隅に追いやられたコモンズは主流になれるか?

自然、文化、経済活動の多くはコモンズがなくては成り立たない。コモンズに含まれるのは、大気や海洋、野生生物や種、インターネット、科学知識、創造的な仕事など、数え上げればきりがない。しかし、企業が支配している市場は、私たちのコモンズを私有化し、商品化するためならどんなことでも仕掛けてくる。結局のところ、深海底を掘削したり、動植物の遺伝子の特許を取得したり、農作物の種子の所有権を要求したり、通常の物質に代わる新しい人工のナノ物質を所有したり、ソフトウェアのプログラムを動かす数式を自分のものにしたりすれば、大金が転がり込んでくるのだ。

私たちの時代において、気づかれないままになっているこの一大不祥事は、私たち全員の所有物を市場が囲い込んでいることだ。私たち全員に属する共有の資源を無償または安価で使えるようにする代わりに、企業はそれらを私有化し、私たちに対価の支払いを求めている。この問題は、ラージ・パテル氏の「The Value of Nothing(ゼロの価値)」、ローレンス・レッシグ氏の「Free Culture」、ルイス・ハイド氏の「Common as Air(空気ほどに共有すべきもの)」、それに私自身の「Silent Theft(盗みはひそかに行われている)」などの書籍に詳しく説明されている。

現代の囲い込みに至るまでの歴史を振り返るより、私はここでは、今後それにどう立ち向かっていくかに重点を置きたい。どうすれば、より効果的に囲い込みと戦い、政治や経済、文化におけるコモンズのパラダイムをわかりやすくして、重要度を高められるだろうか?

私たちはまず、政治の世界にもコモンズが存在することを認める必要がある。もっとも、政治はコモンズをことごとく敵対視する。実際、国家や市場にはコモンズを毛嫌いして当然の理由がある。第一に、そのどちらも、コモンズを利用することで得られる利益に目がない。そして、互いの政治目的を支え合っておけば便利だと思っている。

「複占」をむさぼる市場と国家の二者が、コモンズを疎んじる理由は他にもある。コモンズは、コモナー(コモンズの共益者)への重大な権力移譲や新たな形態の社会的公平をしばしば必要とする。そこで、政治的に利益が一致することの多い市場と国家は暴挙に出る。つまり、コモンズの囲い込みだ。

私たち全員に属する多くの資源が私有化され、商品化されているのは、企業がそれらを貪欲な市場マシーンに食べさせるための無料あるいは安価な飼料と見なしているからだ。同時に、これらの資源は彼らにとって、安価で便利なゴミ捨て場でもある。つまり、外から入ってくるもので、企業が気に入らず、コストに含めたくない場合は、すべてそこに捨てればいいと思っている。

コモンズと市場の論理を比較する

コモンズについての認識を高め、政策論議の重大な要素にするためには、私たちが囲い込みにもっと激しく抗議をしなければならない。というのは、実はコモンズの私有化は、重大な公民権の剥奪にあたるからだ。

それを前提として、私たちコモナーはもっとうまく「コモンズの価値提案」を明確化して、推進していかなければならない。私が言いたいのは、こういうことだ。つまり市場は、物質的な富がどう作り出され、人間がどう進歩するのかについて、独自の論理をうまく組み立て、積極的に広めている。それは、私有権、金銭、市場取引がどう富を生み出すのかという論理である。それはまた、国内総生産を幸福に置き換えて考えるプロセスである。市場の論理は、より大きく、より良く、より速く、を求める。それは、私たちの時代においては最も有力な規範で、世界的な宗教の公共要理であるが、今、2008年の経済危機のおかげで、ようやく解明が始まっている。

コモンズの論理はまったく違う。主流となっている市場経済の論理がなおざりにした空所を満たすものなのだ。コモンズの価値提案は「収支決算」で表現できるものではない。というのは、それはつきつめれば、コミュニティの権限委譲、社会的公平、生態学的安全保障に関わるからだ。ただ残念ながら、少なくとも現在の時点では、一般の人々にとってはとらえどころがなく、複雑な理屈でしかない。

