私たちはなぜ過剰に消費してしまうのか

ジャレド・ダイアモンド氏が、著書「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの」についての談話の中で、「いま世界が直面している大問題は制御不能ではない。むしろ、これらすべては私たち自身が引き起こしたものであり、私たちの手中にある」と述べたのは有名な話である。

graphic-inequality-jp

世界銀行開発指標2008

しかし、なぜ、人類の創造力、テクノロジー、知識、そして富は、非持続可能な成長の道を歩んでしまったのだろうか。人間開発指数を資源利用と比較してみると、世界の国々は、「高度な人間開発」と見なされる発展基準に到達するやいなや、非持続可能性への境界線を飛び越えていることがわかる。

この見解に異議を唱える人は、世界の人間の生活は、平均的に見て向上してきた、と言うだろう。この主張には一理ある。しかしながら、種の絶滅、生息地の喪失、温室効果ガス、資源の枯渇などを表す指標は、長期にわたって一様にネガティブな数値を示し続けている。

個人消費データはより多くを語っている。トップ10%の富裕層が全個人消費の60%を占める時、私たちは自問しなければならない。果たして、これら上位の消費者たちは、さらなる物質的な利益を得ることでより幸福になり得るのであろうか、と。

近代以前のルーツを遡る

E.O.ウィルソン氏のような研究者たちは、このような矛盾を、進化という、意志決定にはほとんど関係ない理論を用いて説明している。

自然淘汰を経て集団に定着してきた人間行動の特色は、人類が、少人数の狩猟採集集団や、それが属する地域コミュニティの中で生きていた、近代以前の95%の期間にわたって形成されてきたものである。当時の資源問題とは、地域ごとの問題であった。

初期の人間社会は、未発達で非効率的な方法によって資源を集めていたが、活発な消費を作り、資源収集に革新をもたらしたものたちが繁栄していった。彼らは、自分たちのコミュニティに強いアイデンティティを持つようになり、他の集団に対する競争力を持った。そして、(将来を視野に入れない)短期的な考え方を持つようになっていった。

私たちはなぜ、常により多くのものを必要とするのか

このような特色は、具体的な、そして、おそらく、より無関係な形で現在も継続している。

人類が最も必要とするものは食糧である。食糧の貯蓄は、その他の資源も加え、家族を増やし、養っていけるかどうかを直接的に左右する。農耕が始まる以前の時代、ある一つの家族または部族が、過分な消費に対応するほど十分な食糧を確保するのは不可能であったと思われる。このため、消費の制限と言う特性が進化する必要もなかった。

2つ目に重要なものは、生殖のためのパートナーである。当然のことながら、狩猟の手腕や地位によってより多くの資源を確保したものほど、より優位に相手を選ぶことができた。研究によって、どの文化においても、男性より女性のほうが、高い社会的地位を持つパートナーを好み、自分の財産を誇示することで取引(相手探し)が容易になる、ということがわかっている。

十分な資源を獲得することが終わりではない。地位とは、(周囲の対等者に左右される)相対的なものであり、競争が付きまとう。J.F. ヘリウェル氏らの研究で指摘されているように、米国では、年収10,000ドルの収入が幸福と感じる度合いが最も高いと言われている。それ以上の収入の場合、幸せは相対的な豊かさで決定される。

Debate 2.0: Could investing in green jobs redeem the 1%?

過剰消費のパターンは、社会的に出世をするにつれて強まる。 Photo: David Levitz.

つまり、私たちがより多くの収入を望む事実は、異性の選択、性的パートナーの選択過程によって明白に説明されている。配偶者との関係が人間と似ているある種類の鳥の雄は、雌鳥に求愛する際、膨大なエネルギーを使って、手の込んだ、カラフルで派手な林床を作り上げる。しかし、そのようにして雄鳥は、雌に向かって、自分たちは仲良くやっていける、自分は健康で能力がある、という合図を送る。

研究者たちは、人々が、これと同じ理由で、ヨットや、多くの車、高い宝石を買うと考えている。このような過剰消費のパターンは、社会的に出世をするにつれて強まり、生活における必要性との関わりが薄れていくように思われる。つまり、私たちが、成功してヨットや高級車を買えるようになっても、絶対的な財産の大きさは、さらなる消費への欲求を押さえることがなくなる。なぜなら、出世して付き合う人々は、皆ヨットや高級車を持っており、再び私たちの相対的な地位を引き下げてしまうからである。

現在、広告とマーケティングのプロたちが、人間性の多くの特性をうまく利用し、このような欲望を煽り、消費の電車を走らせ続けている。これは、個人の貧富の差が続く理由を説明しているのかもしれない。

どうして私たちは仲良くできないのか

競争と消費は密接に結びついている。消費は、資源確保の能力を重視する集団の中に、社会的階級を生み出すからである。「私たち」「彼ら」という考えは、人間が領土に別れて暮らし、共通の敵に対して団結していた時代にはとても重要であった。

グループに属することが、他の集団からの攻撃から身を守り、協力する手段を提供した。内部的には、ここにも階級が存在し、力のあるものが人間関係や資源をコントロールしていた。

