GDPは国内総「問題」

ロレンツォ・フィオラモンティ教授はガバナンス問題を専門とする政治学者であり、プレトリア大学で教鞭をとる傍ら、ガバナンスイノベーション研究センターのディレクターを務めている。同教授は、地域統合に重点を置いたグローバル規模の超国家ガバナンスについての研究により、国連大学地域統合比較研究所(UNU-CRIS)から高く評価され、2012年にはアソシエイトフェローに迎えられた。

2013年1月、フィオラモンティ教授は新著「Gross Domestic Problem — The Politics Behind the World’s Most Powerful Number(国内総問題—世界で最も強力な数値指標の背後でうごめく政治力)」を上梓している。私たちは先日、世界で最も「強力な」その経済指標について同教授に話を聞いた。

どのような動機からGDPというトピックを扱うようになったのですか?

私はGDP、つまり国内総生産の問題を広く知ってもらいたくて、この本を書きました。長い間、この問題はごく一部の専門家が取り上げていただけで、政策の立案や一般の議論においては、従来の経済の考え方が大部分を占めていました。しかし、もうそろそろ、GDPの問題を一般の議論の俎上に乗せなければなりません。つまり、市民や市民社会が真剣で開かれた議論を行う時期が来たということです。

2010年にイタリアにいた時、私はイタリア国家統計局長から統計学者と経済学者の会議に招かれました。会議の目的はGDPの限界について話し合い、有効な代替指標を明らかにすることでした。いわゆる スティグリッツとセンとフィトゥシの委員会が経済パフォーマンスと社会の進歩の測定に関する報告書を発表した直後のことでした。私自身も数年来、GDPについては疑問を抱いていましたが、その会議で気がついたのは、多くの経済学者が長年、GDPに代わるものを探していながら、GDPのまさに政治的な側面を誰も分析していないことでした。

そこで私は疑問を抱いたのです。もし、GDPにそれほど多くの欠陥があり、「より優れた」数値指標を見つけるために幾多の努力が行われているのであれば、なぜ私たちは今でもGDPを使い続けているのだろうか? GDPと政策立案の関係を守ることに特別な利得でもあるのだろうか? この万能な数字の政治的な側面はどのようなものだろうか? そこで私はGDPの歴史を調べ始め、その内実を広める必要を感じたのです。GDPの歴史は、私たち自身が暮らすこの社会をどのように作り上げてきたかの歴史です。また、経済学が他のすべての科学をどのように抑え込んで、権力の僕になったかの歴史でもあります。

誰がGDPを「考案した」のですか? その理由は?

GDPは1930年代後半、米国で考え出されました。当初は、政府が大恐慌に対処するのに役立てるためでしたが、その後は、第二次世界大戦への米国の関与を計画するために用いられました。戦争にGDPをどのように使うのでしょうか? では、自分が政府だと想像してください。そして、どのような関与をする余裕があるか、どれほどの期間にわたって続けられるかを知る必要があるとしましょう。いつまで戦争が続くのかはわかりませんが、最後まで戦い、勝利を収めるのに十分なリソースを確保したいと思います。米国政府はGDPの元になる統計調査、国民所得会計を用いて、まだ余力があり、全面的な軍需品生産にうまく切り替えられる経済分野を明らかにしました。また一方では、戦費を賄うのに必要な経済生産高の成長率を算出しました。米国政府は国内消費を支えることによって戦争に巧みに関与し続けました。国内消費が堅調であれば、工業生産は増加し、それがひいては経済成長を押し上げるからです。

ナチスが支配していたドイツをはじめ、GDP計算を取り入れていなかった他の国々は国内産業を軍需品生産に強引に振り向け、基本的に国内生産を抑制しました。そうしてドイツは最後には息切れして、長期にわたる戦争の資金を調達できなくなりました。対照的に米国では、国民がこれまで以上に消費したために、政府は2つの前線(ヨーロッパと太平洋)で戦争を続けるのに十分な資金とリソースを維持できました。さらに戦後については、戦争の影響を受けなかった産業セクターや消費者の間でうっ積していた耐久財需要が経済成長を引き起こしました。

(今日において)GDPとは何でしょうか?

