ジョイ・マーウィン・モンテイロ氏は電子通信工学において学士号を、開発のための情報信技術、気候変動の2つの分野において修士号を持つ。現在はバンガルロールにあるインド理科大学院大気海洋科学センターの博士課程に在籍中。古代、現代文明の物質的、社会的、経済的側面における並列的な相互作用の影響についての理解に努めている。
国連大学「地球環境変化の人間・社会的側面に関する国際研究計画」は、昨年グリーンエコノミーの人類的側面をテーマにした論文コンテストを開催した。このコンテストには世界各国の若い学者たち、特に途上国の研究者の参加が呼びかけられた。今回のOur World 2.0では、優勝したジョイ・マーウィン・モンテイロ氏の論文を紹介する。モンテイロ氏はバンガルロールのインド理科大学院大気海洋科学センターの博士課程に在籍している。
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エネルギーは活気ある文明社会にとってはもちろんのこと、命にとって基本的に必要なものである。はるか昔から人類はこの事実を認識してきた。ほとんどの文化で崇拝されてきた「太陽」、「風」、「火」、「水(川、滝、雨)」は、エネルギーが具現されたものと言える。ただし、産業革命前と現代の主な違いは、現代ではその崇拝対象が「火」に限定されてしまい、他がすっかり忘れ去られているとことだ。この論文では、なぜそうなったのか、また人類が再び他の「神々」に関心を向け始めた現在、人類の倫理観にどのような要素を取り戻すべきなのかについて述べたい。
太陽、風、水は、もともと恒常的ではなく周期的な存在である。太陽は毎日昇り、夜には沈む。風は季節ごとに変わり、夏に干上がる川もあれば、雨季に氾濫する川もある。そして雨がいつ降り止むのかを解明した人はいない。
こういったエネルギーの別の重要な特徴は、それらは雲散霧消し、貯蔵が難しいということだ。太陽、風、流水をそのまま貯蔵することはできないため、貯蔵できる形に変換する必要がある。このような実体は「流動的存在」と呼ばれ、私たちの周りにあるエネルギーのうち最も自然な形態だ。誰もが知る最も純粋なエネルギーである電気すら、電池に貯蔵するにはまず化学エネルギーに変換しなくてはならない。
そのようなエネルギーは扱いにくく、拡散する(濃縮しない)ものであるという事実の一方で、あらゆる実用的な面で恒常的でもある。交易のためインドへ向かうヨーロッパ人は季節風に合わせて航海に出たが、その際に途中で風が止んでしまうのではなどと心配する必要はなかった。今日が雲りなら、果実を天日干しするのは明日でいい。産業革命前の社会は、こうした変動性を理解しエネルギーを「収穫」する方法を編み出すことを常に考えていた。経済、社会、文化活動はエネルギーの干満を軸に回転していたのである。農業、風車、水車は流動的なエネルギーを「収穫」し、貯蔵可能なエネルギーに変換したり(穀物などの方法)、すぐに利用したりするための原始的な方法の1つだ。
ところが上述の「神々」は非常に気まぐれなので厄介だ。よって、料理など毎日休むことなく行う活動はそれに頼っているわけにはいかない。その救いとなったのが「火」だった。
魅惑的な火の話に移る前に、まず産業革命以前の人々が持っていた道徳的宇宙を分析しなければならない。当然だが、物の善悪を道徳的に判断するには周りのあらゆる要素を考慮する必要がある。太陽の動き、季節、花の種まき、渡り鳥、木々の結実などとして現れる自然の周期は極めて重要だった。よってこの周期にそぐわない行動は望ましくないと判断された。放牧、釣り、狩猟、休閑、一定の時期以外の花摘みや果物狩りなどに制限が課されたのも、制御できない自然のサイクルに人間が大きく依存していることを人々が十分認識していたからだ。そのため、あらゆる行動に対する善悪の判断は、季節や時間、人々が暮らす場所の自然環境によって異なった。これは利他主義や自然に対する抽象的な愛着によるものではなく、純粋に必要性からきていたのだ。
