「礁」と「都市」の比較論

Human Dimensions」は国連大学地球環境変化の人間・社会的側面に関する国際研究計画(UNU-IHDP)で年2回発行されるマガジンである。「Human Dimensions」各号でUNU-IHDP は若い研究者向けに時事問題のライティングコンテストを行っている。2013年1月発行の第2号でのコンテストのテーマは「生物多様性と生態系サービスにおける人間的側面」だった。以下の記事は準優勝を獲得し、House of Cards: The perilous state of global biodiversity(砂上の楼閣:世界の生物多様性の危険な状態)の号に掲載されたものである。

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「『ほら、向こうにいる』男らは言うだろう。『やつらはいつだってそこにいると思ってたよ。きっとそこにいるって感じがしてたんだ』 男は自分の大洋に海の怪獣が必要なのだ」
ジョン・スタインベック著 「コルテスの海航海日誌」より

世界がまだ若かった頃、スペインの征服者たちはインド諸島やその他東洋の寓話の世界を求めて未知の太平洋を駆け巡った。船乗りたちは航海日誌に、網に捕らえられバタバタする数々の奇妙な海の生物や、遠く波の間に跳ね回る怪物との遭遇について記録を残している。彼らはまた、航海途上の島々の住民が盾よりも大きな甲羅をした亀を縄で捕らえるとか、大層美味な手足のない水の精のようなものを釣りあげるなどとも記していた。

やがて、ヨーロッパ人や後のアメリカ人が環太平洋に15〜19世紀にかけて多くの開拓地を設けると共に、それまで未知の土地自由な海で遭遇したものはどれも名前がつけられ、征服されていった。時にはこうした探検者らは、海岸沿いの地域社会の征服、貿易、異民族間結婚などを通してその地域に溶け込んでいった。後に東アジアと呼ばれるようになったこの一帯の社会では多様な文化が共存して繁栄した。

これは興味深いことに、インターネットや作家ジェイン・ジェイコブが一貫して指摘する典型的なニューヨーク地区を支配する原則と同様だ。数には強さがあり、ネットワークにはさらに大きな強さがある。

これら当初の入植地はその後、ジャカルタ、シンガポール、マラッカ、デリ、マニラといった都市へと急成長していった。これらの繁栄は主に相互間の海洋貿易と、港を維持してきた豊かな海への依存によるものだ。

そもそも、これらの場所はあらゆる種類の人々の巨大な内部破壊によって築かれた文明の土地である。 物理的にはこれらの都市にはいずれも華やかなビル郡、市場、そして才能ある人材がチャンスを求めて運を試しに来る秩序ある空間がある。時にそういう人々は貧困に陥ったり、あるいはさらにひどい場合はソローが「静かな絶望」と呼んだ集団の監獄でかろうじて生計を営むことになったりもする。

都市というのは人々が強制的に混合された場所で、それが生み出すゴミ、病気、精神的病が同時に集中している場所だということを覚えておく必要がある。国際社会は気候変動による夏の気温上昇や激しさを増す嵐に悩まされ、1992年のリオ・サミット以来、持続可能な開発に対する声高な呼びかけに答えるようになってきた。そんな中、都市は少なくとも2つの点で厳しい視線を浴びるようになっている。第一に、都市では異常に膨大な資源が人間の消費に使われている点(そして他の生物による使用を妨げている)、第二におぞましい量の廃棄物を出している点だ。これら2つの特徴は、海洋環境に対し魚の乱獲から沿岸生息地の劣化に至るまで、様々な悪影響を及ぼしている。

こういった悪影響は生物多様性を損なう。この論文では、めったに評価されることのない都市間(特に沿岸部の都市)の共通点について、そして豊かな海洋生物に感謝しつつも、発展途上国がその宝庫を危険にさらす方法で都市化を進めている東アジア一帯に焦点を絞った海洋環境について再検討してみたいと思う。海洋生物多様性に対し敬意を持ち回復に向けた行動を起こすためには、私たちが今支持している3つの視点を根本的に変えなければならない。

