ジンタナ・カワサキ博士はタイと日本両国で教育を受けた。東京農業大学において国際バイオビジネスの博士号を取得。他の生産システムと比較した有機野菜農業の持続可能性について研究した。カセサート大学(タイのバンコク)経済学部では農業経済の理学修士号を取得。2009年国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)に加わる以前はカセサート大学とコンケン大学農業経済学部にて講師を勤めた。UNU-ISPではタイでの気候変動による米の収穫高への影響と、経済予測に焦点を絞って研究を行っている。
山岳地域の棚田作りはアジア太平洋地域の一部で広く行われている。棚田は先住民族の文化や伝統的慣習、数々の山岳地域の生態環境と深く結びついている。
近年、気候変動の脅威はかつてないほど大きく立ちはだかり、極端な天候の頻度や強度に影響を及ぼすことが広く推測されている。予測される極端な降雨量の増加と、その結果生じる水循環の変化は、棚田の強度にとって試金石となるだろう。
こうした脅威にさらされている棚田群の1つに、フィリピンの美しいイフガオ棚田群がある。この棚田群は、先住民族のイフガオ族によって代々受け継がれてきた(イフガオ族には下位集団としてバナウエ族、ブンラン族、マヤヤオ族、ハリパン族、ハパオ族、キアンガン族などが含まれると認定されている)。イフガオ族は森林や棚田の管理者であると共に、地域の生態系や調和のとれた自然資源の管理に関する専門家でもある。彼らはイフガオ州の南部、中央部、西部の海抜800メートルから1500メートルの高地に暮らしている。
農業多様性と豊かな土壌に恵まれた熱帯雨林地域に位置するイフガオ棚田は、印象的な景観を見せる、水管理の優れた一例である。そのため、1995年に国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録されたのも不思議ではない。
この地域には2つの季節がある。11月から5月までの長い乾期と、6月から10月までの雨期だ。棚田の複雑な水循環と森林を維持するために、山の頂上から中腹に至る地域は分水界として保護されており、松やコケ、薬草、野生動物などの自然資源の保護と保全のための指定区域である。同地域での人間の活動は必然的に制限され、樹木の伐採は特に禁止されている。しかし、より低い山腹から棚田に至る地域では、イフガオ族の人々は材木や森林生産物を収穫することが許されている。
イフガオ州には13の主要な水域があり、その水源は主に地表の流去水(地中に吸い込まれずに流れる雨水)と地下水である。こうした水源は棚田の灌漑(かんがい)に利用されると共に、家庭での水使用に用いられる。稲作のために水資源を管理するこのユニークなシステムは長年かけて発展し、漏水や蒸発や降雨を注意深く管理することでバランスが保たれている。高い場所にある稲田から漏れ出た水は、より低い場所にある稲田で再利用され、稲田に水を補給する。
また、イフガオ族は水を溜めておくために、固めた土や石を使って壁や堤防を作る。それによって土壌の浸食を防ぐと共に、集中的な稲作に適した稲田を作ることができる。さらに、イフガオ族のコミュニティーは、山岳というランドスケープの様々な水量状況や気温条件に適した稲の品種を数多く開発してきた。典型的には、どの家族も3種以上の稲を植え、翌年のために種を収穫している。
イフガオ棚田は持続可能な管理下にある。ところが地域に住む16万2000人のイフガオ族の人々のうち、56パーセントが貧困に苦しんでいると、2000年フィリピン政府は認定した。ほとんどの世帯が農業から収入を得ており、主作物である米と、補助的に野菜とフルーツを作っている。
フィリピンは、特に観光産業による経済成長の恩恵を享受していると考えられるが、棚田を維持する先住民はその恩恵に浴していない。しかし、こうした状況はゆっくりと変化している。なぜなら多くのイフガオ族の若者は工業や観光業界での就労を好み、棚田での労働を拒んでいるからだ。
