GDP(国内総生産)、GNP(国民総生産)、GPI(世界平和度指数)、GNH(国民総幸福量)、HDI(人間性開発指数)。 国の状態が良好かどうかを測る、より良い方法はあるだろうか。
1968年、大統領選挙戦が始まった頃、ロバート・F・ケネディが国民総生産の問題点について次のように語ったことは有名である。「国の富を測るはずのGNPからは、私たちにとっての価値あるものすべてが抜け落ちている」。それから45年経った今も、国の真の開発度合いをいかに正確に測り予測するかは、その当時と変わらぬ重大かつ難しい課題である。
だが持続可能な成長より、持続的経済成長を示す数値しか頭にない政府にとって「価値あるもの」とは一体何だろう。「価値あるもの」とは今でも定量化できる生産物のみで成り立つものなのか。それとも、私たちは気候変動とその影響を真に受け入れながら、自然資源の減少傾向に対し、必要な注意を向けるようになりつつあるのだろうか。
これまでの国内総生産 (GDP)のような指標ではなく、国の経済状態をバランスよく評価する努力の一環として、これまでとは全く異なる画期的なシステムが最近発表された。これにより国家の真の豊かさをより良い方法で決定することができるかもしれない。
6月のリオ+20サミットで発表された2012年「包括的な豊かさに関する報告書」(IWR)は、国連大学の地球環境変化の人間的側面国際研究計画(IHDP) と国連環境計画が共同で策定したものだ。
IWRは隔年シリーズの第一回目で、包括的な豊かさの指標(IWI)の基礎作りをしたものだ。これは環境会計を国家の資本的資産評価に組み込み、他の指標における環境要因の欠如を補おうとする新たなアプローチである。包括的な豊かさの指標は、生産(製造)資本や人的資本に加え、自然資本の変化(森林、分水界、化石燃料、漁業)を時間をかけて評価し、国家の自然資源ベースの変化状態に重点を置き、それによる長期の経済・社会的持続可能性への影響を強調する。
ではなぜ新たに豊かさの指標を考案する必要があるのだろうか。ジョセフ・スティグリッツ教授は、新ケインズ派のノーベル賞受賞者らしい独自の表現でまとめている。「正しい物事を測らなければ、正しい事はできない」。
とはいえ、古い習慣は容易には廃れず、今のところ、GDPはまだ中心的経済指標である。国際的経済対話の中で広く使用され、ほとんどの政府にとって、この公式は極めて明快だ。「GDP成長=善」。数字やその数字を出す計算過程は大衆にとって重要ではない。IWIのチームはこの傾向を変えたいと願っている。
「包括的な豊かさに関する報告書」の科学顧問、パーサ・ダスグプタ卿が最近著したものによると「GDPでいただけないのは、国内総生産の『総』という言葉だ」。勘定に商品とサービスの「生産」しか考慮に入れず、経済生産ベースを「破壊」しているもの(自然要因の劣化)に関しては一切考慮に入れていない。
一般的に、経済学者が前年の投資、支出、消費、生産を計算する時、その方程式から明らかに除外されている要素がある。それは「残存するもの」だ。すなわち、具体的には自然資源の貯蔵量とそれによる将来の社会への配当分だ。IWIは、方程式上、要となる資本の要素なしでは国の経済政策やその長期の持続可能性について正確な評価ができないという。
正しい物事を測らなければ、正しい事はできない。(ジョセフ・スティグリッツ教授、ノーベル経済学者)
第一回目の「包括的な豊かさに関する報告書」は自然資本会計に焦点を絞る。 自然資本という表現は数十年前に造られたものであり、自然資源の経済会計化に向けた努力を行うのはIWIが初めてではない。最新の動きでは中国の2006年の「グリーンGDP」 がある(しかし1年後には様々な「内々の」事情により廃止された)。リオ+20は、世界銀行の生態系価値評価(支援国の数は増え続けている)や金融機関による「自然資本宣言」など、多くの新しい自然資本イニシアティブを公表する場となった。
GDPにとって良いものが国民にとって良いものとは必ずしも言えないという議論は数多く行われている。1987年の「我ら共有の未来」報告は環境への考慮と開発を結びつける先駆けとなり、それ以来、「経済」指標を越え、包括的な「開発」指標への新たな注目が集まった。
これまでで最も影響力があり成功した指標の例としては1990年に始まった人間性開発指数(HDI)がある。HDIによって国連開発計画は、健康、教育、生活水準といった社会的人的資本という「価値あるもの」をより多く考慮した画期的評価基準を示した。しかし20年間微調整を続けても環境について考慮に入れることはできなかった。
だが、リオ+20で国連開発計画はフォーラムを開き、いよいよ、新しい「持続可能な」人間性開発指数(SHDI。Our World 2.0の読者ならもうご存知かもしれない)の概念を説明することとなった。SHDIは、ついに環境にも目を向けさせ、地域の資源と世界の資源の「転換点」を関連付ける方法を示している。環境を生産のベースとして考えるのではなく(IWIはそうしている)、SHDIは環境の状態が、今後地域や世界で人々の「選択」と「能力」にどれだけの影響を及ぼすかを評価しているように見える。 それでもSHDIを使ってもまだ、環境を経済会計に組み入れることはできないようだ。
「包括的な豊かさに関する報告書」は自らをGDPとHDIのいずれをも越えるものと位置づけている。そして今後も生産資本、人間資本、自然資本における変化を評価し、近視眼的数値ではなく社会の健全性と持続可能性における長期的展望を示すように努めると明確に述べている。
もっと自然資本に注目すべきだという見解が増える一方、自然資本を数値化するのはなかなかややこしい。自然資源の市場価値を数値化する資料や手法の見本としてリトル・グリーン・データブックやUN公認の環境経済統合勘定体系があるとはいえ、自然資源の「社会的」価値を決定するとなると、幸福の領域に踏む込むこととなる。これは持続可能性を評価する複雑で主観的なアプローチである。