では、思い切って飛び込む前に、まずは人類が地球の救世主になるべし、というメディアが発するロマンティックな考えから私たちを解放させよう。もう1つ油田を掘ったからといって、あるいはトロール漁船を出したからといって、海は何を気にするというのだ。人間がまず自らを救おうとしているというだけだ。というより、ホモサピエンスが何世代も楽しく暮らせるような環境を整えているだけなのだ。遅かれ早かれ人類が恐竜のたどった道を進もうが進むまいが、海はそこに住む無数の動物と共に耐え続けるだろう。おびただしい数、繁殖能力、そして世界の端の究極の環境への適応力を持つ微生物や小さな水生植物は、人類による核のホロコーストが地球を住めないものにまで破壊するのを待ち、やがてはるか遠い未来には人間に代わる、より賢明な生命へと進化するかもしれない。

これは早くも1962年にレイチェル・カーソンが論じていた理論の1つと大いに共鳴する。カーソンは害虫というレッテルを貼られたごく一部の昆虫のみを退治する毒性の強い農薬を製造することの無益を指摘していた。ゴキブリやその同類は、カーソンが「耐える義務」と呼んだ力を発揮しすさまじい勢いで復活するだろう。その一方で、死のスプレーは帯水層に浸透し、それらを生産した人間の飲料水を汚染する。人間が自分の住みかを汚して徐々に自殺に向かっているのでなければ、そのような敵対的な回復力は「スタートレック」のボーグ(架空の機械生命体の集合体)の楽しいパロディになるだろう。最近になって人々は、母なる大地の巨大な大邸宅ではより軽やかなステップを踏むことが求められていると気付き始め、環境に優しい候補者に投票し、自転車通勤し、菜食主義者になることを学んだ。

さらに波の下に深く頭を沈めてみると、活気あふれる熱帯にもぐる生物を抱擁する深海の複雑さを私たちがいかに知らないかを思い知らされる。現代の沿岸都市が人類多様性のフォートノックス(金塊貯蔵施設)に例えられるならば、沿岸のサンゴ礁はより広くて伝説的な「ソロモン王の洞窟」といったところだろう。そこでは泳ぎ回ったり浮いていたり、岩に張り付いていたり、砂や岩から育ったりする生物の数の多さに、想像力が圧倒されてしまうのである。これが自然の究極の産卵場所だ。史上初の生命は35~40億年前に「原始スープ」から誕生し、やがてあらゆる種類の生物へと進化し、つい200万年前になってやっと人類も出現した。生命の歴史を1年間のパーティに例えるなら、人類が現場へ到着したのは12月31日の深夜近くになってからということになる。そして、既にその場に集まっていた数百万以上の客を一気に支配していったのだ。

海洋生物が驚異的な繁殖力で爆発的に増加したこの場所は、サンゴ礁三角地帯と呼ばれる。大まかにはマレーシアの一部、インドネシアの半分、東ティモール、フィリピン全体、パプアニューギニア、メラネシアの島々を含む地域だ。フィリピンの北端から、南西へはサバ州やジャワ島へ、南東へはソロモン諸島へと広がっている。600万平方キロメートルという面積は海洋全体の表面積のわずか2%以下にしかならないが、世界中で既知のサンゴ種の75%を含み、サンゴ礁に生息する魚類を6000種も宿し、27種類の海洋哺乳類を抱えている。既知の70種のマングローブ種のうちなんと51種類、海草種の半数がこの場で見られる。世界でも比類のない500ものサンゴ種やその他の魅力に引かれ、この太陽と海と砂の楽園で学び、娯楽を楽しみ、定住するために世界中から数千、数万の学者、観光客、移民が押し寄せる。

