国連大学高等研究所伝統的知識イニシアチブ (UNU-TKI) のリサーチフェローであるグレブ・レイゴロデッツキー氏が、気候変動が北ヨーロッパの先住民族や地域のコミュニティに与える課題について紹介する。フィンランド北部の北極圏の人々の生活は環境に大きく左右される。スコルト・サーミ人は気候変動に直面しながらレジリエンスを保つ方法を模索している。レイゴロデッツキー氏は最近、UNU-TKIプロジェクトの一環としてスコルト人と生活を共にした。これは気候変動適応プラン策定に焦点を絞り、スコルト・サーミとフィンランドのスノーチェンジ協同組合 の提携を支援するプロジェクトである。
北極線から北へ400キロ以上、ノルウェー、ロシア、フィンランド の国境付近にあるラウトゥヤールヴィ(Rautujärvi) 湖周辺の地域はスコルト・サーミ人の故郷だ。トナカイ放牧と漁業で生計を立てる伝統的な生活様式は北方の気候と密接に関わりあっている。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012
9月中旬、フィンランド北部の9月中旬の空にはまばゆい北極の太陽の輪が輝き、 ラーブー(円錐状のテント)の内壁に貼り付けてあるサーミ民族のドラムのようだ。北極圏線から北へ400キロ以上、ノルウェー、ロシア、フィンランドの国境付近にあるラウトゥヤールヴィ(Rautujärvi)湖の静かな表面にその太陽の光は優しくきらめく。この土地での季節の移り変わりを示すためサーミ民族が何世代もかけて作り洗練させてきた伝統的な暦では、11月が来るとSápmi(サーミ人はサーミの土地をこう呼ぶ)を覆う雪と氷がこの太陽の光を跳ね返すようになる。だが、この土地での大気と水の流れはもはや先祖のカレンダーとは一致しなくなり、日差しは数週間も長く湖の表面を照らし続けることもある。そうなるとサーミ民族の冬の移動や漁業、狩り、トナカイ放牧の活動に支障が出る。
他のスコルト・サーミ人同様、ウラジミール・フェオドロフ 氏もトナカイの駆り集めの投げ縄にも、湖でのボートの操作にも長けている。 写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
ウラジミール・フェオドロフ氏は少数だが文化的にも言語学的にも独特の東サーミの集団、スコルト・サーミの1人だ。スコルト人は最も伝統的なトナカイ放牧者と漁師の集団だと考えられている。数百年も昔から部族ベースの統治を続けており、地域議会「ソッバー(sobbar)」が最高の意思決定機関である。一方、フィンランド、ノルウェー、ロシアの北部区域に暮らす13万人以上のサーミ民族の統治機構の中心はサーミ議会だ。
歴史的には、スコルト・サーミの固有の土地(Sä’mmlaž)はイナリ湖から東は現在のロシアの都市 ムルマンスクのコラ湾まで長く伸びる巨大な領土だった。現在ではスコルト人のほとんどはイナリ湖の北、フィンランドのラップランド北部の小さな地域に住んでいる。第二次世界大戦後、ソビエト連邦によって故郷の土地が奪われ、移住させられたのだ。移住したスコルト人はやがて セヴェッティヤールヴィ(Sevettijärvri)の村に定住するようになり昔ながらの習慣を守り、消えかけたスコルトの言語を話し続けた。現在残っている700人のスコルト人のほとんどがフィンランドの自治区イナリに暮らし、国境のノルウェー側に少し、ロシアにはほんの数家族だけが暮らしている。
フィンランドのラップランドではトナカイはもう自在に動き回ることはできない。どんどん広がる主要ルート、周辺道路網を避けながら進まねばならないからだ。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
第二次世界大戦前は、スコルトの家族は、トナカイと共に季節によっては徒歩で、スキーで、あるいはそりで踏み敷かれた移動ルートを冬の牧草地から夏の漁場まで寒帯のコラ半島を渡ったものだ。フィンランドに再び定住してからは、馴染みの薄い土地と密接な関係を育まなければならなかった。木のない岩山と北方林の移行帯である。ここでは彼らの移動や放牧は、この地域全体に広がりつつある道路網のため制限されることとなった。1960年代の「スノーモービル革命 」に続き、家族が1年の大半をトナカイと定住生活様式に則って過ごすようになり伝統的な放牧習慣からの急速な転換が見られるようになった。彼らは機械化された移動手段であるスノーモービル、小型飛行機、ヘリコプターを使用し、舎飼いの季節には散り散りになったトナカイを集める。
