自給自足への欲求は常に人間社会の持つ共通の特性であり続けてきた。結局のところ、他人に依存したい人などいないし、それが生活に不可欠な物品やサービスに関してのことなら、なおさらだ。地政学的観点から見て、事情がエネルギーのこととなると、こうした感情はほぼ間違いなく最も強く働く。アラブ諸国による石油禁輸、ロシアの対欧州ガス供給ストップ、「石油という武器」の行使をちらつかせるベネズエラやイランの脅迫はすべて、輸入諸国のエネルギー自給への衝動をかき立てた。
この衝動にアメリカほどとらわれている国はない。アメリカでは過去40年間にわたり、エネルギー自給の確立が政府のエネルギー政策の要だった。共和党と民主党の唯一の違いは、前者は供給サイドの解決策(2008年のスローガンは「掘れ、ベイビー、掘りまくれ」)を強調しているのに対し、後者は課税や燃料経済性基準の引き上げによって石油使用を抑える「石油ダイエット」の必要性を訴えていることだ。
その結果、アメリカ国民の圧倒的大多数は、エネルギー自給が国家の安全保障を向上させ、負債と予算危機を改善し、ガソリン価格を低く安定させると信じるようになった。こうした世界観は、現代の世界エネルギー市場が実際にどのように動いているのかに関する神話と理解不足に基づいている。真のエネルギー安全保障には、不断のエネルギー供給と手頃なエネルギー価格の両方が不可欠である。今日のグローバル社会において、エネルギー自給は、そのいずれも保障しない。
自給は本当に可能か?
国家のエネルギーは通常、いくつかの商品から構成されている。石炭、天然ガス、バイオマス、ウランは、多くの国の電力生産で使用されている一方、石油と石油製品は輸送部門で大きな割合を占める。この2部門のいずれかで自給性を確立できる国もある。例えばアメリカの電力部門は事実上、自給できている。それ以外の国々も電力部門ではさほどの遅れを取っていない。例えば、フランスの電力の78パーセントは原子力発電であり、ブラジルの電力の82パーセントは再生可能エネルギーだ。しかし世界195カ国のうち、本当の意味で自給性を獲得している国はほとんど皆無だ。炭化水素に恵まれたロシア、サウジアラビア、ベネズエラ、ブラジル、カナダといったエネルギー豊富な国でさえ、国内での石油精製能力が不十分なために、石油精製品という形でエネルギーを輸入している。
新たな精製所を建設する方針を立て、投資すれば、エネルギー輸入への依存は削減できる。しかし、多くの国はそうできるほど幸運ではない。世界のトップ10カ国のうち、理論的に自給性を確立できるのはブラジルとカナダという2カ国だけだ。その他の国々、例えば中国、日本、ドイツなどは、国内での需要に見合うほどの資源に恵まれておらず、エネルギー輸入への依存は飛躍的に増し続けている。つまり、炭化水素が電力システムと輸送システムの両方に大きな影響力を及ぼし続ける限り、多くの国は決して自給性を獲得できず、世界のエネルギー取引システムに依存し続けるのだ。
当てにならず、経済的でもない
エネルギー自給性を追求することは戦略的な解決策(例えば国内生産量の増加や燃料経済性の義務付けなど)に適している。こうした解決策は国の貿易収支と環境にポジティブな効果をもたらすかもしれない。その一方で、自給性の追求は世界の原油価格や地政学に著しい影響は及ぼさないだろう。なぜなら石油は、世界市場で刻一刻と価格が変わる代替可能商品だからだ。石油1バレルの価格は多かれ少なかれ、消費者1人1人の影響を受けており、価格が急騰した場合、石油の供給元がどこかに関係なく、消費者全員に影響を及ぼす。(これは天然ガスには必ずしも当てはまらない。なぜなら天然ガスが液化天然ガスの形で取り引きされる場合を除き、価格は長期的な契約で事前に決まっているからだ)
例えば2008年、イギリスは事実上、石油を自給できていた。しかし、輸入依存型の他の経済諸国に一致して、イギリスで車に乗る人々は原油価格の急騰に影響を受け、その結果、ガソリンの価格高騰をめぐる抗議活動が起こった。過去10年の間に、アメリカの石油生産量と車両全体の燃料経済性が急激に高まった。結果的に、アメリカの石油輸入率は2005年の60パーセントから2012年の42パーセントに下落した。ところが世界トップの石油消費国であるにもかかわらず、アメリカの状況は原油価格に目立った影響を全く及ぼさなかった。それどころか、輸入石油がアメリカ経済に与える負債はほぼ2倍になり、全体的な貿易赤字の中で石油輸入費が占める割合は2005年の32パーセントから2011年の58パーセントに増加したのだ。
上記2例の事例研究では、自給性を高める対策は必ずしもエネルギー価格の下落につながらないことが示唆されている。エネルギーを輸入しているか生産しているかにかかわらず、すべての国は世界のエネルギー市場の一部である。こう考えると、エネルギーを自給すれば欧米諸国に敵対的な中東の石油輸出諸国を弱体化できるという通俗的な主張にも疑いが生じる。石油輸出国機構(OPEC)の加盟諸国(世界の従来型石油資源の80パーセント近くを支配している)は自国の経済を維持していくために、ある種、損益なしの石油価格を必要としている。OPEC加盟国以外からの石油価格が上昇したり、需要が落ち込んだりすれば、OPECは加盟国政府が望むレベルまで石油価格を回復しようと試みて、生産量をむしろ削減しかねない。
