知床:生態系に基づく漁業管理

南北に伸びる日本の沿岸地域には、独特の地形条件に合わせた様々な生活様式が見られる。人々は昔ながらの知恵と科学的知識の両方を取り入れながら海と共存している。このように海と人が密接に関わりあう沿岸地域を「里海」と呼ぶ。本記事と掲載ビデオは、里海の事例紹介のシリーズの一環である。完全版のビデオ映像(74分)はこちらからご覧ください。

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知床半島は北海道の北東にあり、世界で最も豊かな亜寒帯生態系の1つである。半島と近隣海域を含めた知床地区は、日本にある4つの世界自然遺産の1つで、陸上生態系と海洋生態系、そして長い歴史を持ち、周囲の自然環境に広く関わっている沿岸コミュニティとが、独特のバランスで相互に作用し合っている。

この地区は生物多様性がきわめて豊富で、絶滅危惧種も何種類か生息しており、代々漁業を営む家族を基礎とする文化遺産が深く根ざしている。知床半島と近隣海域の生態学的特徴の特異性は、北半球で流氷が到達する南限に位置し、また東樺太寒流と宗谷暖流が流れ込むことにより形成されている。

この地区の特異な生態環境は、アイヌのコミュニティに歴史的景観を提供したという点で、この地区の文化的重要性に匹敵している。この北海道の先住民族は、自然と人間の強い精神的なつながりを肯定するアニミズム型の思考体系に基づき、伝統的に地域資源の持続可能な利用を実践してきた。

「知床」とは、アイヌ語で地の果てを意味する。 考古学調査の結果、この地区には2000年以上前から人間が居住していたことがわかっており、土器、トドやアザラシ、魚類の骨が発掘されている。

流氷(季節海氷)が溶け出す初春には、流氷下でのアイスアルジーの増殖に始まり、それに続く植物プランクトンの大増殖がさまざまな生物を引きつける。この地域の一次生産力(植物プランクトン生産力)の高さが、魚類や海産哺乳類、海鳥等、多様な種を支えている。

この地区は、サケ類やスケトウダラ、およびホッケ、メバル類、マダラ、カレイ類、頭足類等、商業的に重要なさまざまな魚種の移動ルート上にある。さらに多数の遡河性サケ類が、産卵のために海から自分たちが生まれた河川に戻り、ヒグマやシマフクロウ等の大型陸生哺乳類に食料を提供すると共に、陸上生態系と海洋生態系間の生物地球化学的フラックスを結びつけている。

多利用型の海域管理

今日でも、漁業部門は地域経済の最も重要な産業で、日本で最も生産性の高い漁業の1つを支えている。主な対象群種と漁具には、定置網でのサケ類の漁獲、スルメイカを対象としたイカ釣り、刺し網によるスケトウダラ、タラ、ホッケの漁獲等がある。2009年には1994人の漁師が漁業を経営し、水揚げ量は8万トン(約250億円)を超えている。

北海道で一般的な2種類の漁法、刺し網(左図)と定置網(右図)。
出典:北海道の漁業図鑑

2007年12月、海洋ワーキンググループが多利用型統合的海域管理計画を提案し、漁業部門は、起草プロセスの最初から参加している。漁業者たちは生態系の不可欠の要素と考えられており、彼らのデータは、管理計画に基づき、費用効果の高い方法での生態系モニタリングのために利用されている。

この計画に基づき、知床世界遺産地域では以下の3つをはじめとするさまざまな保全策が実施された。

– スケトウダラとトドの管理

スケトウダラは、知床地区の最も重要な漁獲物の1つである。知床の漁業者は、根室のスケトウダラを主に刺し網で捕獲している。刺し網漁業者たちは、彼らが持っている現地の知識と経験に基づいて漁場を34の区画に分け、資源を保全するため、そのうち7区画(スケトウダラの産卵場所を含む)を保護区に指定してきた。

知床が世界遺産に指定された後、さらに6区画が保護区に指定されており、毎年、前年度の実績と地域の水産研究機関からの科学的助言に基づいて保護区の再検証が行われている。

また、1990年代初期以降、トドの個体数は毎年1.2%ずつ徐々に増加しており、世界遺産登録後の2007年日本の水産庁は、米国海洋哺乳類保護法で利用されている生物学的間引き可能量理論を採用し、駆除枠の設定手続きを変更した。