コモンズの論理が主流になりにくい理由は他にもあり、その中には、コモンズの本質的な価値にもっぱら関わるものもある。標準的で普遍であることを前提とする市場の論理とは異なり、コモンズは、それぞれに異なる特徴を持ち、各地で根を下ろした無数の事例で構成されている。市場は成果を量的な物差しで測るので、誰が最良か、誰が一番の金持ちか、などの比較も容易だ。対照的に、コモンズの価値は質的、社会的、精神的、生態学的に複雑で、長期にわたる傾向がある。言うまでもなく、これらの価値は表計算ソフトにはめたり、「コモンズ500」のようなランキングに仕立てたりできるものではない。だから、コモンズを独立したセクターと見なして名付けるのは、より困難なのだ。よって、コモンズの返還を要求したり、最初から築き上げたりするのは、さらに困難なことだろう。

市場の論理は、より大きく、より良く、より速く、を求める。それは、私たちの時代においては最も有力な規範で、世界的な宗教の公共要理であるが、今、2008年の経済危機のおかげで、ようやく解明が始まっている。

加えて、コモンズの論理構成は関係性に基づくものであり、取引で考えられるものではない。市場は個人のイニシアチブ、衝突、競合、勝者と敗者に焦点を合わせている。一方、コモンズにおいては、管理責任、コミュニティの利益、持続可能性が重要だ。メディアにとってはどちらの方が刺激的で興味をひくだろうか?

ただし、逆説的だが、コモンズは市場の成立に必要なあらゆる仕事をやっている。だが、こういった仕事は普通、認められない。「思いやり経済」や、その他のいわゆる「女性の仕事」は影の経済の一部である。影の経済は、広範でありながら会計簿に記載されることもなく、それでいて表の経済を支えている。自然もこのような影の経済の一部だ。公有されている情報や文化もそうだ。おわかりだと思うが、表の経済が自慢する「生産性」は、目につかないコモンズの下支えの数々をひそかに頼りにしているのである!

課金の壁や特許が技術や知識の利用を私有化するのに用いられている一方で、医学上の知見や科学知識、その他の文化的所産を誰もがいつでも、自由に利用できるようにしている組織がある。

もちろん、市場と国家の複占に関わる多くのリーダーは、これで困ることはない。彼らはコモンズを影の存在にしておく方がいいと思っている。会計簿に記載されない貴重な裏方になぜ注意をひく必要があろうか? コモンズを名もなき存在にしておけば、競争力の土台として、力を持たせずにおくのも容易だ。呼ぶ名もなければ、コモンズを利用しようと、濫用しようと、誰も咎めはしない。こうして、コモンズを防御するコミュニティを組織するのはますます困難になる。現状を打破するかもしれない、コモンズに基づく代替案は簡単に無視され、何の波紋も呼ばない。

コモンズの論理を主流に持ち込むのは多くの国で困難なことだが、米国では特に顕著だ。というのは、コモンズの論理は、無干渉の個人主義を支える基本的な前提条件と合わないからだ。たとえば、米国が1800年代にネイティブアメリカンを征服しようとした時、最初の主張したのは、米国市民になる法的必須条件として、共同所有の制度を放棄し、各個人に私有権を与えることだった。住民を分裂させるのに、これ以上の方法は考えられない。

戦略はこうだ。まず、コミュニティが独自に持っているつながり、資源、社会の伝統やルールなどをばらばらにする。そして、コモナーを消費者と生産者に変え、貨幣経済への依存を強めるように仕向けるだ。

この囲い込みの力学は今でもさんざん使われている。戦略はこうだ。まず、コミュニティが独自に持っているつながり、資源、社会の伝統やルールなどをばらばらにする。そして、コモナーを市場システムに沿った個人の消費者と生産者に変え、貨幣経済への依存を強めるように仕向ける。私たちは、「自由市場」が文化施策とアイデンティティの転換を伴うことがあると率直に認めなければならない。

今日、しばしば議論されるのは、コモンズは過去の遺物にすぎず、それを持ち出すのは前近代への後退だということだ。そういう人たちは、コモンズは非実用的、非効率的、そして「悲劇」だと言う。共産主義と国家社会主義の失敗がいまだに感じられる中、自主的に組織された集団行動は「自由」を脅かすと言い張る人がいる。私たちはコモンズの真の価値提案を明言して、このような誤った認識と戦う必要がある。

