という言葉が国際会議でも使われるようになり、目にしたり耳にしたりする機会が増えてきた。「里海」とは人と生態系の間の長きにわたる相互作用により形成され維持されてきた海域を指す。里海は、先輩格の「里山」に比べれば、はるかに後発組であるが、「里海」の定義に関する論議が始まっておよそ10年が経つ。人と海域のすばらしい関係性は多様なことから、里海の概念が狭くなってはならないと多くの人が考えている。

ここでは日本初の国立公園が設置され、多島海の穏やかな景観が国際的にも高く評価されてきた瀬戸内海を中心にして、里海について、「人と海とのつながり」の観点から考えてみたい。

里海としての瀬戸内海

瀬戸内海は、古来より人間生活とのつながりが緊密で、里海の性格を長い間、保ち続けてきた。縄文時代には、すでに沿岸魚介類の採取などを通じて海の恵みが利用されていたのみならず、海路が交易や物流にも使われていた形跡がある。瀬戸内海は長い間、沿岸の人々に水産物や塩、海水浴や潮干狩りなどのリクレーションとともに海上交通や輸送などにも海の恵みを提供してきた。中でも、水産物を生む瀬戸内海の漁業生産力は国際的にみても飛び抜けて高く、塩も重要な特産品であった。

里海としての瀬戸内海の成り立ちは、里山とも深い関連性をもっている。かつて瀬戸内海の代表的な風景として謳われた白砂青松の海岸はその象徴ともいえる。第二次世界大戦後に石油が主要燃料として登場する以前、製塩業や他の産業が大量に消費した燃料のために森林が伐採され、その結果生じた花崗岩質のはげ山から生じたマサ(真砂:風化花崗岩)により白砂が形成され、マサの砂浜には痩せ地に強い松が生い茂った。

「里海」とは人と生態系の間の長きにわたる相互作用により形成され維持されてきた海域を指す。

写真: 多島海としての瀬戸内海(備讃瀬戸)

写真: 多島海としての瀬戸内海(備讃瀬戸)

里海としての瀬戸内海が提供する豊かな海の恵みや景観は、人々の暮らしや生業と沿岸海域の長い間の相互作用によって形成されてきたものである。里海のあり方には、地域特性や歴史的経緯が反映されるため、多様なあり方が容認されるが、瀬戸内海における里海の定義的な考え方は、端的には「人手が加わることによって生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域」である。少し広い意味では、人と自然の共存関係の中で形成されてきた「豊かな沿岸海域」のことを示す。しかしながら、人間活動の海域環境や水産資源に及ぼす影響が相対的に小さかった時代に長く保たれてきた瀬戸内海の豊かな里海は、第2次大戦後の高度経済成長期に大きく変貌した。産業系と生活系の両方の排水による環境汚染、埋立てなどによる浅海域の消滅、これらに伴う生態系の劣化と水産資源レベルの低下である。その劣悪な汚染状態から瀬戸内海は「死の海」とまで形容されるようになった。海岸地域、特に状態の悪化した干潟や藻場の保全と復元には NGOもまた重要な役割を担っている。

 

沿岸海域の保全管理と里海

瀬戸内海の公害対策や環境保全活動に対する活発な取り組みにより1973年には瀬戸内海環境保全臨時措置法(1978年には特別措置法として恒久化、通称、瀬戸内法)が当時では珍しい議員立法で制定された。

写真: 瀬戸内海の漁港に集まる漁船(坊勢島)

写真: 瀬戸内海の漁港に集まる漁船(坊勢島)

そして現在、瀬戸内海を含む我が国の沿岸海域は大きな転換期を迎えている。その大きな理由として、最近、数年の間に、沿岸の環境と資源の管理のあり方を左右する国の政策や戦略が、矢継ぎ早に定められたことがある。

沿岸域の総合的管理や生物多様性の確保を重要な基本線とする海洋基本法に基づく海洋基本計画(2008年3月閣議決定)では、水産資源と海洋環境の保全のための生物多様性の確保とともに、里海の考え方の重要性が指摘されている。

また、「21世紀環境立国戦略」(2007年6月閣議決定)のなかで、「藻場、干潟、サンゴ礁等の保全・再生・創出,閉鎖性海域等の水質汚濁対策、持続的な資源管理などの統合的な取組を推進することにより、多様な魚介類等が生息し、人々がその恵沢を将来にわたり享受できる自然の恵み豊かな豊饒の『里海』の創生を図る」と明記されたことは重要である。環境省はその具体策として「里海創生支援事業」を開始し、2008年8月に支援対象海域も選定された。

第3次生物多様性国家戦略(2007年11月閣議決定)には、「里海として認識される海域の適切な保全」が必要という趣旨が示されている。2009年度から開始された水産庁の環境・生態系保全活動支援事業はこれらの方針に沿ったものである。

瀬戸内海では様々な先駆け的な取り組みが進められてきたことから、しばしば「環境管理の実験海域」と称せられる。現在、瀬戸内海環境保全知事・市長会議が主導して環境保全活動を推進しながら、瀬戸内法の全面的な見直しと新たな再生方策の検討が進められている。ちなみに、この法整備の動きには、既に140万人以上の賛同者の署名が集められている。

海岸地域、特に状態の悪化した干潟や藻場の保全と復元にはNGOもまた重要な役割を担っている。

沿岸域の総合的管理のツールとしての里海

沿岸域管理の国際的な潮流は、既に統合的沿岸域管理(Integrated Coastal Management: ICM)となって久しいが、里山づくりと里海づくりの取り組みをつなげることによって、我が国独特の沿岸域の統合的管理の在り方に、新たな展望が開けることが期待できる。

しかし、沿岸海域は常に陸域の人間活動の影響にさらされてきたにもかかわらず、我が国では、陸と海を一体化した管理体制が制度的にはこれまで保証されていなかった。将来的には、沿岸域の管理手法を、海洋基本法に盛り込まれている陸と海を総合的に管理する「沿岸域の総合的管理」に一歩でも近づけることが重要である。

瀬戸内海国立公園は、特に島嶼部を代表地域にして、このような里山里海一体型管理のモデルとなる十分な要件を備えているように思われる。

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著者

松田 治

広島大学

1971年より広島大学で瀬戸内海や閉鎖性海域の研究と教育に従事、2003年より広島大学名誉教授。専門は物質循環論、沿岸環境管理や自然再生。フィールドワークは、北極海、南極海、熱帯域、南北太平洋など多数。著書に「瀬戸内海を里海に」(編著、恒星社厚生閣)、「森里海連環学」(共著、京大学術出版会)、「海洋問題入門」(共著、丸善)など。現在、瀬戸内海研究会議会長、広島大学名誉教授を務める。