都市を人間の異質性のアゴラ(公共広場)に例えるなら、サンゴ礁はさらに大規模な生物学的相違点満載のバザーだ。

しかし一般的な人々の視点では、少なくとも1億2000万人の人々がここに住み、その誰もが直接的であれ間接的であれ周囲の海に依存しているにもかかわらず、その海への影響については意識していない場合が多い。だがグローバルな視点でみると、非常に重大なことだが、サンゴ礁三角地帯は気候変動の猛攻に対する生物学的砦となっている。つまり、地球温暖化と炭酸化が世界のあらゆる場所で海洋生物に大規模な損害をもたらしているにもかかわらず、この地域は比較的少ない損害で済んでおり、より早く活力を取り戻すようなのだ。アジア太平洋の漁業が復活したのもこの生命ジェネレーターのお陰である。海洋生態学者なら即答えるだろうが、そのような安定はこの地域の生物多様性の度合いと深く関わっている。食物網においてつながりのある種が多ければ多いほど、重大な災害がシステム全体を徹底的に破壊する可能性は低くなる。これは興味深いことに、インターネットや作家ジェイン・ジェイコブが一貫して指摘する典型的なニューヨーク地区を支配する原則と同様だ。数には強さがあり、ネットワークにはさらに大きな強さがある。誤ってそれを破壊するのではなく、そのような地域に加わろうとすることは下らないことだろうか?

都市と礁の共通点

サンゴ礁はこの地域の主要な特徴であり、様々な点で理想の都市部の完成形である。アジアの大都市のほとんどは沿岸部または、海への主要な水路を支配しており、市民のニーズや気まぐれを満たす、ありとあらゆる商品やサービスが提供される。だがサンゴ礁にはさらに素晴らしい機能がある。自由に泳ぎまわる魚や海底に住む生物が拾い上げ形を変えた栄養素と残骸による巨大な宴会場なのだ。都市を人間の異質性のアゴラ(公共広場)に例えるなら、サンゴ礁はさらに大規模な生物学的相違点満載のバザーだ。

もし都市が専制や農村の苦役からの避難所だとすれば、サンゴ礁は危険から守られた聖域に例えられよう。中世のドイツの都市では「都市の空気が人を解放的にする」というフレーズは好んで使われた。奴隷と職人が家主や牧師から逃れ一息つける場所だったのである。今日でも都市は屋根やベッドという物理的な意味以上に、抑圧者も抑圧される者も同様に隠すシェルターの役割を果たしている。キプリングやモームが描いたスラムや倉庫に、未来のマザーテレサとアル・カポネが壁一枚を隔てた所にいることだってままある。これを迷宮のスケールにして反映したサンゴ礁は、魚群やアシカの群れ、カキ床の保育場所となっている。これらの生息環境は様々な種の競争を生き抜く若い生命体の身を隠してやるだけでなく、物理的に波避けや堤防の役割を果たし大陸の海岸線を侵食や洪水から保護している。

都市が様々な人種の祝いの場だとしたら、サンゴ礁は海の様々な種による絶え間ない祝賀会のようなものだ。第一に、じっくり目を凝らせば、通りの次の角を曲がった先に社会的役割の宝庫が見つかるはずだ。ブロードウェイの歌姫、企業ヤッピー、街角の物まね師、 厚化粧の娼婦などが、精肉屋、パン職人、燭台職人などと肩を擦り合わせているだろう。だがより大きなスケールでは、サンゴ礁の間を拡大してみると、ニモがいるだけではなく、カクレクマノミの親やニザダイ、ツノダシ、ヒトデ、巻貝、アサリ、タコ、甲殻類、クマノミが全て関わり合いながら終わりない命のダンスを繰り広げている。産卵し、定住し、変形し、死に、再びスープ状の流れに吸収される。明確なアイデンティティもない。多くの生物には小さな片利共生生物や寄生虫がくっついているからだ。都会の犬にノミがついているように、海のジュゴンにはフジツボがついている。