「火」はこの神々の誰とも異なっていた。それ自身がエネルギーなのではなく、エネルギーの源を代表するものである。それだけでなく、火はエネルギー源を濃縮したものの存在を示している。太陽光そのものは火にはならないが、鏡のレンズを通して光を集めれば大きな破壊力をもつ火が起こせることをアルキメデスは発見した。さらに火は崇拝者にたやすく利をもたらしてくれる。一度その術を学べば神を呼び出したり消したりすることは簡単に出来る。よって恒常性を必要とする人間活動が火を基本として成り立っていたのも当然だ。燃料さえあれば時間、場所、季節を問わず火が起こせるのだから。
ギリシャ神話で人類に火をもたらしたとされるプロメテウスが人類の偉大な英雄とみなされたのも驚くにはあたらない。神を「人間性の最高位にある者」と定義するならば、人類は火によって自身の運命をよりよく支配する術が与えられ、神になったということになる。火にこれだけの力があるのは、人間を取り巻く外的流動性に依存することなく、貯蔵してあるエネルギーから火を作り出すことが可能だからだ。
恒常性は商人だけでなく、他のどの分野の人々にとっても魅力的なものだった。
農業を中心とした時代から、次第に貿易や商業も行われる時代に移るにつれ火の重要性は急速に増した。その原因は貿易や商業の性質そのものにある。つまり貿易や商売はモノ、人、思考、文化の動きであり、動きには必ず何らかのエネルギーが必要だからだ。
貿易をある程度支配することは、それを動かすエネルギーを支配することを意味する。よって初期の商売(すなわち産業)は動物や人間(奴隷)の労働力、薪、帆船によって動いていた。人間はエネルギーを「収穫する」ことから、森、動物、不運な人間たちから「採掘する」方向へシフトしたのである。
事業を行う実業家や商人には、絶えることのない動き(モノであれ人であれ)が必要だった。動きこそ商売であり、商売は利益をもたらす。恒常性は商人だけでなく、他のどの分野の人々にとっても魅力的なものだった。恒常性は安定を意味し、先祖が築き上げてきた技術をさらに発展させる能力を増した。この意味で、恒常性は文明の最たる特徴なのである。しかし恒常性への需要は人類が格闘する季節風、反抗的労働者、怠惰な奴隷、思い通りの早さでは育ってくれない森林などとは相容れないものだった。
石炭(後に石油)への移行についても、この視点から考えなければならない。かつて道徳的方程式に必要だった多くの要素を組み込む必要はなくなった。人類は、ついに非人間界で起こる出来事に左右されず偉大な進歩を遂げることだけに意識を注ぐことが出来るようになったのだ。悲観論者も楽観論者も、世界の未来を語る際に人という種の未来だけを考えていた時代である。自然はもはや関係なかった。いずれにせよ人間はそれを征服してしまうのだから、と。
化石燃料による輸送、産業や家庭を動かす電気、農業のリスクを減らした農薬と肥料などは全て私たちが望んでいた恒常性を提供し、人類史上、比類ない繁栄と人口増加をもたらした。「収穫」の文明は「採掘」の文明にとって代わられたと言ってよい。火は唯一無二の真の神となったのである。
火は私たちの働き方や世界観を大きく転換させた。これまで1つの作物を特定の季節にしか収穫出来なかった農家は同じ作物を年中栽培できるようになった。仕事と休暇を太陽の動きに合わせていた人々には今では一般休暇、病欠、祝日が与えられている。年中働き、年中イチゴを食べ、年中27度に調節された家に住む。企業は世界中に支社を持ち、その帝国に陽が沈むことはない。労働者は眠るべき時間に働き、その逆もしかり。『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王のごとく、同じ場所にとどまるためには絶えず全力で走り続けなければならなくなってしまった。恒常性は結局のところ、それほど素晴らしいものではないことが見え始めてきたのである。
よって「善」と「悪」の判断材料が次第に減っていたのも当然の成り行きだった。そしてホモ・エコノミクス(経済人)はその判断による結論を信仰するようになった。別の言い方をすれば、石炭と石油が動かす世の中は、他のことを考慮に入れる時間を与えてくれないのである。理性に対する激しい衝撃でもない限り、追えば逃げるような完璧性に向けて、人々は息もつけない、だが安楽的な考えの競争社会から抜け出すことができなくなってしまった。