GDPは経済生産高を示す指標です。算出するには、ある国の消費、民間投資と政府支出、輸出から輸入を引いたもののすべてを合計します。GDPは市場の指標で、先に挙げた様々な側面の価値は市場価格で計算されます。値札がついていないものはGDPには含まれません。

そうすると、経済パフォーマンスの中でも「コア」経済といった重要な要素が除外されることになります。コア経済に含まれるものには家事労働、インフォーマル経済、雑務、社会の結束を強固にし、経済成長を可能にするあらゆる種類の奉仕活動などがあります。国際通貨基金によると、インフォーマル経済が経済生産高に占める割合は新興国では約45%、移行経済圏では約30%、先進国では約20%にのぼります。しかし、それらはGDPでは無視されているのです。

GDPは総量で、経済プロセスで投入された全体の資本を対象にするものではありません。つまり、たとえば経済成長のために使われた自然資源の枯渇は無視されます。なぜなら、これらは無償で提供される性質のものだからです。また、GDPでは、社会的リスクや環境劣化などの経済成長に伴うコストも考慮されません。

あなたは2回にわたって「GDPは大きな嘘の上に成り立っている。それは、豊かさを生み出すのは市場だけという嘘だ」と書いていらっしゃいます。何が真の豊かさになるとお考えですか?

私にとって豊かさとは、主に私の身体の健康、そして活発な社会とのつながりも含めた、私の生態系の文脈に見出せるものです。アマルティア・セン氏が述べたように、貧困とは持っている現金が限られていることではなく、持てる力が発揮されないことです。 不健康で、孤立していて、不安定な環境条件下で暮らしている人は、銀行口座にどれほど残高があっても貧しいということになるでしょう。私たちは自分たちのコミュニティを支え、子どもたちを教育し、社会的な絆を強めるために共に時間を費やして、日々、豊かさを生み出しています。

自らの食料を育てたり、調理したりする時、また自らのエネルギーを作り出し、知識や専門能力を共有する時、それらの行為は無償であっても、経済の柱となっています。それが貧しさと豊かさの重大な差になります。これらの重要な要素がなければ、市場は機能さえしないでしょう。機能するために必要なものがすべて有償で提供されるなら、成長はありえません。しかし、「生産」の根本にあるこれらの部分はいずれもGDPの計算には含まれないのです。そこが矛盾していると思います。

UNUは包括的な豊かさの指標を発表しました。この測定方法の強みと弱みは何だと思われますか?

包括的な豊かさの指標は、自然資本が経済成長において果たす役割を定量化する試みとして高く評価できるものです。GDPは成長プロセスを促進する自然資本を完全に無視し、そうすることで、自然資源の経済的重要性を過小評価しています。

自然資本の役割がいかに重要かを示す試みにおいて、経済学者はいわゆる真の進歩指標を考え出しました。これは、生産プロセスで用いられた自然資本の価値と負の外部性のコストをGDPから引いたものです。包括的な豊かさの指標はこの考え方をある程度踏襲しながら、生態系サービスと生物多様性の経済学における最新の知見を取り入れています。しかし、大きなリスクがあります。それは、これらの指標はいずれも、自然資本は貨幣価値に置き換えられるという想定の上に成り立っていて、その前提でGDPの計算から差し引くことができるようになっている点です。母なる自然を貨幣価値に置き換えるのは非常に大きな問題で議論を呼ぶところです。最終的には自然の豊かさを市場化してしまうことになりかねません。実際に植林、保全、オフセットなどが京都議定書のREDD+の制度の中で提案されてから、自然資源の市場化傾向は徐々に強まっています。私たちはGDPの場合と同じように、そのような貨幣価値化が推し進められる背後には強力な利得があることに気づかなければなりません。

GDPは米国で考え出されたものです。そして、人間開発指数(Human Development Index、HDI)はスカンジナビア、国民総幸福量(Gross National Happiness、GNH)はブータンのモデルを元にしています。世界共通の指標を求めるのは無理があるのでしょうか?