自分が今、金の山の上に座っているのだと気付けば、はるか遠くたどり着けない黄金郷を眺める必要もないはずだ。

そんな地上の生命体を宿す液体ベースがあるこの場所では、赤道上の万華鏡のような命の集合体は大きな危険にさらされている。サンゴ礁三角地帯の海は先述のような都市を活気付ける消費可能なバイオマスを提供してくれるだけではなく、海洋植物や生物に炭素その他の科学物質を吸収してもらうためにも欠かせないものなのである。それによって海流のパターンと気温を調節し安定させ、東南アジアや隣接地域の文化の経験的基盤となる。何千年もかけて出来上がったサンゴ礁を失ったり、大々的に損害を与えたりすれば、飢餓や浸水、このような海景で育まれた人間の遺産である偶像や民話の悲劇的喪失を招く。

それでは責任感ある市民はどのようにしてこの略奪を治癒することができるだろうか。都会のカーボンフットプリントを減らそう、海岸の清掃活動に参加しよう、魚の乱獲に抗議しよう、亀の産卵を徹夜して眺めようなどなど善良ではあるが陳腐な呼びかけをするのではなく、古典的な経済・社会・環境の3つの持続可能性に基づいたメンタルな視野の転換を私は提案したい。

サンゴ礁三角地帯の市民としてどう生きるか

まず大切なのは本物の豊かさについて考えることだろう。自分が今、金の山の上に座っているのだと気付けば、はるか遠くたどり着けない黄金郷を眺める必要もないはずだ。この地域が世界に提供する命がいかに広範囲にわたるかを考えると、まさにここは金の山である。このサンゴ礁三角地帯だけでも慎重に管理すれば、その地帯そのものを越えて数百万の人々に食料と栄養と職を与えることができる。しかしそれでも、新たなエポキシ樹脂を作ったり、体を活性化したり、がんを治療したりするために使われる有能な有機化学物質を取り出そうとこの地帯を掘り返す者たちがいる。だがここは実利的な生物多様性である。この地理的場所そのものの豊かさを重視するべきなのだ。キラキラ輝く海岸であらゆる種類の貝殻を集めながら過ごす晴れた1日の価値をどう計れるというのだろう。それもわずかな金持ちの行楽客だけではなく、ごく一般の客も楽しめるとしたら?ここの海底は他と比べてはるかに肥沃である。新しい種を産み出し、美しい景観や海景を織りなし、その余剰分を風と波に乗せて、海底帝国の端の寒く資源の乏しい所まで運んでいる。消費を控えめにすれば、全ての人を満たす分があり、この生物資源の豊かさをねたんで溜め込む必要もなくなる。よって都市において、海洋生物多様性の価値について一般人の関心を高め、収穫の際には節度を持つべきという私たちの責任を強調すべきである。相当の悪意でもない限り、人が無責任に振舞い続けることは考えにくい。なぜならそうすることは自分の自然遺産を浪費することと等しいのだから。

第二に、このサンゴ礁三角地帯から誰が正当に利益を得るべきかという疑問に答えなければならない。それには2つの複雑な問題が絡んでいる。いずれも人間の行動観察に関するものだ。1つ目は数々の利害者がこの地域特有の資源をめぐって争っているため「共有地の悲劇」にぶつかることだ。自己本位で過激な勢力が、他の者より自分が資源を略奪する権利があると主張するのである。2つ目は地域社会の概念がいまだに 国民国家による精神支配権と結びついていることだ。サンゴ礁三角地帯の国家は利他主義や軍事力に違いがあり、大国がその要求を押し進める傾向にある。南シナ海の南沙諸島がその例だ。6カ国が領有権を主張しそれぞれの後ろには第三者の既得権利所有者がわんさかといる。しかし海の生物や海流にとって、目に見えない政治的境界線や人種など関係ないということを私達は忘れてはならない。