ここ二、三百年の間に人々が採掘してきた資源は、徐々に枯渇していくか、人類に反発するようになった。その最初の兆候は、共産主義、社会主義の旗の下、抵抗を示した労働者たちだった。私たちの時代を象徴する、人とモノの激しい移動は病気、植物、動物をもそれまで存在しなかった場所へ移動させることとなった。その結末は常に良好とはいえない。畑はしつこい害虫に悩まされている。どんな農薬を使おうと撲滅できないのだ。海には魚がほとんどいなくなり、大気中にはガスが充満し、最良のエアコンでも調整できないレベルにまでこの惑星を温暖化しつつある。火をもてあそべば、火傷を負わずに済むわけがない。
ゆっくりと、しかし確実に、そして渋々ながら、人々は内向きの文明が永遠に生き残ることは出来ないのだと悟り始めた。目障りな木も虫も、人類が何をしようが常に文明の一部でなければならない。この意識改革は(幾分皮肉なことに)、太陽、風、水と命のリズムを認識するところから始まった。科学者たちは、太陽光を得られる場所、高い風力・水力エネルギーの潜在性のある場所、豊かな生物多様性を持つ場所をマッピングし始めている。植物を地域環境に適応させたり、病害虫を生物学的にコントロールしたり、人の活動による生態系への影響を理解したりすることが行われている。すなわち、かつて人類がよく知っていたにもかかわらず都合よく忘れ去られていた事実を、人は再び痛みを伴いながら「科学的に」学習し直しているのである。私たちの道徳的宇宙は徐々に、確実に、ここ二、三百年も打ち捨てられていた荒地から拾い上げられつつあるのだ。
全ての命の生存と繁栄は私たちの正義の概念に基づいて成り立っていなければならないということだ。
しかしこの移行に当たり、根本的な矛盾が持ち上がっている。現在も採掘中心の私たちの文明が今は収穫の文明に属する技術を求めているという点だ。私たちは数世代にわたって恒常性に慣れ親しみ、文明の権化として崇拝してきた。今度はその恒常性を、気難しく制御不能で絶対的な自然を利用した技術によって手に入れようというのだ。
この矛盾は現在多くの議論や懸念となって表出してきている。有機農業によって現状の生活を続ける世界の人々を養えるのか。太陽熱発電を四六時中働かせるにはどうしたらよいのか。太陽光パネルや風車から常に電力を供給できるようなスマート送電グリッドは設計可能か。太陽、風、水の気まぐれに左右されない新たな蓄電池や燃料電池はどうか。空や海が耐えうる「持続可能な」汚染レベルとはどの程度なのか。
完全な収穫の社会に戻ることは夢物語に過ぎない。それは19世紀に人々が描いた無限の進歩と完全な社会的平等に似ている。だが少なくとも現在よりは自然と社会環境を考慮に入れた意思決定が行われなければ、私たちが大切にし、希求するものを手に入れることはできない。エネルギー産業は常に価格設定によって消費者の行動を決定付けてきた。しかし最大の消費者が最も裕福な人々であることを思えば、今後この方策が効果的かどうかは疑問だ。エアコン付きの家に済み、エアコン付きのオフィスで働き、エアコン付きの車で移動する人間が地球温暖化の問題と自らを関連付けることすらありそうにないからだ。
道徳的意思決定は、人やそれ以外の生物や非生物を含めた他者の存在に対する責任を持って下されなければならない。他者への義務であるというだけの理由で取るべき行動もある。私たちの道徳的宇宙は火に形作られ、同時に太陽のキスを受け、風と水の愛撫を受けるものであるべきだ。一番大切なことは、このような要素が合わさって「命」と呼ばれる輝かしい現象が生まれるには、全ての命の生存と繁栄は私たちの正義の概念に基づいて成り立っていなければならないということだ。私たちの幸福と生存は1つの分子から広大な海の健全性に至るまで、ありとあらゆるものが複雑に編み込まれた関係性に依存している。そこを誤って解釈してはならない。
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この論文は国連大学地球環境変化の人間・社会的側面に関する国際研究計画が発行する『Dimensions』創刊号に掲載されたものである。
翻訳:石原明子
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