世界共通の指標を編み出す余地はあると思いますが、必要あるいは望ましいかといえば、そうではないかもしれません。私たちが欲するものが満ち足りた生活であるなら、すべての国が1つの基準でそれを測定しなくてもいいのではないでしょうか。私たちが必要としているのはもっと成熟したグローバルガバナンスのシステムで、そこでは均質化より多様性が尊重されます。高級技術官僚はGDPを操っていましたが、今日、市民にとって何が本当に重要かを明らかにするプロセスでは、市民が自ら関与することが必要です。それにブータンの人々の考え方は米国人とは違うでしょう。私たちはお互いから学ぶことができますし、そうすべきですが、アジアやアフリカの方針が米国やヨーロッパで採用されたのと同じ基準に依らなければならないとは思いません。

著書の中ではGDPの代わりになる指標についても解説していますね。特に好ましいと思われているものはありますか? その理由もお聞かせください。

GDPの代替指標といっても、完璧なものはありえないでしょう。重要なことは統計上の有用性ではなく、社会的に見た妥当性です。私たちは測定するものを欲するのではなく、欲するものを測定すべきなのです。

個人的には、21世紀において私たちの社会はあるレベルの成熟度には達したと思っています。政策立案者が一連の指標をダッシュボードのように使えるほどにはなっているでしょう。単なる一指標、しかも誤解を招くものにしがみつくことはありません。本当に望むものを達成しているかどうかを示す指標にはさまざまなものがあります。それらを使いこなすことが前進になるのではないでしょうか。

日本経済は20世紀の大半の期間において急速に発展しましたが、ここ約20年間は足踏み状態です。何が起こったのでしょうか?

私は日本経済を専門にしているわけではありませんが、興味深いケースだと思います。日本は1980年代には世界的な経済発展の先頭に立ち、それはこの10年間の中国の姿に似ています。日本は急速にGDPを伸ばし、輸出では世界を牽引しました。それを達成するために、日本は長時間に及ぶ労働、熱狂的な消費、ペースの速い社会生活といった風土を構築しました。その結果として生じたのが社会的苦痛と、それまで協調的だった儒教社会における競争精神です。1990年代後半からは出生率の急落も相まって、経済は停滞しています。それもあって、日本は世界でも最大の債務国になっています。これはGDPを指標として築かれた社会がたどる最悪のシナリオです。成長社会のはずなのに、実は成長していません! しかし、明るい側面に目を向ければ、日本は世界一の長寿国です。主要な政策の目的としてGDP成長率を掲げるのをやめ、国内の社会の結束を再構築することに集中すれば、現在および将来の課題に対処しやすくなるでしょう。

ケインズは1930年代、先進国における平均的な市民の労働時間は2030年までに1週間あたり最長でも15時間になると予言していました。なぜ、私たちの労働時間は今でもこれほど長いのでしょうか?

それは、GDPが流動的な目標で、最後には悪循環に至るからです。生産を増やし、世界で競争するために、労働者は生産性を上げることを強いられます。イノベーションは役に立ちますが、それにより新たな生産空間が生まれるため、技術が進歩したにもかかわらず、人々はさらに長時間働くことを求められます。

GDP成長はまた、新たな欲求も生み出します。数年前、平均的な家庭では1台の車と2台のテレビがあれば十分でした。ところが今日では、少なくとも2台の車と数台のテレビ、そして家の中にはさまざまな機器が当然のようにあふれていなければ、満たされていないと感じます。貧しさの感覚は往々にして比較の問題です。周囲の人々が持ち物を増やすと、自分もまた持ち物を増やしたくなり、それができなければ足りないと思うのです。さらに、GDPは市場に出回っている商品、すなわち買わなければならないものを対象とし、市場で売買されない商品は無視しているため、かつては無償だったもの、たとえば、子どもの世話、趣味、レジャーなどが、今では費用のかかるものになっているのです。こういったことがすべて相まって、お金がさらに必要になり、さらに働かなければならなくなっています。

あなたは南アフリカ共和国のプレトリア大学の教授として政治学を教えていらっしゃいます。お住まいの国および他のアフリカ諸国におけるGDPについてはどのようにお考えでしょうか?