– 海洋生態系と陸上生態系の相互関係の支持

遡河性サケ類の多くが、淡水で産卵するため、知床の河川に戻ってくる。河川を遡る天然のサケ類(孵化場に由来するサケや、河川で自然繁殖するカラフトマス等)は陸生哺乳類や猛禽類の重要な食料源で、生物多様性や陸海の物質循環に貢献する。

海洋生態系と陸上生態系の相互作用を維持し、促進するため、河川工作物ワーキンググループの科学的助言に従い、2005年以降、ダムをはじめとする河川工作物の改修が行われてきた。同ワーキンググループは、知床の河川で118の工作物を調査し、それらがサケ類に与える影響の評価を行った。また、災害リスクに対するそれらの影響を考慮しつつ、構造的変更も実施している。改修によって人口密集地域の災害リスクが増大する可能性があるため、そのまま維持された工作物もある。

2008年1月末現在、25の構造物が改修されたか、改修中である。そうした措置の効果を評価するため、3カ年計画によって遡河、産卵場所の数、底質の組成、流速、流出量のモニタリングが行われている。

– 海洋レクリエーション活動

環境が現地の漁業や海洋生態系に悪影響を与えないよう、海洋管理計画には、レクリエーション活動に関して,知床国立公園利用適正化検討会議が作成した規則に基づいて行われる旨が規定されている。この会議は、学者、観光業界とガイドの代表者、環境NGO、および森林、沿岸警備、環境並びに地方自治体を代表する公務員で構成されており、パトロールや観光客の利用状況のモニタリングを目的としたその他の活動の規定、観光客向けの規則の策定、エコツーリズムの促進に携わっている。

参加型アプローチに続いて

知床アプローチでは、既存の共同管理を拡張する形で新しい調整システムが確立され、今や複数の部門から広範なステークホルダーが統合されている。このシステムによって多様な関係者間の情報や意見交換が促進され、管理計画や規則の正統性が強化された。

アイスランドやニュージーランドなどの国々においても、生態系に基づく漁業管理の枠組みが提案されているが、そうした枠組みにおいては市場ベースの個別的に譲渡可能な漁獲割当が中心的な政策手段となっており、知床とは全く異なるアプローチである。やはり海洋生態系の保全や生計の維持には、唯一絶対の処方箋は存在しないことを示している。

知床アプローチでは、地域の漁業者たちは、政府による監視や制御の対象ではなく、生態系ベースの管理に不可欠で重要な生態系モニタリングに協力し、また資源保全への積極的な関与を果たす参加者として位置づけられるのである。

Creative Commons License
知床:生態系に基づく漁業管理 by 松田 裕之, 桜井 泰憲 and 牧野 光琢 is licensed under a Creative Commons Attribution-NoDerivs 3.0 Unported License.

著者

横浜国立大学環境情報研究院 教授。DIVERSITAS科学委員、日本生態学会会長、(一社)水産資源・海域環境保全研究会会長、日本ユネスコ国内委員会MAB計画分科会調査委員等、2007年よりPew Marine Conservation Fellow。主な訳書に『つきあい方の科学』(ミネルヴァ書房)、著書に『死の科学』(光文社、共著)、『海洋保全生態学』(講談社、編著)、『環境生態学序説』(共立出版)。

北海道大学大学院水産科学研究院海洋生物資源科学部門 教授。専門分野:海洋生態学、水産海洋学。CIAC(FAO:国際頭足類諮問機構)組織委員会委員、知床世界自然遺産地域科学委員会委員、同海域ワーキング座長、中央環境審議会野生生物部会・自然環境部会臨時委員、水産海洋学会会長、日本水産学会副会長等。主な著書は「海洋保全生態学」(講談社、2012)

(独)水産総合研究センター中央水産研究所の漁業管理グループ長。IUCN生態系管理委員会漁業専門家グループ委員、北太平洋海洋科学機構(PICES)人間領域専門部会共同議長、国際地圏生物圏計画(IMBER)人間領域作業部会委員等。主な著書はFisheries Management in Japan: its institutional features and case studies (Springer, 2011)。