石油輸出国は地政学的理由に基づき、効果的な禁輸措置を使って輸入国を処罰したり攻撃したりできるという主張も、同じように根拠の弱い論点だ。例えば、何らかの理由でサウジアラビアがアメリカへの石油輸出量の削減を決定したと仮定しよう(現在の輸出量は1日当たり130万バレル)。アメリカ政府は戦略石油備蓄(SPR)に約7億バレルを備蓄しており、サウジアラビアからの供給がなくても18カ月はもつ。しかしSPRを利用しないとしても、アメリカ経済は申し分なくやっていけるだろう。
輸出収入の90パーセントを石油に依存しているサウジアラビアは、石油をアメリカ以外の国、例えば中国に売らなければならなくなる。中国政府は、例えばアンゴラから輸入している石油の一部を今後は買い控えるかもしれない。そうなれば、アンゴラは結果的にアメリカ市場に活路を見い出すかもしれない。全体として(物流上の適応策は必要になるとしても)、市場の力はすぐに供給と需要のバランスを調整し、すべての輸入国は多かれ少なかれ自国で必要なだけの原油を手にする。石油が代替可能である限り、数週間以上にわたって特定の輸入国を攻撃できる輸出国はないのだ。
新たなパラダイムの必要性
エネルギー自給の確立が非現実的であるとしても、国は石油価格の高騰に対する世界経済の脆弱性をただ傍観しているべきではない。高い石油価格は不安定な世界経済に大混乱を引き起こす。また、アジアの石油需要が増えつつあるため、石油の入手をめぐる紛争の可能性は高まっているようだ。しかし、エネルギー自給を後押しするのではなく、目標とすべきなのは石油の重要性を戦略的に削減することだ。『Turning Oil into Salt: Energy Independence through Fuel Choice(石油を塩に変える:燃料選択によるエネルギー依存からの脱却)』(2009年)によると、今日の石油は、人類の歴史ほぼ全体を通じて塩が持っていた戦略的な重要性と同じだけの意味を有すると主張している。
食料を保存する唯一の方法として、塩はかつて世界情勢の行方を左右していた。塩をめぐって戦争さえ起こった。缶詰や冷凍保存といった塩に匹敵する食料保存方法が登場すると、塩は戦略的重要性を失い、もはや地政学的な影響力のない「ただの商品」になってしまった。同様に、石油の戦略的重要性は、私たちが石油を利用したり輸入したりする量によってではなく、それが輸送の燃料として事実上独占状態にあるために決定づけられているのだ。おおまかにいって、世界中で売られている自動車はガソリンだけを燃料としている。そのために競争力のある燃料の原料となるエネルギー源は、石油との競合を巧みに妨げられている。こうした状況により、石油は代替できるものではなく、その結果、消費者は石油価格が高くなった場合にも他の競合商品にすぐさま転向できないのだ。
長続きする真のエネルギー安全保障を確立するために、私たちは自給性を、競合的な燃料市場パラダイムと差し替えなければならない。そのためには、輸送部門を燃料競争にさらす他に方法はない。電気はどのエネルギーで生産されたかに関係なく、同じ送電網で送電される。それと同様に、私たちが乗る車やトラック、さらに燃料分配システムも多様な燃料混合に適合させるべきだ。エタノール、メタノール、ブタノールといった様々な液化燃料は、天然ガス、石炭、バイオマス、都市ごみから生産可能だ。メタノールのように、エネルギー等価ベースでガソリンよりも著しく安価な燃料もある。ガソリンに加えて、このような燃料はフレックス燃料車(FFV)を走らせることが可能だ。FFVはガソリン車よりも100ドルあるいはそれ以下のコスト増で生産できる。
電気は搭載型の車両用バッテリーに蓄えられ、電気自動車やプラグイン・ハイブリッド・カーの動力となる。天然ガスは天然ガス専用車で利用できる3(もちろんメタノールに転化しFFVに利用することも可能だ)。これらの選択肢には、それぞれに一長一短がある。車両自体が高価になってしまうものもあれば、インフラ整備が高くついたり、石油価格が高い状況を除けばコスト競争力に欠けたりするものもある。しかし、将来的な石油価格の不透明性を考慮するなら、不安定な石油市場がもたらす経済や安全保障上の課題への防護策として、輸送部門はこうした選択肢を検討し始めなければならない。捉えどころのないエネルギー自給性を追求するのではなく、これこそが私たちがたどるべき道なのだ。
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本稿はスイス連邦工科大学チューリヒ校(ETH Zurich)の国際関係・安全保障ネットワーク(ISN)と安全保障研究所(CSS)のご厚意で掲載しました。
翻訳:髙﨑文子