だがIWRは、真に持続可能な開発への道を示すには、自然資源が市場価値を越えて教育、健康、生活水準にもたらす幸福度を考慮に入れなければいけないと主張する。
包括的な豊かさの指標を短い記事で深く洞察することは不可能だが、このアプローチが自然資本会計の中でも独特な点は、幸福度を中心に据えて数字を出しているところだ。包括的な豊かさの指標は、自然資本の富の社会的価値を決定し数値化する画期的な枠組みを使い、主観的会計の制約を越えようと努めている。この手法の元にあるのが「潜在価格」である。
「富とは経済資産の社会的価値である。すなわち再生可能な資本、人的資本、知識、自然資本、人口、制度、そして時間……潜在価格とは資産と、その資産が守り、もたらすであろう人間の幸福度をつなげるものである」 と同報告書は説明している。
例えば、調理師が木のまな板を使って調理をしたとしよう。このまな板の潜在価格を計算するため、IWIはまな板の生産コスト、小売価格だけではなく、もっと広い社会的価値を考慮に入れる。調理師の料理と料理のキャリアに及ぼす貢献度、このまな板を使って調理することから得られる喜び、その食事を食べたことによる客の健康増進への貢献、などだ。これらを総合的に考えたものがまな板の社会的価値である。ただ、これは数あるまな板の1つなので、これの社会的価値はIWIが「限界単位」と呼ぶものだ。この限界単位が潜在価格なのだ。
包括的な豊かさの指標は、自然資本の富の社会的価値を決定し数値化する画期的な枠組みを使い、主観的会計の制約を越えようと努めている。
もちろん、だからといって資本を数値化するために、客がどれだけ楽しそうな顔をしているかを窓に顔を押しつけて観察して回るわけにはいかない。だが、この考え方は国の自然資源の社会的価値を測る際にも当てはまる。例えば健全な分水地点は、清潔な飲み水を供給し、人々の健康増進と社会の幸福度に貢献する。
ご理解いただけるだろうか。自然資本の潜在価格を使った評価は単純なアプローチではなく、完全に理解し改訂するにはまだまだ時間がかかる。しかしこれはまた、これまでにない結果を引き出した手法でもある。
今年4月にIHDPの事務局長であるアナンサ・ドゥライアパ博士はIWR2012年の予測についてOur World 2.0.に語ってくれた。ドゥライアパ博士によると、ほとんどのニュースが報道した「包括的な豊かさに関する報告書」のハイライトはIWIとGDPのランキング比較だったという。
この第一回目の報告書は20カ国における1990年から2008年の包括的豊かさの変化を評価している。この20カ国は世界人口の56%、世界GDPの72%を占めている。ここでは結果の詳細に触れることはしないが(皆さんにはどうかそうしていただきたい)、興味深い発見がいくつかあった。自然資本を集計してみると、20カ国中19カ国で減少していた(日本のみ増加した)。ところが、7割の国で1人当たりのIWI(包括的豊かさの指標)は数値が上向きになっていたのである。
このような紛らわしい結果こそ、批判的な人々を憤慨させるところだ。自然資本の不足分が別の形の資本で相殺される時に問題が起こると彼らは言う。例えばブラジルでは、自然資本の25%の減少を人的資本(教育、技能、暗黙知、健康)の48%増加によって相殺している。批判的な人々は、資本を「包括的に」差し引き勘定することで、深刻な環境破壊もバランスシートから消し去られてしまうかもしれないと主張する。
しかしIWRの筆者らは、有効に自然システムのレジリエンスを測る能力など、乗り越えなければならない概念的制限はまだあるということや、発展にとってある種の自然資本がいかに重要かということも指摘している。批判者をさらに落胆させるかもしれないが、地球の生態系(気候調整、洪水調整、肥沃な土地、生物多様性、飲料水など)の機能を測るためIWIを使用することは、いまだに方法論的にはいばらの道であり、その管理方法について他の評価方法からの情報収集を必要としている。
IWIが経済評価を覆しているが、これは資源が豊かでありながら資源採掘によって世界経済に飲み込まれている国々にとっては良い知らせだといえよう。正しく採用されればIWIはこれらの国々が長期的資源管理政策を見直し、比較優位によって先進国が自分たちの資源を買う(搾取する)状態から解放されるような新たな枠組みを提供できるかもしれない。今後はこれらの国家経済は自然資本の社会的価値を向上させるための生産と管理を促進するよう政策を練るようになるだろう。このアプローチを使えば、今から30年後には人々はより幸福で健康でいられることだろう。
包括的豊かさの指標は、他の指標と共により広いマクロ経済計画の1つとして、資本の公正な査定に基づいて国の発展を評価しようとするものである。
ただし現実には、GDPが完璧でないのと同様、唯一の指標が経済の長期的持続可能性を総合的に測るということはできない。包括的豊かさの指標は、他の指標と共により広いマクロ経済計画の1つとして、資本の公正な査定に基づいて国の発展を評価しようとするものである。しかし本当の改良を目指すのであれば、指標の氾濫は強大な市場の意図と同程度にしかならない。
IWRの科学顧問であるケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ博士は次のように述べる。
「別の見方をすれば、もし自然がごく安価なものなら、起業家や発明家が提案する技術は自然を搾取するようなものになることが予想される。……未来に向かい、社会が自然資本への依存を減らす方向へ技術の舵を切っていかねばならない。小さな変化では不十分だ。私たちの頭の中には生産と投資は自然に対して搾取的なものだと叩き込まれているのだから」
翻訳:石原明子
国の包括的な豊かさ by ダニエル・パウエル is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.