EU経済にもたらされたこれらの困難や劇的な社会の転換にもかかわらず、トナカイ放牧はスコルト・サーミの文化や食事、歌、衣服、芸術を含む生活様式の根幹を成すものであることは変わらなかった。スコルト人にとって急速な変化に適応することは何も目新しいことではない。そして今度はこの経験を新たな困難に向けて生かす道を探っている。気候変動だ。
ナータモ(Näätämö) 川上流にあるオールシーズンの釣りキャンプ(セヴェッティヤールヴィにある自宅の次に建てたセカンドハウス)でヨウコ・モシュニコフ氏 (右)と友人のテイヨ・フェオドロフ氏が夕食用にトナカイのあばら骨の肉を切り分けている。この後はサウナを暖める(川の縁に立つのがサウナ小屋)。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
スコルト人にとって、トナカイ肉は文化になくてはならない伝統的な食事で、周りの景色が変わろうと気候が変わろうと守ってきた食の主権を確かにするものだ。スコルト人は他のサーミ民族同様、解体したトナカイの毛一本たりとも無駄にしない。繊維質がきめ細かい赤身の肉は食事と収入源に、トナカイの皮は衣服に、角は彫ってナイフの柄、様々な道具、装飾品、観光客の土産品などになる。
フィンランドが1995年にEUに参加して以降、スコルト・サーミはEU市場でトナカイ肉を売るには負担の多いEUの肉加工の規則や基準を順守しなければいけなくなった。新しい規則を守るにはフィンランドの世界トナカイ放牧民協会 は200軒の古い屋外食肉解体場を廃し、10軒のEUの規制に準拠した食肉処理場を建てた。そこには管理者 と獣医が常駐し、やがてはEU市場に出回る年間1500トンのトナカイ肉の解体を監督している。
スコルト人は、市場の規制は商業には良いかもしれないが、地元民やその土地には良いとは言えないと感じている。新しいシステムにより、いつどこでトナカイの群れを集めるかを指定され、トナカイの世話には以前より費用がかかるようになった。ウラジミール・フェオドロフ氏の娘であり、サーミ議会の元議長ポーリーナ・フェオドロフ氏によると、囲いの中でトナカイを解体する伝統的な方法は汚染とは無縁だったが、現在のEU認定の食肉処理場では消毒のため化学物質を毎日使用しなければいけないという。さらに、多くの伝統的慣習、例えば、こぼれた血やトナカイの胃の内容物を地面に残し、踏み潰された囲いの中の土の肥やしとする習慣などは、もはや現代的なシステムでは見られなくなってしまった。
朝の日差しが、ビルベリー (学名Vaccinium myrtillus) に降りた夜の霜を解かす。ナータモ川沿いのシラカバ林にて。 写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
長い冬の間、乾燥した地衣類ばかりを食べて新鮮な栄養素を欲していたいたトナカイにとって、シラカバの新芽は、大切な春の食料だ。1966年、アキナミシャク (学名Epirrita autumnata)という寒さに弱いガが大量発生した際、川の流域では寒い気候 のおかげで立ち枯れを免れた。一方、南に面した丘のシラカバ林では冬の気温はマイナス35度以下にならなかったため、このガが生き残ってしまった。
「当時、母と一緒に釣りに行った時のことを覚えています」イレップ・イェフレモフ氏が当時を振り返る。「まるで真夏に大雪が降ったみたいでしたよ。魚は水に落ちたガを食べていたけれど、シラカバの木々はやがて乾燥し、枯れてしまいました」
かつては多様な生物の命を支えていた緑豊かなシラカバ林には、今ではシラカバの株がわずかに残るのみである。ノルウェーでは2005年以降新たに二度もアキナミシャクの大量発生が報告されている。スコルトの放牧者は、気候が暖かくなるとガの大量発生がより頻繁に広域で起こり、残っているシラカバ林を一掃しトナカイの大切な春の食料源が失われてしまうのではないかと心配している。個人のトナカイ放牧の毎年の移動ルートは、フィンランドの56のトナカイ共同組合が管理する領域の1つだけと限定されているため、放牧者はガの発生の影響を受けていない場所から離れて栄養の多い別の春の食料が得られる場所で自由に放牧することはできない。
テロ・ムストネン氏 がイリネン湖(彼が住む村、セルキーの近く)をボートで渡る。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