コモンズの歴史は深く根を張っている

批判の中に正しい部分があるのは認めよう。たしかに、コモンズの発祥は前近代である。さらに言えば、私自身は、コモンズは人類と同じくらい長い歴史を持っていると確信している。今日の市場や国家よりも前に誕生したのだ。コモンズの歴史の偉大な研究者、ピーター・ラインバー教授の言葉を借りれば、コモンズは「法や国家の時代性とは無縁」である。

今日、進化生物学者、遺伝学者、人類学者は、協力は人類の特徴だと言う。彼らいわく、協力は「進化の安定戦略」で、生存をかけた争いを続けるホモサピエンスに競合上の優位性をもたらすものだ。科学者によると、言語、農業、利他主義、さらには白目といった進化のイノベーションは、協力して社会的信頼関係を築くという、私たちが本来持つ傾向を反映している。

共同の利益を守る制度は、社会的秩序の発展とともに整備が進んだ。ローマ時代には、ユスティニアヌス皇帝が共同所有を反映するいくつかのカテゴリーを法律で定めたことが知られている。全員によって全体で所有されているものは「共有物」と見なされた。ユスティニアヌス皇帝の法典には、「自然の法則により、大気、流水、海洋、それにしたがって海岸といったものは人類が共有する」と記されている。他の財産カテゴリーには、国家社会に属するものもある。野生動物や放棄された財産など、誰にも属さないものは、無主物と見なされた。

コモンズの歴史で他に画期的な出来事といえば、1215年の「大憲章」、それに数年後の「御料林憲章」の制定である。コモナーおよび貴族と国王の間で衝突と内乱が続き、ジョン王はついにコモナーの権利を正式に認めることを余儀なくされた。その中には、法に基づく適正な手続きを受ける権利や人身保護令状を要求する権利から、生存のために基本的に必要とするもの(食料、燃料用木材、建築用資材など)を得るために森林のコモンズを使用する権利までが盛り込まれていた。

このような歴史を持ち出したのは、これもまた、コモンズが隅に追いやられた理由の1つだからだ。歴史の多くは忘れられたり、歪められたりする。たとえば、今日に至るまで影響力を持つ、かの有名な私有財産論を提唱したジョン・ロック氏のことを思い出していただきたい。彼は、人々が自ら汗を流して作ったものについて私有権を主張するのは、人々が神から授かった権利だと見なしていた。しかし、ここで大抵、見落とされていることがある。彼は、「他の人たちと共有する分が十分に、良好な状態で残っているかぎり」という条件をつけていたのだ。

対照的に、コモンズの法律の歴史を掘り起こすことにより、人間の幸福には、地域(政治的な境界線とは一致することも、しないこともあろう)の生態系の保全と現地や地域のコミュニティの安定を尊重することが最も有効だと示せる。

言い換えれば、私有権は、共有物として蓄えられている資源が手つかずで保存されている場合に限って、正当化されるのである。そこでコモンズはしばしば必要とされる。ウォ―ル・ストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズは、そういったことを忘れていると言っていいだろう。ミラン・クンデラ氏の有名な一節を思い出した。「権力との闘いは忘却に対する記憶の闘いである」

「コモンズ法」と私が呼ぶものの歴史を、一貫性をもって全体として理解していなければ、コモナーが自らの所有物のことを司法や立法の場で説明するのは難しいだろう。法律はコモンズに基づくアプローチを無視したり、却下したりすることがよくある。だからこそ私は現在、アイオワ大学法学部で国際法と人権を専門とする、高名なバーンズ・ウェストン教授と力を合わせて、この歴史を掘り起こし、まとめなおそうとしている。私たちはローマ時代にさかのぼり、大憲章、御料林憲章、公共信託理論、さらにその間の出来事を見直し、コモンズに法的権限を与える「コモンズ法」大全をあらためて作りたいと思っている。私たちはこれを「コモンズ法プロジェクト」と呼んでおり、数年をかけて、生態学的ガバナンスとの協調も探りながら努力を続けている。

私たちが自然の生態系の保護に向けた新たなアプローチを考え出すためには、コモンズに関する法律の歴史を掘り起こし、私たちの時代に合わせて作り直さなければならない。既存の法律は、最大限の利益は自然資源を市場で最大限に活用することから生まれるという考え方に基づいている。その前提は、それらの資源は無尽蔵にあって、市場活動の副産物(大気汚染、水質汚濁、有害廃棄物、気候変動など)は取りに足らないものだということだ。これは単純に間違いである。だが、今日の法律の根底にある前提は、アダム・スミス氏の「見えざる手」で高らかに謳われているように、私有権、個人の私利、市場における取引を最大化することによって、公益はより大きくなるということだ。

