作業道を使って進化する「吉野林業」

吉野林業の歴史

日本の大和王朝の舞台となった奈良県の中央山岳地・吉野一帯に、500年以上続く人工林群が存在する。日本で、いやおそらく世界でも最も古い、民間資本による、人工林育成林業と考えられている。

この吉野林業は、吉野川(下流の和歌山県に入ると「紀の川」と名を変える)流域の川上村、黒滝村、東吉野村に展開してきた。この地域は、多雨でスギの育成に適していたことと、繰り返された遷都の建設の際などに材が大量に必要とされてきたからだろう。

木目が揃った、色艶の美しい、節の少ないスギとヒノキの高品質大径材を作ってきた。日本の他の地域では2m前後の間隔で苗木を植栽するが、ここでは1m前後にして3~4倍の本数を密に植える。それにより成長のスピードを抑制して年輪を密にし、木の元と末の太さを同大にし、何度も何度も繰り返し間伐して、200年以上の年月をかけて育ててゆくのだ。

16世紀初頭から始まったこの人工林の造成は、18世紀になると、酒樽などに販路が拡大して、「密植」「多間伐」「長伐期」施業体系が確立されていった。

そんな中、山元の山林所有者が経済苦況から、大和盆地中央の庄屋などに山の所有権を買ってもらうことが始まって、わが国でもこの吉野独特の、「山守」と「山持ち」が互いに支えあう“社会システム”が誕生した。

世界的、そして日本でも全国的規模で乱伐が進んだ19世紀初頭でも、吉野では高齢材が維持され、木材価格が高騰した19世紀末には、伐採量も造材面積も増加した。第二次世界大戦中・戦後の強制伐採、高度成長期における木材価格の高騰を経て、今は材価が低い時代を耐えている。

川上、黒滝、東吉野の三村では、1960年代の拡大造材期に造成された人工林がおよそ半分を占めてはいるが、いまだに100年を越す高齢林が1000㏊以上あり、200あるいは250年にもおよぶ長期にわたって人の手によって手入れされてきた材も多い。100年生以上の高齢林は、10年後には3000㏊、20年後には7000㏊近くまで増えているものと推計されている。

230年生の“間伐”に立ち会う

岡橋清元(きよちか)氏の運転する4WD車で、岡清(おかせい)山を登る。幅2.5メートル、山側の壁・法面(のりめん)は1.5メートルまでの小さな作業道。急斜面につけられたこの道は、氏が弟とともに30年前から、毎日山へ入って造りつづけ、7万8000メートルもの長さになっている。道の下には、縦横2段の木組みがしっかりと入っていて、2トンの4WDダンプが、260年生の木を積んで下っても、ビクともしない。30年間使い続けられている道だ。

法面は、灌木や草木が被っていて、そこに隠されている小丸太の壁面補強を気づかせない。これら道の補強材はすべて土に被われていて、腐らない工夫が施されている。道は、自然と一体化しているように見える。

2010年9月3日、奈良県吉野郡川上村小処。見学者は、東京、大阪、岡山からの28名。4台の4WD車に分乗して、国道から山へ分け入り、高度を250メートルはかせいできただろうか。幅2.5メートルの作業道が15年前に造られていなければ、230年生の杉が立ち並ぶ、20ヘクタールほどの林は間伐されることはなかっただろう。

「山神祓 高天原に 神留座す…」。(やまのかみのはらい たかまがはらに かみずまりまします)

山の仕事始まりの祝詞(のりと)を挙げるのは松尾昭良さん、74歳。岡橋家など4家の山守を200年以上続けてきた家系の杣人(そまびと・山で働く人の意味)だ。

倒す木の山側に、まず「受け口」という切り込みを入れる。次は、その真反対側に「追い伐り」を受け口よりも上に入れ、8割までノコ目を入れる。あらかじめ木にはワイヤーロープを掛け、牽引機を使って倒す方向に力を掛けてある。そこでさらに人力を加えると、ミッシ、ミッシ、ミッシ。大杉が揺れ始めた。