テロ・ムストネン氏は、長老たちの指導の下、フィンランド人祖先の土地密着型の伝統を生き返らせたいという個人的な情熱から2000年にスノーチェンジ共同組合を設立した。この組合は環境政策や慣習において伝統的知識の役割を生かすことを目的としている。フィンランド、セルキー村(ムストネン氏は村長兼伝統的な地引き網漁のリーダーを務める)に本部を置くスノーチェンジは、気候変動適応と緩和における伝統的知識を世界に知らしめるために大きな貢献をしており、現在ではコミュニティ型のネットワークとして賞賛されている。ムストネン氏はスノーチェンジの目標をこう述べる。「私たちの文化を取り戻すことです。この土地での完全な再生です」
スノーチェンジは気候変動に対する北極気候の影響評価、北極生物多様性評価、気候変動に関する政府間パネル (IPPC) の2014年に公表を予定している第5次評価報告書に大きく貢献した。これらの業績を振り返り、ムストネン氏は笑いながらこのように話す。「とても嬉しいですが、ちょっとパンクロックっぽいですね。だって私たち(コミュニティ型の協同組合)が大物たち(国際機関)と張り合いながらも、独自のやり方にこだわり続けているのですから」
フィンランドにある12以上の村の強固な基盤に加え、スノーチェンジの参加メンバーはニュージーランド、カナダ、ロシア、オーストラリアの伝統的知識に基づいたプロジェクトに取り組んでいるコミュニティ、組織、個人らを含め世界中に広がっている。スノーチェンジ協同組合の全メンバーは、世界中の先住民族や地域コミュニティが直面する環境劣化、開発、気候変動に関する課題に対し、各地域に見合った文化に基づいた解決策を検討している。
セルキー村の住民にとって、夏と冬に周囲の湖でサケ科のヴェンディスなどの魚を捕る地引き網漁は昔ながらの大切な生活手段だった。しかし今彼らはその漁における気候変動の影響を懸念している。セルキーの住民は風のパターン、凍結の遅れ、夏の気温上昇、春の解氷の早まり、降雪と降雨の変化など季節の移り変わりを観察してきた。アイスリード (湖の氷に割れ目が入ってできる水路)は、地元の人がなじみの場所ではできなくなり、冬の氷上の移動を危険なものにしている。
セルキーの昔からの住民が覚えているところによると、11月の中旬までに湖や川が凍ったのは1986年の冬が最後だった。今では1月に気温がマイナス20度を下回る夜が数日続くようになって初めて氷が張る。2010年セルキーから遠くない場所でフィンランド史上最も暑い日中の気温37度が記録された。夏の気温が上がると魚は冷たい水を求めて深い湖の底へと移るため、地引き網漁の漁獲が信頼できなくなる。
何世代も昔のスコルト人同様、ヨウコ・モシュニコフ氏は釣りキャンプに客を迎え、近くで釣り上げ塩味をつけて冷薫したタイセイヨウサケを供する。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
タイセイヨウサケ はスコルトの生活や文化遺産に非常に重要なものだった。実際彼らは自分たちをトナカイ放牧者というよりは漁師であると自認している。今日では、モシュニコフ氏は伝統的な珍味に加え、スペイン産のりんごやエストニアのウォッカなど、店で購入した品も客に出すようになった。これらはEU諸国からフィンランドへ送られてきたものだ。長い冬の夜、やけどしそうに熱いサウナとたっぷりの食事の後にはモシュコフ氏は日本製のホンダの発電機を回し、中国製のテレビで娯楽番組やスポーツ番組を楽しむ。
このような変化は利便性と快適さをもたらしてくれるが、モシュニコフ氏やほかのスコルト・サーミ人はそれらが招く影響と、グローバル経済が地域社会にもたらす利益の真のコストについて懸念している。気候の変化は、化石燃料による食料加工や交通手段に対して支払う代償であると理解している。その交通手段は自分の国に商品を届けてくれるが、ナータモ川でのタイセイヨウサケ釣りなどの伝統的な生活を続けることを難しくしている。しかしスコルト人はグローバル経済モデルを変えることに対して無力に感じながらも、変わりつつある条件下でサケ漁業を維持する方法を必ず探り出そうと決意している。
ヨウコ・モシュニコフ氏のキャビンのポーチにてこの地域の地図を調べるイレップ・イェフレモフ、ウラジミール・フェオドロフ、テロ・ムストネンの各氏(左から右)。後ろに見えるのはナータモ川の中でもタイセイヨウサケの最も大切な産卵場である。 写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
