アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンにとって自然は偉大な教師であった。彼女は、小動物を生き生きと描き、それは彼女の日常生活が自然環境と深くかかわりあっていたことを、読者に明瞭に伝えている。2つの側面(日常生活と自然)がお互いに補い合っているというメッセージは、例えばこれから紹介する彼女の詩の中で、鮮やかに再現されている。
小鳥が道をやって来た−
わたしの見てるのも知らないで−
ミミズを半分に噛み切って
食べちゃった、生のまま、
そこから露をひとすすり
手近の草に口を寄せ−
そこから塀の方に横っとびした
甲虫を通してやるために−
いそがしい目で見まわした
きょろきょろと四方八方−
おびえたガラス玉のような目だった−
ビロードの頭がぴくっと動いた
危険にさらされた者のように用心深く−
わたしがパン屑を差し出すと
おもむろに羽をひろげ
そっと家路に漕ぎ出した−
継ぎ目も見えぬしろがねの海を、
かき分けるオールよりもそっと−
正午の土手から飛び立って、
音もたてずに泳ぐ、蝶よりもそっと。
ディキンソンにとって鳥は、自然の計り知れない野性の要素を象徴し、それを管理したいという私たちの欲望を巧みにかわしているものである。さらに言うならば、鳥の飛行を水しぶきをたてずに泳ぐこと、漕ぐことのような水面での動きに喩えることで、空中での動きの滑らかさや優雅さを彼女は描いた。
私たちが過去から受け継いだ詩や文学は、私たちの自然の中にある居場所を理解するのに役立つ。実際、文学界の一部の人々は古典環境文学を再考し、現在の環境ジレンマにうまく対応する方法をその受け継がれた知識の中から引き出そうとしている。
9月23日に東京で開催される第76回国際ペン大会は、環境と文学に焦点を当てる。ノーベル賞受賞者、高行健や世界中から招待された著名な学者を招いて開かれるシンポジウムは大変エキサイティングなものになるであろう。
フォーラムに先立って、Our World 2.0は環境文学における顕著な作家、特にヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ラルフ・ウォルド・エマソン、ゲイリー・スナイダー、松尾芭蕉、宮沢賢治、高行健といった作家を、作品からの名言を引用して紹介したいと思う。
彼らの文学は私たちに、自然が美しさと驚異に満ちている事を思い出させてくれることであろう。
アメリカ人作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは自然主義者、詩人、超絶主義者として知られている人物であり、とりわけ環境文学の祖として有名である 。しかし、ソローは、『ウォールデン 森の生活』(1854)の著者として最もよく知られている。
この本は、マサチューセッツ州のウォールデン湖畔での四季の移ろいを描いた作品である。この著者の自伝的作品の中で、ソローは自身で建てた小屋での2年間にわたる生活から得た経験を、不朽の鮮やかな記憶とともに伝えている。
ハーバード大学を卒業したソローは人間中心主義とアダム・スミス経済学に疑いを持っていた。
彼は説明している。「私が森に入って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。」
ソローは、第1章で彼独自の経済学を披露し、最終的に野生よりも価値があるものはないという結論に達した。
「自然は、人間の強さだけでなく、弱さも応援してくれます」
「私が森に入って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。」
「たったひと降りの優しい雨が、草の緑を一段と濃くします。私たちも、緑を目にして春の気分を高揚させ、未来が一段と輝きを増すのを感じます」
ソローは、自然との相互作用がポジティブな姿勢を生み出すのだという考えを表現したのである。ウォールデンは自然と身近な場所で生活する喜びを確約する。雨音、さらさらと吹きわたるそよ風、生きているあらゆる動植物の声々は、私たちに現代社会が失った価値に気付かせてくれる。