ド、ドーン。大きな地響きと共に見事、松尾山守が狙ったとおりの、残す2本の大木の間に、その大杉は倒れ込み、収まった。

「これでも、“主伐”やのうて、“間伐”ですねんで。残った杉はまだこれから大きうなって、主伐期を待ちまんねん」と、松尾さん。切り口の直径90センチ、周囲2メートル90センチでも間伐材。これが吉野なのだ。

岡橋家は、「国中(くんなか)」と自分たちが住む大和盆地の中心地を誇らしく呼ぶ地域の、大庄屋だった。吉野林業地で3番目に広い1900haの「山持ち」で、かつては70人の「山守」がいた。先代の16代は「吉野の天皇」とも称され、持ち山へは生涯で2度しか向かわなかったそうだ。

その息子の当代は現在61歳。大学を出て、岐阜の山で機械化された近代林業を学び、29歳の時に弟と二人で山に作業道を作ってみたが、建設業者に任せて切り開いた道は、すぐに壊れた。この地は「紀伊半島三波川帯」という日本でも最も難しい地質。南に、日本一の多雨地域で有名な大台ヶ原をひかえる上、破砕帯も多くある。こんなところに作業道を付けるのは無理だったのだ。

「ほら、言わんこっちゃない。旦那衆が、山の仕事は無理なんや」と、山守たちに笑われた。そんな時、大阪府の指導林家で、自分の持ち山に道をつけ、20年以上経っても壊れていないという、大橋慶三郎氏に出会った。

それから30年。昨年、岡橋氏は林野庁の「路網・作業道」委員会の委員に就任した。戦後、大量に植えられた人工林が使い頃となり、2009年12月30日には林野庁が「森林・林業再生プラン」を作って、「わが国はこれまで、世界第2位の森林率を持ちながら、自国の森からは使う量の20%しか伐り出せずに、“世界の木喰い虫”と言われてきたが、これからは育った人工林をしっかり使って、世界の木材生産に貢献する」としたからだ。

その「路網・作業道」委員会で、清元氏の道は“日本で一番厳しいところで付ける道”と位置づけられた。これまで清元氏の「ていねいに造られた壊れない道」は、民間人が造る道として、国が税金を投入する対象になっていなかったのだが、それが変わった。これからは、1分間2万円もするヘリ集材しかできなかった山にも、道をつけることが可能になる。清元氏の息子、岡橋克純さんは昨年、同じような年代の山持ちの息子たちと「吉野林業協同組合」をつくり、これからはみんなで作業道づくりを進めていくことを決めている。

吉野林業は、500年の昔から、“実生”と言って、種から苗を育てることを続けてきている。私には、吉野で初めて「山で働く山持ち」となった清元氏は、天から配剤されてきた“一粒の種”のように思える。この一粒から吉野林業が変わる。これからは「道づくり」日本一の技術で、山持ちも参加してこの作業道を吉野全体に拡げてゆくという。吉野林業はこれから、ますます進化していくだろう。

今日、私たちはこの地点まで、クルマに乗って簡単に上がってくることができた。道をつけておけばこのように、木を使いたい建築家や工務店、自分の家の材になる木に逢いたいというお施主さんも山へ上がってくることができる。

日本の戸建て住宅は、その約8割を小さな工務店が建てているそうだ。その工務店たちが、岡橋さんと同じように「壊れない作業道づくり」をしている林業家の山へ“お施主さん(家をつくりたい消費者の意味)”を連れて行くことが、この吉野から日本中に広まってゆくことを願う。

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作業道を使って進化する「吉野林業」 by 天野 礼子 is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

著者

作家。「日本に健全な森をつくり直す委員会」事務局長。「国際森林年」日本委員。著書に「石油に頼らない」「“林業再生”最後の挑戦」「ダムと日本」など多数。