マグロにしてみれば捕まるのがパプアだろうがフィリピンだろうがマレーシアだろうが関係ない。魚は網から逃れれば、生き残って子を残す。幸いにも外交的科学的提言が合意され、国際関係においてはいくらかの進展が見られる。国連の援助のもと関係国は漁業、絶滅保護主の保護と輸送基準に関する協力協定をなんとか結んだ。国の境界線だけが厄介な問題として残っており、武力衝突を避けるにはより強い政治的意思が必要だ。しかしながら、ここで重要なのは感情的な愛国主義者の感情を超越し、真に共有されたサンゴ礁三角地帯を前提とする前述の国家意識を育むことだ。 これが効果を発するためには法律や資金のある管理機関を設立して支援する必要がある。

しかし私たちにはもう1つ精神的な飛躍が求められている。半世紀前にアルド・レオポルドは倫理的地域社会の概念は歴史を通して拡大しつつあると説いた。よって、人間以外の生物のニーズも地域社会計画の一部とみなすことは珍しくなくなっている。とはいえサンゴ礁三角地帯の各国政府にとってこれは口で言うほど易しくない。この件に関しては今後の思考の糧としておいておこうと思う。

最後にもう一度、自然環境をどうみなすかについて考え直してみよう。特にこれまで検証されたことのない都市と礁の二分法に関してである。どこで海と海岸が資源の流れを共有しているかについての明確な区分など必要だろうか。このような場所を勾配別に考える人もいるだろう。造礁サンゴの生育が見られ始める平均60メートルの深さから、海床が上がり日照量が増えるにつれて多様性が増す辺り、さらに上昇して潮間帯地域を通り、満潮線を越え、沿岸部の家の玄関先という具合だ。 沿岸部の集落は、海産物によって経済が成り立っており、文字通り石灰石と岸の骨材で建てられているのであれば、そこはサンゴ礁の延長と考えてよい。都市をサンゴ礁三角地帯の一部だとみなすことの利点は、私たちが少々謙虚な気持ちになるということもあるが、より実用的には私たちがこの大地を当然のものとは考えなくなるという点だ。都市を海中のサンゴ礁を少し簡略化したレプリカだとみなせば、礁としての都市は海の多様性の延長となる。過去数十億年を振り返れば確かにそうなのだから。したがって、繁栄するためには、沿岸都市は過去にうまく行った例を見習って成長する術を見つけなければならない。陸上も海中と同じようにみなさればならない。そうすれば私たちは物理的にも社会的にもより大きなマクロ生物学的な建築物の一部となり、自分をエリートではなく一メンバーとして見なすようになるだろう。そのような姿勢の変化は深遠な生態学者やそれに似た思想家が説いてきたものである。

最後に私の主張は決して完全処方ではなく、読者に1人の空間プランナーのサンゴ礁三角地帯に対する深い思いを伝えることを意図したものであると述べておきたい。この地帯は地球環境に関わる科学者や政策立案者以外の素人にはあまり知られていない。しかし、容易に目に見え、新聞の見出しに取上げられる現象 ‐アジア諸国の急速な都市化– に隣接し関わりの深いサンゴ礁三角地帯は、持続可能な開発と一体化した生物多様性の最大の可能性をかなえようと願う人々の注目を集める話題になってきている。これまでに述べた提案と矛盾のない、情報に基づいた良心的な行動を通して、私たち人間も豊穣の海から生まれた驚きに満ちた生物の1つだと再認識することができるかもしれない。

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本稿はHuman DimensionsマガジンとUNU-IHDPのご厚意により掲載されました。
参考文献についてはこちらの文献一覧をご覧ください。

翻訳:石原明子

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著者

友人や家族から「ジェッド」と呼ばれるゴメス氏は、フィリピン大学行政ガバナンス学部の大学院生であり、同時に同大学の都市地域計画研究科の助教をも務める。ゴメス氏の関心は街路景観社会学、ウォーターフロント開発、災害に強い都市作りにおよぶ。有名な海洋生物学者である父から多くを学び、自然界についても造詣が深い。