「むき出しの大地に立ち、――頭はさわやかな大気に洗われて、かぎりない空間のさなかへともたげれば、――いっさいの卑しいエゴイズムは消え失せる。わたしは一つの透明な眼球になる。いまわたしは無であり、わたしにはいっさいが見える、普遍者の流れがわたしの全身をめぐり、わたしは完全に神の一部となる」
上記の引用はエマソンの『自然論』(1836)からである。この一節は私たちを、ウォールデンの森の奥深くへと導いてくれる。エマソンは、ソローに森林に囲まれた土地を与え、彼の森における生活に多大な影響を与えた人物である。この「透明な眼球」の概念とは、 解釈者としての個人が、自然を 宇宙の真実へと導いてくれる様々な象徴として見ることである。エマソンは、自然を見ることによって人間はあらゆることを知覚し、そしてさらに黙想の中でその調和を感じることができるということを、表現したのである。
ソローは、さらにエマソンの考えを洗練させ、人間は直接的にそして継続的に自然と交感することで、自らのアイデンティティを確立できるのではないかと推量した。それは言い換えるなら、共生という生き方になる。社会では、与えられたことのみを吸収していくような人間のアイデンティティしか育たないのではないだろうかと、彼は考えていた。
ソローやエマソンは同じ哲学を共有していたのではないだろうか。つまり自然は人間のアイデンティティの不可欠な部分であるということである。彼らの書いた素晴らしき作品は、多くの読者に、自然に囲まれることの必要性を教えてきたのである。
ゲイリー・スナイダーはピュリッツァー賞詩人であり、1950年代のビート世代を代表する人物である。またスナイダーは環境活動家でもある。そして1960年代、日本で禅や仏教的な考えを学んだスナイダーは、現在自らシエラネヴァダ山脈の麓に手作りの家を建てて 生活している。カリフォルニア大学のデーヴィス校の名誉教授でもある。
代表作である『惑星の未来を想像する者たちへ』(1995)は、彼の環境に対する哲学、つまり惑星思考が反映されている作品である。「私たちの希望は相互に浸透しあう領域を理解し、私たちがどこにいるかを学び、そうすることによって地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方を確立する」ことであり、さらに、「私たちは惑星全体を一つの流域であると考え、そこでは相互依存し活力にあふれた多様性を育てなくてはなりません」と強調している。
スナイダーは、人はそれぞれの国家の一員としてではなく、この惑星の一員として、感じ行動することを提示している。そのような考えは、人類が共通の問題として環境破壊を捉え、解決に向けて取り組むべきであるということを示唆している。
スナイダーは「澄んだ空気、清らかな流れの川。ペリカン、ミサゴ、コククジラとともに生きる」未来を思い描き、この未来像は、ソローが森の中で思いめぐらしたものに通じている。仏教思想、環境の視点に沿ったスナイダーの作品は現代のソローとして読む価値は十分にある。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
これは著名な俳人である松尾芭蕉の有名な句である。俳句とは、基本的に5,7,5の韻を踏む、日本の定型詩である。俳句は、四季を表わす「季語」を句の中に含んでいる。例えば、天候が暖かくなるにつれて田んぼから現れるカエルは、来春を表わし、セミは夏を表わしている。
『おくのほそ道』は芭蕉の死後、1702年に出版された。この作品は1689年に書かれた芭蕉の紀行文をもとにしている。芭蕉は都会(江戸)での生活を捨て、執筆の着想の源を得るために北日本の荒野へと向かっていく。芭蕉の句は、周囲の自然からの直接的に感じられるインスピレーションに影響を受けている。
行く春や鳥蹄魚の目は泪
鳥は芭蕉を、魚は彼を見送る人々を表わしている。この句は長途の旅の幕開けにおける、希望と悲しさがあいまった句なのである。彼は旅に先立つ数年の間に、純粋に物質欲を捨て去り、自分自身の身体以外のあらゆるものを捨て去ったのである。彼は、北へ続くほそみちを歩むことで、真のアイデンティティを回復しようとしていたのである。
国破れて山河あり、城春にして草青みたり
上記の句は、かつての繁栄を極めた貴族藤原家の跡地を見たときに、綴った句である。この句は、人間と環境に対する彼の観点を非常によく述べている。文明は栄枯盛衰を辿る、しかし緑は人間が廃れた後でさえも栄える。