昨年の夏の作業を説明するため、フェオドロフ氏がイェフレモフ氏と共に訪れた全ての昔からの産卵場をムストネン氏に示している。これは「Skolt Sámi Survival in the Middle of Rapid Change(急速な変化におけるスコルト・サーミの生き残り)」というプロジェクトの一環だ。スコルト・サーミとスノーチェンジ協同組合、国連大学の伝統的知識イニシアチブ提携の目的はスコルト人による気候変動適応プラン策定を助けるためである。このプロジェクトはペルーに拠点を置く先住民族のNPO、ANDESが開発して統合し、UNUが支援を行っている国際先住民の環境変動アセスメント(IPCCA) イニシアチブの一部である。
地域の世界観と伝統的知識に基づいたコミュニティ主導の内省、評価、将来のヴィジョンを持つIPCCA の方法論を応用し、セヴェッティヤールヴィのスコルト人はコミュニティベースの気候変動適応策を開発している。この過程で集合的コンセンサスが生まれた。トナカイに対する気候変動の問題は重要なものではあるが、トナカイ放牧の現状を考えれば手に負えないものではない。それよりもスコルト・サーミは、彼らにとってもう1つの昔ながらの生活手段かつ文化的アイデンティティである伝統的サケ漁の方がはるかに大きな問題だと特定できたのだ。
その結果、提携したスノーチェンジとスコルト人はナータモ川の気候変動適応努力をスコルトの伝統的サケ漁のレジリエンス強化に焦点を絞ることにした。彼らは昨年夏、昔から知られる産卵場を全て見て回り、コミュニティベースのワークショップや討論会を何度も開いており、2013年にはナータモ川のタイセイヨウサケ共同管理プランの初稿の作成を目指している。これによってこの流域の他のサケ漁者や国の水産庁の代表とナータモ川のサケの将来について議論を始めることが目的だ。
9月末の朝、凍てつく空気がナータモ川を濃く覆う霧となり、川岸のシラカバの木々を包む 写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
ナータモ川は天然のタイセイヨウサケを育む北欧でも数少ない自然の川の1つだ。川はイナリ湖からフィンランドを北に80キロ蛇行しながら流れ、ノルウェーとの国境、バレンツ海から20キロのスコルテフォッセン(Skoltefossen)滝へと流れ込む。平均すると、この川で捕れる8トンのサケのうち20パーセントのみがフィンランドで捕れ、残りはノルウェーで捕れる。サケ捕獲用の魚網や竿を使うことが法的に認められているスコルト・サーミ人や他の地元住民の他に、毎年夏にはおよそ700人の観光客がサケを釣ろうとナータモ川に押しかける。
スコルト人は彼らの文化におけるタイセイヨウサケの重要性は国の漁業の省庁に正しく認識されていないと感じている。彼らはサケ漁や川の管理方法について発言権をほとんど持たなかった。だが、今後は彼らの気候変動適応プロジェクトが力の均衡を変え、国の役人やその他のステークホルダーにナータモ川のサケ漁の未来についてより公正な対話をしてもらうことができるようになるだろうとプロジェクトパートナーらは期待を寄せている。
ヨウコ・モシュニコフ氏のキャビンで朝食を食べながら、テロ・ムストネン、イレップ・イェフレモフ、ウラジミール・フェオドロフ各氏(左から右)は気候変動適応プロジェクトの次の策について検討している。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
ナータモ川のノルウェー側には河口につながる露天掘り鉄鉱石鉱山があり、フィヨルドを汚染している。スコルト人はこのセル=ヴァランゲル 鉱山についてはなす術がないと考えている。それに ノルウェーの養魚場を脱け出してきた養殖魚によってもたらされた天然サケの病気のリスクの上昇、繁殖障害、遺伝子汚染は防ぐこともできない。
それでも、このプロジェクトの最初の調査によると、このグループは国境のフィンランド川での伝統的なサケ漁のレジリエンスを高めるためできることはたくさんあると確信している。彼らの主な目標は産卵場所を増やし、ナータモ川でのサケの生存率を高めることだ。昔からのサケの産卵場所を復活させたり、サケ稚魚やスモルト(降海型幼魚 )を狙うキタカワカマス (学名Esox lucius)やカワミンタイ(学名Lota lota)、ミンク(学名Neovison vison)を減らすことも含まれる。またこのグループはサケ漁の季節に地元の人が法的に使用を許されているのは網3張り までだが今後は1張りまたはルアーしか許可しないようにすることも必要だと感じている。「スコルト人はひと夏に1人10匹のサケが捕れれば十分だよ」とフェオドロフ氏は言う。「売るためじゃなく食べるために釣っているのだからね」
