ミドルクラスの目覚めが地球が救う

ローリングストーン誌』7月号の記事を執筆した環境保護主義者のビル・マッキベン氏は、地球温暖化防止の更なる努力のために、化石燃料産業との戦いに拍車をかける提案をし、大きな注目を集めた。

戦う相手を明確にし、敵に対して力を結集することは、二極化体制を形成する戦略であることは言うまでもない。マッキベン氏に対する反論の中には考え深いものもあるが、私はその中でも以下の反論に答えたいと思う。その反論とは、「こうした形で二極化することは真相を歪めてしまう。なぜなら炭素汚染は何百万もの消費者の選択によって引き起こされているからだ。批評家の意見にあるように、私たち皆が、今の苦境に対して責任があるので、1パーセントの人々に対抗して力を結集することは間違っている」というものだ。

私は次の3つの理由でこの反論に異議を唱えたい。第1に、この反論は力の解釈を誤っている。 第2に、真実を追求する方法の中で1つの見方だけを優先している。第3に、ミドルクラス(中流階級)という居心地の良い場所に潜り込んでいる、からである。

エネルギー政策に関して言えば、影響力は平等ではない。たとえば自転車の代わりに車を購入するという消費者の選択は、石炭を採掘するために山頂を爆破するという最高責任者(CEO)の選択とは全く別物である。地元で作られた食物を食べることが流行るかもしれないが(ありがたいことに、すでになっている)、ファーマーズマーケット(地元の農家の市場)で買い物をするという個人の意思決定と、石炭鉱業の代わりに風力発電に出資するという銀行の意思決定は、その影響力や効果の面で到底比較することはできない。

責任は意思決定の影響力の度合いに応じて割り当てられるべきであり、エネルギーに関して言えば、米国で最も影響力のある意思決定をするのが誰なのかは明らかである。巨大な力を持っている(そして持ち続けようと戦う)1パーセントの人々に対して、どうして責任を問わないのだろう?

より正確な理解を

二極化戦略によって「悪者」に対抗するという方法では、気候変動を引き起こす様々な複雑かつ微妙な原因を説明できないという点には私も同意する。しかし、どのような戦略でも、最初はできないことがたくさんあるものだ。

億万長者のウォーレン E. バフェット氏はニューヨーク・タイムズ紙とのインタビューで、「確かに階級闘争があるが、私の階級、すなわち富裕層が闘いをしかけており、しかも勝っているのだ」と、はっきりと説明している。

学者なら、考えられる真相のうち最も複雑なものから始めたいと思うかもしれない。しかしそれはやはり学者の仕事である。つまり微妙な違いの追求である。マッキベン氏を学問的に批評する人々が、知的な手順を踏み、それを理論セミナーの外で応用することは間違っている。複雑なものから始めることは、人々の実際の学び方とは違う。個人にしても、政治団体にしても、である。

ハーバード大学のジョージ C. ホーマンズ教授は、人々は通常、近似法を通じて認知地図を構築すると指摘した。私たちは何かについて大まかにイメージし(地球は平らである)、慎重に取り組むにつれて、それを明確なものにしていく(地球は丸い)。 そしてさらに注意深く見ることによって、微妙な違いを認識する(地球は実は楕円である)。

人々は一般に、逐次近似法を通じて、現実について理解を完全なものにしていく。同様に、社会や社会運動が人々をより複雑な真相へと導くのである。(この教育学的見解の詳しい説明については、私の著書『Facilitating Group Learning(「集団学習の促進」)』をご覧ください)。

マハトマ・ガンジーは、業績をサティヤ(真実)の価値の中に根付かせると同時に二極化する戦略を主導した。振り返ってみると、彼の業績は、ほとんどの人々が実際に学ぶ方法と一致していることがわかる。たとえば、塩の行進(the Salt Satyagraha)が終わるまでに、インド人と英国人はともに、帝国主義について当初知っていたよりもはるかに多くのことを知ることになった。

ガンジーは、社会的葛藤が学習にとって強力な手段となり、とくに真相についての見解が論争されているときにはそうであると気づいた。ジョアン V. ボンデュラン氏(Joan V. Bondurant)は、著書『Conquest of Violence(「暴力の克服」)』の中で、これはガンジーの政治哲学に対する偉大な貢献であると主張している。つまり、熾烈な論争は真相を発見する貴重な手段となりうる。また論争が、純粋な知識の探求よりもすぐれている場合も考えられる。

たとえば私が社会学を勉強し始めた時、社会学は米国の人種間関係で起きている問題について、罪を犯していないだろうと考えた。しかし、現実の社会学の理解は、社会の大方の人々が持つ人種に関する理解と同様、著しく学問の社会学からは「それていた」。

その後、公民権運動が展開され、米国は二極化し、知識人らは実際の出来事から学ぶことになった。そして、多くの米国人だけではなく、学者らも目を覚ました。

このことは社会階級とどのような関連があるのか?