進化学的適性の見地から言えば、最も強い個体は、より多くの遺伝子を残すチャンスを得ると同時に、集団からの保護を受けていた。進化的圧力は各個人に作用するので、競争と消費は、種の存続が危機に瀕しても止まることを知らない。そして、(イースター島のように)内部競争の末に絶滅したと思われる人間社会の例は多く見られる。

今日では、政治的地域分布を見ることで、競争を繰り広げる王族や様々な個人が、いかにして私たちの協調努力を行き詰らせてきたかがわかる。国連の諸機関が、(例えばスーダンやルワンダにおける虐殺のような)加盟国が非難する行為に満場一致で介入できない理由の一つに、それがあらゆる場所に敵を持つ各国のリーダーたちの寄せ集めであるということが挙げられる。安全保障を提供したり、共通の言語、宗教、文化などを分かち合う、排他的な集団のリーダーたちである。

カナダのような連邦国家においては、中央政府が、ある州に対して国家の政策方針を行使することは難しい。アルバータ州のオイルサンド開発は、国家の保護下にある先住民コミュニティに影響を及ぼすことが危惧されるが、その開発が州の管轄下にある限り、政府はほとんど無力である。このような場合、地域間、または政府内の競争は、一国の政治の将来を決定付ける。

二酸化炭素の排出削減の必要性は、20年近く前の時点ですでに叫ばれていたにも関わらず、今頃になって対策が始まったことに疑問を感じないだろうか。国や地域ごとに競争意識を持つ国々は、どのようにしてコペンハーゲンでのCOP15の合意を実施していくのであろうか。

貧困、気候変動や生物多様性の喪失といった、新たな世界的問題を前に、私たちは世界市民となることを求められている。そして、会ったこともない人々、行ったこともない場所を気にかけていくことを迫られているのだ。

文化とアイデアの進化

果たして、私たちは遺伝子の奴隷なのであろうか。人間行動について、このような考えを真剣に支持している生物学者はいない。遺伝性要因は、一部の行動にのみ現れるものである。問題は、私たちが染み付いた特性をどのように利益に結びつけ、さらには克服していくかという点である。

人間の特性を、持続可能な将来への道を作るために利用する方法があるはずだ。

テレビがどれだけ荒涼とした映像を流しても、南極の氷床が解けていくという事実だけでは、人間の行動を十分に変えることはできそうもない。なぜなら、私たちの多くは、実際に解けゆく氷の影響を受けることなく、日常の生活に戻ることができるからである。私たち個人の利益は、進歩的アイデアを実施する政治的支援が生まれるように仕向けられなければならない。そして、これを実現する一つの方法がお金である。開発途上国をCOP15での合意に引き込むために、富裕国が年間100ドル以上を提供するという最近の動きは、最初の一歩である。お金は利益に変わる姿が想像しやすいからだ。

自己の利益という後押しがあれば、規制もより飲み込みやすくなるだろう。つい最近、米国環境保護局は、温室効果ガスは人体に悪影響であるとの発表を行なった。これにより、排出を制限する法律制定への道が開けた。

個人の利益に働きかけるために、名誉または恥辱という世間の評価を利用することもできる。または、政策に極端な基準を設け、断続的にそれを引き下げていくという方法もある。例えば、マグロ漁を一度全面禁止し、少しずつ解禁していくというやり方である。望ましくない基準からの改善に対する期待は、悲惨な将来を予感させる非持続可能な利益よりも受け入れやすいだろう。

人間行動に影響を与える方法で、おそらく最も疑いの余地のないものは、教育である。世界中の子供たちに、人間関係に基づいた環境教育を施すことは、自然の本質的な価値と文化の平等性を認識できる個人を育成する上で必要不可欠だ。

このような教育は必ず報われる。私たちは、文化的進化のルーツとして、人間を固有と位置づけるもの、例えば、言語、知能、芸術文化というものに目を向けたがる。言い換えれば、これらは、生活に必要な物資を確保した後、社会が多分な余暇を利用して開発、伝承してきた考えや価値観である。

私たちは、昔よりも自分自身のためだけに生き、子供を持たず、出産年齢を過ぎた後の人生を楽しみ(閉経後の寿命が長くなったおかげで)、争いよりも協調を選び、ユーモアと性格に基づいて伴侶を選ぶようになってきている、という報告がある。これらは繁殖の成功や種の存続には結びつかないかもしれない特性である。

文化的な進歩は、私たちが生まれ持った本能よりも早く、より力強く続いていく。現代の環境問題は、地域中心のものから世界規模へと変わった。しかし、私たちはこの変化に生物学的に見て追いつけていない。この差は、私たちのアイデアで埋めていかなければならないのである。

翻訳:森泉綾美

Creative Commons License
私たちはなぜ過剰に消費してしまうのか by ダレック・ ゴンドール is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 3.0 Unported License.

ディスカッションに参加しよう

著者

ダレック・ゴンドール氏は作家兼編集者であり、カナダ政府の政策分析家である。過去には国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)で、国際学術誌『Sustainability Science』の編集委員および研究員を務めた。彼は公共政策の観点から人間と環境の相互作用の影響について執筆している。ゲルフ大学で生態学、またカールトン大学で公共政策の学位を修得している。

ディスカッションに参加しよう