南アフリカは多くの社会問題に取り組んでいます。私が関心を持っているのは、これまでとは異なる形態のガバナンスをどのように構築して、古い意味での成長も自然資源の破壊も伴わずに、この地域を繁栄させられるだろうかということです。

問題は、ほとんどのアフリカの国々に経済成長計画があることです。これらの国々は原材料の輸出に依存し、それがGDPの大幅な伸びにつながっています。たとえば、アンゴラのような国は過去数年間、石油の輸出で平均成長率が18%にもなりました。しかし、短期的には豊かさの幻想に酔いしれることができますが、実際は国の最も貴重なエネルギーおよび自然資源を持続不可能な方法で売却してきたにすぎません。このような類いの成長においては、ほんの一握りの人々が「現金」を手にして潤うだけで、ほとんどの人々は、GDP成長モデルの前提のままに、自然資本を計画的に掘削し続け、共同社会の資源を民営化した挙句、社会および環境に現われてくる影響に苦しむことになるのです。

アフリカの国々に必要なのは、そういったものとは対照的なモデルで、福祉に重点を置き、最終的には貧困と失業の問題に向き合うものです。労働力はアフリカ諸国においては比較的安価です。これらの国々が医療や教育、介護サービスといった労働集約型の分野にさらに注力すれば、コストを低く抑えながら、雇用を創出できるでしょう。巨大産業の発展に頼るGDP成長モデルでは、大抵の場合、多くの技術を輸入することになり、長期的には必要な労働力が減少します。そこで雇用を維持するために、企業は生産をますます増やし、消費者は消費を続けて、永遠の成長のドグマに陥ります。しかし、産業労働に依存するのではなく、サービス分野を伸ばすなら、失業率は下がりますし、またこのようにして新たに生み出された雇用は、社会に良い影響を及ぼすでしょう。というのは、私たちの福祉は私たちの健康、教育、社会資本の質と密接な関係にあるからです。

多くのアフリカの国々と同様に、南アフリカもGDPモデルの落とし穴に気づき、「定常型経済」を計画しなければなりません。

これからもこの問題に引き続き関わっていくおつもりですか? また、ご自身にとってもまだ答えが出ていない研究上の疑問はありますか?

これは私に考えられる最も重要な問題です。政治学、経済学、社会学のすべてが関わっています。学術研究としてこれほど関わりが深いテーマは他に考えられません。

私はこの本が中国語に翻訳されることを期待しています。というのは、中国はこのような議論が起こる必要がある国の1つだからです。その他では、このメッセージをブラジル、ロシア、そしてインドにも伝えたいと思っています。これらの国々では最近、著しいGDP成長が見られますが、だからこそ、将来に向けてどのような経済パラダイムを求めるのかについて、真の議論を促す必要があります。私はGDPに関する研究を元にして、2014年の初めには2冊目の本を出版する予定です。その中では、自然の貨幣価値化傾向が強まりつつある背後に、どのような政治的および経済的な利得があるのかに目を向けたいと思っています。

翻訳:ユニカルインターナショナル

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著者

シュテファン・シュミトは 来日前にはヨーロッパのデジタルエージェンシーネットワークのひとつでプロジェクトマネージャーとして働いていた。現在彼はハインツ・ニクスドルフ財団が主催する将来のドイツ人実業家養成のためのアジア太平洋プログラムに参加している。デジタル文化に興味があり、国連大学のOffice of Communicationsで知識を共有することを喜ばしく思っている。ドイツ ワイマールのバウハウス大学卒業。