経済成長のない世界

昨年3月、イギリスの持続可能な発展委員会(Sustainable Development Commission)の報告書にティム・ジャクソン氏の「成長なき繁栄」というアイデアが発表された。同年11月には同名の著書も発行され、アマゾンで1,729番目にランクインするほどのベストセラーとなった。この著書の中でジャクソン氏が主張しているのは、現代の市場経済に浸透している成長と拡大というスローガンに頼らずとも繁栄は可能であるという考え方だ。

さらに最近では、2010年1月に新経済財団(NEF)のアンドリュー・シムズ氏とヴィクトリア・ジョンソン氏が「成長は不可能である」(Growth isn’t possible)という報告書においてより断固たる警告を発した。彼らは、私たちが成長という観念をすべて捨て去るべきだと主張している。私たちに必要なのは「人類全体が際限なく増加する消費に頼らずに繁栄できるような」新しい経済モデルだという。

例えばG8やG20のような影響力のあるフォーラムでは、「持続可能性」という単語を声明で用いることが受け入れられ、むしろ好ましいとさえされている。一方、「ゼロ経済成長」と社会の利益を同一視するのは紛れもなくタブーだ。しかし、このような異論は、世界が景気後退に苦しむ現在でさえ(書籍販売においてだけでも)けん引力を持つものである。

環境問題について考える時、私たちは「デカップリング」(経済成長と環境負荷の分離)という概念に行き当たるであろう。これは数十年前から存在する考え方であり、基本的には、経済成長とその劣悪な副作用である公害など(例:二酸化炭素)の繋がりを絶つことを提言している。デカップリングは、エネルギーの(できれば再生可能エネルギーの)消費量を減らし効率よく生産を行なうことで、または技術を駆使して公害を予防することで実現できる。しかしながら、ジャクソン氏はこの相対的デカップリングが有効なのはある一定のレベルまでだと指摘している。また、絶対的デカップリングはおとぎ話に過ぎず、単に私たちの複雑な社会・経済システムを現状にとどめる程度の持続可能性しかもたらさないと述べている。

モノ、モノ、モノ

一般的に、人間は物事の複雑さや仕組みを理解するのがあまり好きではない。私たちの多くにとって、現実を突きつけられるのはちょっとした衝撃である。この事実については「The Story of Stuff」(モノの一生)を見るとわかりやすい。本作は(かなり政治色が強いものの)現代の経済における連鎖を理解しやすく説明しており、資源の入手に始まり、製品化、消費、廃棄に至るまでの過程を追うものである。

あなたはこの物語を好きになるか、あるいは心底嫌いになるかのどちらかだろう。探究心の強い人であれば「モノ」についてより深く知りたくなるだろうが、多くの人はこのような異説を発作的に拒絶するだろう。結局のところ、成長は素晴らしく、富がなければ進歩もなく、知らなければあなたが傷つくこともないのだから。

同時に、いくつかの重要な通念は受け入れられ、経済の仕組みや消費の役割を決定付けている。例えば、企業が最優先しなければならないのは株主であり、政府は成長予測に基づいて支出を計画し、投資家たちは預けた資金の金利を期待する。そして、私たち消費者は(なるべくならお金を借りて)成長に勢いを与えるという役割を担っているのである。

このため、政府、企業そして消費者たちが成長という絶対的な存在に追従せざるを得ないのも十分に納得できる。そうしなければ、先行きへの不安は高まり、歳入は落ち込み、社会の安定は脅かされるだろう。

個人的なレベルになると、成長に関するこれらの話は消費サイクルを中心に行われる。私たちの多くは、新しい物やそれらが与えてくれる(時につかの間の)満足感が好きなのだ。そして、現代社会の大部分がこのような消費習慣に対応している。それを可能にしているのは、より革新的な商品やますます効率的になる配送手段であり、今や私たちは家でくつろいでいるだけで商品を入手することができる。

皮肉にも、私たち消費者と製品の関係性を破壊しているのはこの効率化であり、進化する技術や連携した貿易システムである。そして、成長が停滞すれば社会の脆弱化を引き起こすのだ。私たち個人は、無意識のうちにこの踏み車の上を走らされている。

幸運なことに、私たちは消費が引き起こすストレスを、このような消費者エクササイズによって解消している。政府は救いようがないほど消費に依存しており、私たちを踏み車の上に戻そうと必死だ。その姿はまるで、私たちが演技をしなければクビにされてしまう横暴な調教師のようである。昨今の金融経済危機の反省はおろか、またしても成長が最優先されているのだ。

しかし、アメリカ人作家エドワード・アビーがかつて記したように「成長のための成長はガン細胞の増殖と変らない」のである。限りある惑星に成長を要求する経済システムを改革するには、ビジネスのあり方を抜本的に変えていかなければならない。環境に化学療法の痛みを負わせることを避けるため、現在では多くの人々が代替となる治療法を推進している。

拡大を伴わない改善

経済政策には、私たちの進歩(そして幸せ)と消費を同一視する習慣が深く根付いている。消費は測ることができ、完璧ではないがそれなりに効果があるからだ。しかしながら、この習慣を是正する提案が数多くなされている。

例えば、リディファイニング・プログレス(進歩を再定義する)のアプローチは、私たちが持つ豊かさの観念を、国内総生産(GDP)から真の進歩指標にまで広げることを目指している。インドのノーベル賞受賞者である経済学者アマルティア・センらが提唱する「潜在能力アプローチ」は、人間開発指数(HDI)の基盤となり、より幅広い繁栄の尺度が主流派に受け入れられるきっかけとなった。