スコルト人は、そのように明確な提言をすれば政府の水産関連の役人に対し自分たちのニーズとサケに関する伝統的知識の価値についての対話を進展させることができると考えている。フィンランドとノルウェーの国境のいずれの側にも生活、娯楽、観光の面でサケに依存している他の漁業者の集団がいるが、このプロジェクトは、そういった集団に対しても道を開くものとなる。この作業の究極の目標は「ナータモ川タイセイヨウサケ共同管理計画」を開発することだ。それによって既存の柔軟性のないフィンランド・ノルウェー間の二国間協定より、公正な意思決定統治機構が作られるであろう。プロジェクト提携者らは、ナータモ川のサケとの健全な関係が今後何世代も引き継がれていくことを願う全ての団体の参加と貢献を得られるような公正な空間を築けば、想定中の共同管理計画は現在の厳正なトップダウン型の体制を刷新できるだろうと願っている。
セヴェッティヤールヴィ湖畔の自宅前で、イレップ・イェフレモフ氏が 『Eastern Sámi Atlas(東サーミアトラス)』を見せている。開いたページには、1993年の冬に彼と犬のケプが魚網を見つめている写真が載っている。 写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
イェフレモフ氏は魚網を氷の下に張るなどのスコルト人の伝統的な活動に関する知識や写真を提供し『Eastern Sámi Atlas(東サーミアトラス)』編纂に協力した。スコルト人とスノーチェンジ協同組合がUNUと北欧閣僚理事会の支援を得て、スコルト気候変動適応プロジェクトの一環としてこのアトラスを編纂したのだ。包括的なこの研究書は、これまでどのサーミ族も記したことのない重要な土地活用の資料である。それには数世紀におよぶ彼らの歴史が写真や地図と共に紹介され、スコルト・サーミ人を含む東サーミ族がいかに固有の土地で暮らしてきたかを説明している。
だが、この本の真の価値は、これまで見えなかった歴史を見えるものにした真の地域努力であるという点だ。プロジェクトの活動とアトラスの出版が認められ、フィンランドの組織であるにもかかわらず、スノーチェンジ協同組合は2011年の年間最優勝スコルト賞を受賞した。
「スノーチェンジのサーミ族に関する活動はごくシンプルです。これは平和構築プランなのです」とムストネン氏は説明する。スノーチェンジは、固有のサーミの領土で何世紀にも渡って行われてきた南部フィンランド人による侵略と同化の痛ましい歴史を残すことを目的としている。「スノーチェンジがサーミ人と行っていることの目的はただ1つです。遊牧スクールプロジェクト であれ、気候変動適応対策であれ、アトラス編纂であれ、すべてはこの目的のために行っています。それは和解です。サーミ人と敬意を持って接し、所有すべき空間や権利を提供すれば、私たちは自らを癒すことができるのです」とムストネン氏はこのように話した。
見慣れない目にはフィンランドの湖や森は、9000年も前に氷河がこのあたりから北上へと退いた頃から手付かずで変わらないままの姿を保っているように見える。写真: ©グレブ・レイゴロデッツキー 2012年
地元民にしてみると、太陽、水、空気、森の相互依存関係は急激に変化しており、しかもそれは全くなじみのないものだ。「新しい風はどなたかな?」村の長老が尋ねる。「知らない風だが、それでもあいさつぐらいはしよう」。気候変動はスコルト固有の領土の様々な要素間の複雑な関係を変質させる。 気候的激変の時代にあって、スコルト人と彼らの土地の未来は土地、水、森、ツンドラ、トナカイ、サケの関係をバランスよく保つ方法を見つけられるか否かにかかっている。だがそれはこの地域の未来とバイオカルチャーの伝統に関心を寄せる人々、例えばヨーロッパの釣り人、ノルウェーのサケ養殖者、フィリピンのNGOなどと敬意ある協力関係を通してのみ達成が可能なのだと彼らは感じている。
「もう二度と見ることのないものにはさよならを言う時が来ました」とスノーチェンジのムストネン氏。「それと同時に、今は新たな知識を構築する時でもあります。この知識は固有の領土との強い結びつきがあって初めて現れるものです。この土地が変わりつつある今、私たちはこの土地に住み続けねばなりません。土地と共に自分たちも変わっていくためです」
このフォトエッセイは Conversations with the Earth (CWE): Indigenous Voices on Climate Change(地球との会話:気候変動に関する先住民族の声)イニシアチブの一部です。CWEに関する詳細については、FacebookとTwitterをご覧ください。
翻訳:石原明子