私は、このことがそれぞれの社会階級を考えるのに役立つことがわかった。というのは、社会階級にはそれぞれ独自の文化があり、その一連の規範や考え方は、その階級に属するメンバーが、より大きな経済社会において自分たちの役割を実行するために必要なスキルを支えているからだ。

ただし、文化を場所や国家と結び付けて考える時のように、ある階級の文化を一般化する時は注意が必要だ。なぜなら例外もたくさんあるからだ。一般化は慎重に用いるのが良い。要するに、階級間の違いを考えるのに十分な手掛かりを与えて、階級の解明に役立て、目立つ強みを利用し、弱点に気づきやすくさせるということだ。

ミドルクラスの人々は、力についてあいまいな理解のまま社会生活を営んでいる。そのため彼らは階級闘争に気を留めず、エネルギー政策にいたっては、その一義的な責任を消費者に負わせるという説明で納得してしまうのだ。

たとえばミドルクラスの人々は、いろいろな意味で社会改革に寄与している。彼らはたいてい個人として、近隣地域、都市、さらに大きな世界にも改革をもたらすことができると信じて社会に順応している。また政治的な楽観主義観をもたらし、それが運動を始める一助となることも多い。しかし、彼らは社会に寄与すると同時に、あらゆる階級と同じく、盲点ももたらす。

ミドルクラスという社会の変革者たちが階級を意識することによって、階級の中で培われてきた彼らの思考が鈍る分野に対して用心深くなることができるのだ。

富裕階級と労働者階級の双方で、経済力が社会の中で決定的な力であると広く理解されている。億万長者のウォーレン E. バフェット氏は、ニューヨーク・タイムズ紙とのインタビューの中で、「確かに階級闘争があるが、私の階級、すなわち富裕層が闘いをしかけており、しかも勝っているのだ」と、はっきりと説明している。

ミドルクラスのポジション(席)は違う。そのためミドルクラスでは、何が現実に起きているのかを見ることは難しいのかもしれない。 タイムズ紙のミドルクラスの読者は、2006年にバフェット氏の引用文を読んでも、怒りを爆発させることはなかった。彼らは、ぼんやりとバフェット氏の記事を読み、その情報を処理することはできなかったようだ。

それには理由がある。ミドルクラスの人々は、力についてあいまいな理解のまま社会生活を営んでいる。そのため彼らは階級闘争に気を留めず、エネルギー政策にいたっては、その一義的な責任を消費者に負わせるという説明で納得してしまうのだ。ミドルクラスの人々は、与えられた特権と力の様相から、「被害者を非難する(やられた方が悪い)」という考え方をとくに持ちやすい。

私の大学院時代には、米国社会の社会学的なイメージは主として、「コンセンサス(意見の一致)」だった。公民権運動より前の米国の人種間関係の原理に対する社会科学者の理解を妨げたのは、ミドルクラスに対する認識だったと考えている(これもやはり、力の分析の失敗である)。

マッキベン氏の提案を読んだとき、多くの読者が感じたまさにその不快感は、彼を支持する理由になるかもしれない。学習が行われる場所は、私たちのぬくぬくとした快適な場所の外側にあるのだ。

こうした盲点はミドルクラスでは珍しくはない。別の説明として、失業者は、高校や完全な職業訓練プログラムにとどまっていれば、働いていることができた、というものがある。 しかし、労働者階級の人々は、それが物理的に不可能であることを認識している。 仕事自体が存在しないからだ。米国経済の指導者らは数百万もの仕事を海外へ流出している。仕事の数を決めるのは、高校中退者らではなく、この1パーセントの人々なのである!

ミドルクラスの人々が自分たちの好む説明に疑問を十分に持つようになれば、彼らが学校で学んできたことはもっと大きな社会改革のリソースになる。ミドルクラスが役割に伴ってもたらす利益は、社会改革には非常に貴重なものである。しかし、どの階級においても生じる問題ではあるが、謙虚さを忘れて、自分たちの階級の考え方だけが大事なんだ、と考えるようになった時が危険だ。

それなら、階級のメンバーはどのように自分たちをチェックすることができるのだろうか? まず、自分たちがぬくぬくとした快適な場所の内側で安住してしまっていないかどうかを自らに問うことから始めることができる。答えが「はい」の場合には、その見方は適切ではないかもしれない。なぜなら、根本的な改革(本当に持続可能なエネルギー政策など)の作業というものは、私たちの快適な場所の内側からは行うことができないからだ。

マッキベン氏の提案を読んだとき、多くの読者が感じたまさにその不快感は、彼を支持する理由になるかもしれない。学習が行われる場所は、私たちの快適な場所の外側にあるのだ。私たちが地球と私たち自身を救う場所は、私たちの快適な場所の外側にある。

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この記事はWagingNonviolence.org に掲載されたものです。

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著者

ジョージ・レーキー氏は、Training for Change(トレーニング・フォー・チェンジ)のディレクターである。これまでに1,500ものワークショップや活動家プロジェクトを地域や国、国際レベルで指導してきた。また、行動主義の戦略化に関する記事や本を執筆し、著書には、『Grassroots and Nonprofit Leadership: A Guide for Organizations in Changing Times(草の根・非営利活動のリーダーシップ:変わりゆく時代における組織のためのガイド)』などがある。現在、市場調査会社ラング・リサーチ(Lang Research)の研究員であり、スワースモア大学の客員教授も務める。