宮沢賢治は日本の詩人、児童文学作家であり、日本で最も読まれ、愛されている作家の一人である。また海外でも人気があり、それは、ゲイリー・スナイダーがThe Back Country (1967)の中でいくつかの詩を翻訳し、後に多くの宮沢の作品が英語に翻訳されたからであると考えられる。
その中でも、彼の初めての短編集に 収録されている『注文の多い料理店』は日本で最も有名な作品である。この作品は人間と環境の関係に対する宮沢の洞察を反映している。物語は、2人の東京から来たハンターが、変わったレストランで言葉の罠にかかるというものである。
「鹿の黄色な横っ腹なんぞに、2、3発お見舞いもうしたら、ずいぶん痛快だろうね。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
昼間に狩りを楽しんだハンターが月明かりの下、森で道に迷ってしまう。そこで「西洋料理店山猫軒」と書かれた看板を見つけるのである。彼らは空腹のためそこに足を踏み入れる。見えないレストランオーナー、山猫は不可思議な注文を次々にお客に与える。
「お客さま方、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落として下さい。」
「鉄砲と弾を此処において下さい。」
「帽子と外套と靴をおとり下さい。」
「壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」
「料理はもうすぐできます。15分とお待たせは致しません。すぐ食べられます早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください。」
変わった要求に従い続けたハンターは、最後の部屋で次の注文を見つける。
「色々注文がうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうか体中に、壷の中の塩をたくさんよくもみこんで下さい。」
ついにハンターは山猫が自分たちを料理しようとしていることに気が付く。すぐにそこから逃げ出すのだが、東京に戻った後でさえも顔は恐怖から「紙くずのようになった」ままになってしまう。
山猫は自然を表わし、ハンターは都会文明から来た破壊者を象徴している。都会から動物を気晴らしに殺しに来る、足下の自然を踏みつけるハンターに対する宮沢の蔑視は明らかではないだろうか。このおとぎ話の中で、宮沢は自然環境への畏敬の念とそれを尊重しない人間に対する警告を表現しているのである。
高行健は中国生まれのノーベル賞作家である。小説『霊山』は、作者自身の文化大革命からの亡命の旅をもとに執筆された作品である。
自伝的な要素を含むこのフィクション作品は、四川省の森の中をぬけ、長江に沿って歩く、霊山を探し求める旅を描く。自然は、小説の主人公自身の、死の、社会に制限された自由の探求の中で、重要な役割を担う。霊山を目指す道すがら、不思議な植物学者に出会い、その男は、以下のように話す。
「きみ、自然は決して恐ろしいものではない。恐ろしいのは人間だ!自然を良く理解すれば、自然は親しみやすくなる。だが、人間はどうだ?もちろん賢くて、あらぬ噂から試験管ベイビーまで何でも作り出すことができる。しかし、一方では毎日、2つか3つの種を絶滅させているんだ。これが人間の虚妄というものさ」
中国の歴史、自然、神話、文化、民間伝承に満ちた、東洋のオデュッセイヤという評価を得ている作品である。
これまで議論してきた文学作品の引用(またそれ以外にも様々な作品)は、いかに自然が人間にとって不可欠な要素であるか、逆に人間が自然にとって不可欠な要素であるかを強調している。私たちの多くは都市化の時代の中で何か都合良く忘れてしまったのではないか。幸運な事に、文学は私たちに新しい視点を与え、私たちが心の奥深くで感じる自然との力強い繋がりを再び思い起こさせてくれる。
自然環境に飛び出して夢中になる準備はいいかい? さぁ、やってみよう。
環境文学入門101 by 渡部 健司 and 木下 裕太 is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.