だが対照的に、コモンズの法律の歴史を掘り起こすことにより、人間の幸福には、地域(政治的な境界線とは一致することも、しないこともあろう)の生態系の保全と現地や地域のコミュニティの安定を尊重することが最も有効だと示せる。市場はこれらのニーズに従うべきなのであり、統べるべきではない。法律と公共政策の枠組みの中で、コミュニティは市場主導の自然の利用を制限する新しい方法を見つけなければならない。コモンズに基づく新しいタイプの法律は、こういったところで有益だ。また、生態学上のコモンズを保護する、新しいタイプの法社会学的なメカニズムを考え出すのにも役立つ。さらには、今日の環境活動家が政策提言をする際に訴求できる、貴重な道義や法理までもたらされる。

大きな意味で言えば、コモンズの歴史を掘り起こせば、コモンズの偉大なる新理論の確立が進むのだ。過去の囲い込みの力が今日どう繰り返されているのかも理解することができる。囲い込みの被害者が誰であるか(女性、貧困者、高齢者をはじめ、コモンズがなければ生きていけない人々が主だ)も見分けがつくようになる。

垣根を破壊する

コモンズの歴史はインスピレーションの源だ。コモンズの歴史を見れば、共有の富と自決権を守ろうと奮闘した過去のコモナーの創造力がよくわかる。ごく最近、私は「境界をたたく」という、中世からの伝統行事を知った。コミュニティが年に一度、コモンズの周囲を歩いて、コモンズの境界を確認するのである。ふさわしい食事と飲み物も供される。

この行事はコモナーとしてのアイデンティティを讃えるもので、その間、コモナーは柵や垣根、その他の囲いを取り壊すことができた。私はこのような事実を知って、目が開かれる思いだった。コモナーはかつて、自分たちの共有の資源に囲いが設置されたら、それを取り壊す権利が法的に認められていたのだ! 私たちは、今日直面している課題を理解するためにも、コモンズの歴史を掘り起こし、覚えておく必要がある。

私は、政治的なイデオロギーを超越し、パラダイムシフトとともに異なる世界観を提案するコモンズには大きな潜在力があると思っている。コモンズは経済、政治、文化、人間主義を撚り合わせ、一貫性のある1つの理論にまとめる。個人に自助力を与える。人々を相互に、そして地球とあらためて結びつける。個人の意味と社会の伝統をよみがえらせる。生態学的資源の持続可能な管理も促進する。

私にとって、最も価値があるのはコモンズの倫理観だ。フランスの政治家でコモンズを信奉するアラン・リピエッツ氏は、「コモンズ」という言葉の語源を探り、ウィリアム征服王とノルマン民族までさかのぼった。私はこの言葉の語源を非常に好ましく思っている。元のノルマン語は「commun」で、それは「munus」に由来し、意味は「贈り物」と義務としての「返礼」の両方だ。「Munus 」は経済学者のカール・ポランニー氏が「互酬性」と称したものに関係がある。

私たちは、私たち全員が贈り物を受け取り、義務を負っていた世界を再構築する必要があると思う。これは人間として重要なあり方だ。悲しいことに、中央集権的な政治と経済の構造が拡大すると、私たちが贈り物や義務を必要としていることなどは隅に追いやられる傾向がある。私たちはすべてを金銭か国家に頼っている。そして私たちはイヴァン・イリイチ氏が「ヴァナキュラーな領域」と称したものを忘れてしまった。「ヴァナキュラーな領域」とは、日常生活の空間であり、その中で私たちはコモンズとして作り出し、形にして、物事をどうするかを話し合う。

基本的な問題は、私たちが「コモニング」を再発見する必要があることだ。「コモニング」とは「コモンズ」の動詞形で、一連の社会的習慣である。ピーター・ラインバー教授は次のように書いている。「コモニングの魅力は共有する資源の相利作用から生じる。すべてのものが利用され、何も無駄にならない。互酬、自己意識、進んで議論する姿勢、長期にわたる記憶、集団での祝福、相互扶助がコモナーの持つ特性である」