イフガオ州の将来の気候に関する予測では、気温が2020年までに0.9度上昇し、2050年までに1.9度〜2.1度上昇するとされている。
都市部に行けば収入を得られるかもしれないという状況が、イフガオ族を支えてきた伝統的な知識の存続を脅かしている。その一方で、棚田の生態学的機能は、気候やその他の環境的変化に対して非常に弱い。予測では、気候変動によって豪雨の強度が増し、乾期が長くなり、結果として水の供給量が不足し、地滑りによる災害や棚田の崩壊が起こるとされている。
気候に関する予測には見解の不一致や不確実性があり、気候変動への適応戦略を立てるのは難しい。しかし、世界的な気候変動に関する過去の様々な研究モデルによる過去の予測に基づけば、今後の気温変化について多少なりとも一貫したパターンが見られる。イフガオ州の将来の気候に関する予測では、気温が2020年までに0.9度上昇し、2050年までに1.9度〜2.1度上昇するとされている。さらに雨量の変化も予測されており、降雨量は6月から8月の間に最も増加し、3月から5月頃の最も暑い時期には減少するという。
従って、気候変動が誘発する天候パターンの変化は、コメの生産に重大な影響を及ぼすと考えられる。国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)の「気候変動への適応策を考慮した開発戦略に関する比較研究」プロジェクト(三井物産株式会社の支援を受けた、複数の大学との共同研究)は最近、ヌエバ・エシハ州の灌漑(かんがい)地域と降雨に依存する地域でのコメ生産への気候変動の影響を評価した。同地域はイフガオ棚田群の南部および南東部に位置する。
コメ生産への影響を評価するために、統計的ダウンスケール手法(SDSM)と呼ばれる方法で未来の気候傾向を局地レベルに細分化した。その結果、日平均気温が1.17度あるいは0.89度上昇した場合の2つの異なるシナリオに基づくと、2080~2090年の雨期におけるコメ生産量は現在より最大25パーセント減少することが分かった。
実際、イフガオ棚田は低い生産性が原因で、過去50年の間におよそ1万5000ヘクタールが放棄された。そのため、2001年にはイフガオ棚田は、人為的脅威や気候の影響により危機にある世界遺産リストに登録されたのも無理はない。
先住民による棚田システムは精巧な水管理体制ではあるものの、特に極端な天候に適応する機能はあまり発達していない。今までのところイフガオ族は土地固有の品種を植え続けてきたが、固有種は外来種に比べて弱い。
できるだけ早いうちに先住民は、何世紀も受け継がれてきた知識を活用するなどして、こうした不確実な事象に対する直接的な対策を講じなければならない。しかし、洪水や干ばつのリスクに対する稲作システムの耐性を強化し、将来に向けて新たな水管理の方法を模索するための、生態系に基づいた適応戦略を開発するには、科学的知識の利点も活用しなければならない。
こうした課題への取り組みとしてUNU-ISPは新たな研究を開始している。アジア太平洋ネットワークの支援を受けたもう1つのプロジェクトで、フィリピン大学ディリマン校と、中国の雲南師範大学および西南林業大学西南林学院との共同研究である。研究の目的は、生態系に基づいた適応策を開発し、アジア・モンスーン地域における伝統的な棚田稲作システムのレジリアンスを強化することだ。さらに、フィリピンのイフガオ棚田群と中国のハニ棚田での事例研究を通して、洪水と干ばつのリスク低減も目指す。
同プロジェクトは今後、地域の農業従事者の暮らしを改善するための、気候と生態系の変化に対する適応策を提案すると共に、調査結果を地域社会や政府、大学院教育における能力開発のための訓練モジュールに取り入れる予定だ。
生態系の問題や気候変動の脅威が山積する一方で、システム指向型アプローチの必要性に関心が高まる今日の世界では、科学と地域的知識のように相互に強化し合うテクニックの統合こそが、真に持続可能な解決法を生み出すのだ。
翻訳:髙﨑文子
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