世界の資源や気候システムに影響を及ぼす主要な問題を解決するような経済改革を提唱する人々がいる。多くの人々が長年警告してきたように、ジャクソン氏もまた、私たちは急激な成長と資源との相関関係を認識し、予期される欠乏と制限に向かい合って経済活動を調整し始めるべきだと述べている。(この議論は再活発化してきた様子である。生存主義の再流行をご覧下さい)

「繁栄は、生態学的に制限のあるこの惑星において、私たちが人類としての繁栄を達成できるかどうかにかかっている。私たちの社会が抱える課題は、このような形での繁栄を可能にする条件を生み出すことだ。これは現代における最も緊急の課題である」(ティム・ジャクソン氏)

「繁栄は、生態学的に制限のあるこの惑星において、私たちが人類としての繁栄を達成できるかどうかにかかっている」とジャクソン氏は報告書の中で述べている。「私たちの社会が抱える課題は、このような形での繁栄を可能にする条件を生み出すことだ。これは現代における最も緊急の課題である」

だからこそ、グリーン成長や持続可能な成長という概念を超えた「ゼロ成長」という考え方が存在するのだ。後者は「発展」と経済成長とを同一視しない点で区別されている。いわゆる定常型経済は、既存のシステムとは大きく違って見えるだろう。私たちは仕事をシェアすることになるので、収入も減ることになる。しかし、もし「時は金なり」という言葉がまだ意味を持つなら、時間という資本が増えることで、お金では買えない贅沢をする余裕が生まれる。

The Center for the Advancement of the Steady State Economy(定常型経済振興センター)ではこの分野における第一人者たちが提言する政策をとりまとめている

態度を改める

どうしたらこのようなことができるのだろうか。人々は果たして参加するだろうか。現実には、何らかのシステムを変えることは常に困難を伴うものである。なぜなら、私たちは違う方法を試したからといって見返りが与えられるわけでもなく、むしろ何も変えないようにと歪んだ奨励金を受け取ったりするからだ。(たとえば、化石燃料にはいまだにかなりの助成金が給付されている)

前述の出版物に紹介されているアイデアは、最初のうちは魅力に乏しく映るかもしれない。でも本当にそうなのだろうか。むしろ、これらのアイデアが、ただ現在の繁栄の定義に沿っていないだけなのではないだろうか。

消費者という言葉を使い続けている限り、私たちを待ち受ける厳しい未来を検討する公の議論の質を引き下げてしまうだろう」(ジェームズ・ハワード・クンストラー氏)

厄介なのは、個々人が変化に対して前向きになってもらうことだ。挑発的な作家でありニューアーバニズムの専門家でもあるジェームズ・ハワード・クンストラー氏は、シンプルな提案をしている。つまり、人々は自分たちを消費者であると考えるのをやめるべきだというのだ。同氏は、消費者は義務や責任、または義理を周りの人間に負っているわけではないと主張する。

「消費者という言葉を使い続けている限り、私たちを待ち受ける厳しい未来を検討する公の議論の質を引き下げてしまうだろう」

私たちが大量消費文化の一部であることは今日否定できないが、この文化に別れを告げるべき時が来たのだ。運がいいことに、おそらく大量消費主義はまだ比較的新しい現象である。大量消費主義とは、基本的に戦後の過剰な生産設備が残していったものであり、様々な欲望や不満を刺激し、消費者たちに消費させ続けるための巧妙なマーケティングと連動している。カルチャー雑誌アドバスターズは、広告を知性への公害と見なしており、しばしば破壊的な反撃広告によって現代社会における広告の観点を改革することを目標としている。

おそらく、私たちが本当に必要としているのはこれらの問題を反省するための場所と時間だ。クレイ・シャーキー氏が作り出した思考の余剰という言葉が興味深い。これは私たちの構造化された生活の中にあるほんの少しの自由時間を表す言葉だ。同氏は、この自由時間の大部分がいかにテレビを見ることに(そして買い物に)費やされているかを説明している。驚くべきことに、アメリカでは年間2,000億時間もテレビが放映されており、週末には1億時間がコマーシャルに使われている。

時間をただ消費するのではなく創造的に使うことで、この莫大な思考の余剰をより有効に使うことができる、と同氏は主張している。インターネットは私たちをよりクリエイティブにし、消費者を生産者へ、または音楽、動画、知識などを共有する仲間へと変えた。

インターネットは発明されてまだ間もない。このため、私たちにはインターネットがどのように私たちの社会と経済の基準を変えていくのかを完全に掌握することはできないが、消費を議論する上で必ず持ち上がるテーマであるには違いない。

しかし、もし私たちがメディアの利用方法を変えることができるなら、物質を消費する方法も変えられるのではないだろうか。

翻訳:森泉綾美

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著者

クリストファー・ドール氏は2009年10月に、東大との共同提携のうえ、JSPSの博士研究員として国連大学に加わった。彼が主に興味を持つ研究テーマは空間明示データセットを用いた世界的な都市化による社会経済や環境の特性評価を通し持続可能な開発の政策設計に役立てることだ。以前はニューヨークのコロンビア大学やオーストリアの国際応用システム分析研究所(International Institute for Applied Systems Analysis)に従事していた。ドール氏はイギリスで生まれ育ち、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジにてリモートセンシング(遠隔探査)の博士号を取得している。