実際に今、私たちは数え切れないほどのコモナーがそれぞれのスタイルで立ち上がっているのを目にしている。彼らはコモンズこそが、政治をどう行い、経済を概念化し、民主主義に新しい活力を与えるかの枠組みを決め直す劇的な方法だと考えている。

そして、本当に素晴らしいことに、コモニングは歴史の産物というだけではない。それは今もしっかり息づき、発展しているのだ! 実際に今、私たちは数え切れないほどのコモナーがそれぞれのスタイルで立ち上がっているのを目にしている。彼らはコモンズこそが、政治をどう行い、経済を概念化し、民主主義に新しい活力を与えるかの枠組みを決め直す劇的な方法だと考えている。

2010年11月、34ヵ国からコモナーを名乗る約200名がベルリンに集まり、ハインリッヒ・ベル財団とコモンズ戦略グループによって開催された第1回国際コモンズ会議に参加した。ふたを開けてみると、集まったのはフィリピンの農業アクティビスト、アムステルダムのコンピュータ・ハッカー、クロアチアの都市計画に反対する運動家、ブラジルの自由な文化の提唱者など、一見したところまったく異質な人々だったが、実は共通する点をたくさん持っていた。彼らは全員が、参加、包含、透明性、社会的公平、集団でのイノベーションから成る倫理を大切にしている。

驚くほど大規模で堅固なコモナーの多国籍コミュニティもいくつかあり、彼らは共有の富を管理することにおいて、目覚ましい進歩を遂げている。それらの中には、GNU Linuxや数千もの共有ソフトウェア・プログラムを作ったフリーのソフトウェア・プログラマーの巨大ネットワークも含まれている。世界数十ヵ国にもいるウィキペディアンは史上最大の事典の編集に携わっている。50ヵ国以上で活動する数百万人ものデジタル・アーティストや作家はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを使用している。高価な商業学術誌を通さず、研究者が自らの研究成果を永遠に無償で使えるように提供するオープンアクセス学術出版の世界も広がり続けている。オープン教育リソースの運動は、誰でも自由に使える教科書、カリキュラム、学習資料を作成、共有しようというものだ。

このようにデジタル・コモナーの世界が爆発的に広がっている他にも、コモナーを自認する人々はさまざまな活動を展開している。そのなかには、ごく一部を挙げるだけでも、緑があふれる都市空間の創成に取り組むコモナー、遺伝子知識の無償公開を継続させるために奮闘するコモナー、公共の道路に太陽光パネルを設置しているコモナー、オープンソースのハードウェアと農業機械を製作しているコモナー、生態系保護を推進するためにインターネット技術を巧みに利用しているコモナーなどが含まれる。

では、私たちはこれから、どのように新たな対話を公開し、新たな協調関係を築いていくことにしようか? 私は次のような戦略を提案したい。

そして最後に、コモンズの研究者、実践者、アクティビストの絆を強化して、互いに学び合い、互いの仕事を助け合えるようにする。

愚かしいほど大きな望みを並べたものだとは思うが、一方では大きな夢を見る理由も十分にある。私たちの問題は非常に克服が困難なものだが、私たちのエネルギーも増大している。今こそ、コモンズを次のレベルに高める時だ。

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このエッセイは当初、 Stirに掲載されたもので、著作権は© David Bollier 2011 にあり、クリエイティブ・コモンズ・アトリビューション3.0ライセンスに基づいて発表されている。

翻訳:ユニカルインターナショナル

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隅に追いやられたコモンズは主流になれるか? by デビッド・ ボリアー is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.
Based on a work at http://stirtoaction.com/can-the-commons-move-from-the-margins-to-the-mainstream/.

著者

デビッド・ボリアー氏は長年にわたってコモンズを研究しているジャーナリストおよび活動家である。コモンズ戦略グループ(Commons Strategies Group)の共同設立者、パブリック・ナレッジ(Public Knowledge)の共同設立者であり、2003年から2010年までOnthecommons.org の設立編集委員を務めた。現在はBollier.orgにてブログを運営している。ノーマン・リア・センターのシニアフェローでもあり、著書は「Brand Name Bullies(有名ブランドの蛮行)」「Silent Theft(盗みはひそかに行われている)」、近著「Viral Spiral: How the Commoners Built a Digital Republic of Their Own(バイラル・スパイラル:コモナーはいかにして自らのデジタル共和国を築いたか」など10冊を超える。